鈴木比呂志 すずき・ひろし

大正10年(1921年)5月28日〜


詩碑



詩碑
(長野県上田市・芳泉寺)





(平成20年10月29日)

鈴木比呂志小歴

大正10年5月28日群馬県(現富岡市)に生る。
父は明星派の歌人(国文学者)の鈴木旭山(与謝野鉄幹、晶子の門下)。
比呂志5歳より万葉集、伊勢物語、つづいて12歳より源氏物語湖月抄を、父旭山より相伝、爾来独学にて古典を研修す。
50年の星霜源氏に沈潜し、13年かけて源氏物語を現代詩訳し、講談社より昭和62年出版、源氏物語享受史上の画期的偉業(早稲田大学教授中野幸一序文)と評さる。
比呂志の詩業は、楽聖山田耕筰、服部良一の知遇を得て、交響楽のための詩や5百余の市歌、校歌を創るなど広範囲に及ぶ。
詩碑の「笛」は、悠久、静逸なる家郷の自然と人間とのふれあいを謡いあげたもので、柳楽真純大和尚に乞うて芳泉寺の聖地にその詩情を刻むものなり。

(碑文より)

芳泉寺



芳泉寺
(長野県上田市常磐城3−7−48)





(平成20年10月29日)
芳泉寺



芳泉寺
(長野県上田市常磐城3−7−48)





(平成20年10月29日)

浄土宗 総本山知恩院直末 松翁山 円覚院
芳泉院(上田市常磐城)

上田城を西へ徒歩5分、千曲川の旧跡「古舟の渡」を越え、北に向かう善光寺道の故地常福寺坂の上、往古、当山は左岸の三楽寺(安楽常楽長楽)と右岸の三福寺(大福常福信福)の一山常福寺として「ふくらくおうげん福楽往還」の徴憑。
慶長5年(1600年)、上田藩祖真田信之公(上田城主昌幸嫡男、幸村の兄)は、その常福寺(現芳泉寺)に下之条村の全称庵主含霊を迎えて菩提寺と定めた。
そして九度山に蟄居する父と弟のもとへ「年々信州の四季の物」が届いたのは公の正室小松姫(本多忠勝娘、家康の養女)も心ばえであったという。
昭和平成の今日、北は秋田から南は鹿児島に及ぶ「真田六文会」の続柄不断の基礎者として、お姫様の中核的存在感は重い。
元和6年(1620年)2月24日、公は姫(大蓮院殿)の死にあって「ああ、わが家のともしび消えたり」と嘆き、当山と姫の密葬の大導師不残上人御住持の勝願寺(埼玉県鴻巣市)と真田氏ゆかりの正覚寺(群馬県沼田市)の三ヶ寺に宝篋印塔を建立して分骨、更に当山にはお霊屋をも造立。
そのお霊屋は信之公と倶に松代の皓月山大英寺へ。
当山本堂南の弁天池は名残の史跡。
元和8年(1622年)上田城主信之公(大鋒院殿)は長野市松代へ移封。
11月小諸城主仙石忠政公(法光院殿)が入部。
霊地常福寺を修営。
翌春正月小諸市の松井山しょうせいざん歓喜院かんぎいん宝仙寺ほうせんじから、父円覚院殿秀久公の遺骸を、小松姫墓北隣へ改葬。
円覚院芳泉寺と尊称、香華院こうげいんと定めた。
秀吉小田原征伐の武勲者仙石氏中興秀久公は伏見城中で大泥棒石川五衛門を生け捕るなど愛称権兵衛さんで通る強の者、秀吉は名品「千鳥の香炉」を褒美とした。
仙石氏後裔は率土そっとの物品ものしなに非ず」と明治天皇に献上、御物ぎょぶつとなる。
勝願寺には雄偉な宝篋印塔がある。
山号の松翁山は忠政の子、城主政俊(晩年は直政を称す)公の法号松翁院殿の美諡に因る。
公は年少にして父忠政公を喪い、その御生涯はまさに篤信者にして精進、俗に塩田四十七池、六ヶ村堰せき、桝網ますあみ用水、網掛用水など水利土木、更には真田紐等じつに「殖産振興の藩主」の誉れが高い。
上田藩草創期の開発者仙石氏の霊廟と藩主松平氏五三桐紋付「御城主代々神儀」の古霊牌を祀る。

(説明板より)




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