静岡県静岡市 JR静岡駅から徒歩10分
平成14年11月23日
(巽櫓と東御門)
駿府城
今から約650年昔の室町時代、今川範国のりくにが駿河守護職するがしゅごしょくに任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。
9代義元よしもとの今川氏全盛の頃、徳川家康は7歳から18歳までの間、人質として駿府に暮らしました。
永禄3年(1560)今川義元が桶狭間おけはざまで織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄11年(1568)武田氏により駿府を追われました。
徳川家康は、駿府の武田氏を天正10年(1582)に追放した後、同13年(1585)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。
しかし徳川家康は、天正18年(1590)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏なかむらかずうじが駿府城の城主になりました。
その後、徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603)に征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じられ江戸幕府を開きます。
慶長10年(1605)に将軍職を息子秀忠ひでただに譲り、同12年(1607)には大御所として三たび駿府に入りました。
この時に天正期の城が拡張修築され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。
城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪くるわを内側から「本丸」、「二ノ丸」、「三ノ丸」とする典型的な輪郭式りんかくしきの縄張りとしています。
大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請てんかふしん」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
また、安倍川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。
静岡市教育委員会
(説明板より)
五層七階の天守閣は、寛永12年(1635年)に焼失してしまいました。
本丸跡に徳川家康の銅像が建っています。 (平成14年11月23日) |
歩兵第34連隊跡の碑 (平成14年11月23日) |
駿府城略年表
建武4年 | 1337年 | 初代・今川範国、駿河国の守護に任ぜられる。 (建武5年説あり) |
天文18年 | 1549年 | 徳川家康、今川氏の人質として駿府で生活。 |
天正14年 | 1586年 | 徳川家康、公式に駿府に入る。 |
天正17年 | 1589年 | 天守閣を始めとするニノ丸までの駿府城完成。 |
慶長12年 | 1607年 | 駿府城本丸、二ノ丸の修築をはじめる。 12月に出火し、御殿・天守閣など本丸の全てを焼失。 直ちに再建にかかる。 |
慶長13年 | 1608年 | 本丸御殿等完成。 |
慶長15年 | 1610年 | 天守閣完成。 |
元和2年 | 1616年 | 徳川家康死去(75歳) |
寛永12年 | 1635年 | 城下より出火し城内に延焼。 天守閣・御殿・櫓・塀等の大半を焼失。 |
寛永15年 | 1638年 | 御殿・櫓・城門等が再建されるが、天守閣は再建されず。 |
宝永4年 | 1707年 | 宝永大地震により石垣等が倒壊、建物も1/3が焼失。 |
宝永5年 | 1708年 | 駿府城の修築工事を行う。 |
安政元年 | 1854年 | 安政の地震により駿府城内外の建物・石垣などほぼ全壊する。 |
安政4年 | 1857年 | 修復工事に着手。(翌年完了) |
明治2年 | 1869年 | 『駿河府中』を『静岡』と改称。 |
明治3年 | 1870年 | ニノ丸払い下げ。 以降明治9年までに大手門以下各城門払い下げ、取り壊される。 |
明治29年 | 1896年 | 駿府城を陸軍省に献納 |
昭和24年 | 1949年 | 静岡市、駿府城跡の払い下げを受ける。 |
昭和26年 | 1951年 | 『駿府公園』と名称が決まる。 |
平成元年 | 1989年 | 復元・巽櫓たつみやぐら完成 |
平成8年 | 1996年 | 復元・ニノ丸東御門完成 |
(「駿府城独案内」のパンフレットから抜粋)
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