平成25年3月3日

蒋介石 しょう・かいせき

1887年10月31日~1975年4月5日

中華民国・台湾・澎湖島の「第一賓館」でお会いしました。


中国近代の軍人・政治家。
浙江省出身。
1907年(明治40年)に来日。
翌年、振武軍事学校に入学。
留学中に中国革命同盟会に入会。
辛亥革命に際して帰国したが、第二革命に失敗して再来日。
1923年、ソ連を軍事視察し、帰国して黄埔こうほ軍官学校初代校長に就任。
孫文の死後、北伐を継続。
1927年、上海クーデターを断行して南京国民政府を組織する。
1928年8月、国民政府主席。
満州事変後は安内攘外論を唱え、共産党の討伐を優先して対共産党宥和的政策を取り続けたが、西安事件を契機に共産党との一致抗日を迫られ、日中戦争勃発後は南京から武漢、重慶へと遷都しつつ抗戦を継続した。
日本の敗戦後の国共内戦に敗れ、1949年の末に台湾へ逃れ、大陸反攻を図るが果たせなかった。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月第1版第1刷発行)






「民族救星」 総統蒋公披風銅像
(中華民国・台湾・澎湖島・第一賓館)




(平成25年3月3日)

 平成25年3月3日

中華民国・台湾・澎湖島の「第一賓館」でお会いしました。





「大中至正」




(平成25年3月3日)
第一賓館
(旧・澎湖貴賓館)

【澎湖縣定古蹟 第一賓館】

歴史と沿革

「第一賓館」は日本統治時代には「貴賓館」と呼ばれ、看板には「軍人休憩所房舎」と書かれてありました。
第二次大戦後に国民党政府に接収され、「第一賓館」と改称されました。

日本統治時代の1940(昭和15)年、澎湖庁が「貴賓館」(第一賓館)を建設しました。
澎湖庁の建築技師末安猛による設計で、澎湖庁の職員黄得永が工事監督を務め、宏志土木請負組合の許令咸が建設を担当しました。
時はおりしも日中戦争のさなかで、建築材料の購入や輸送は困難を極めましたが、1942(昭和17)年10月26日、大田政作長官が上棟式を執り行い、1943(昭和18)年2月に落成を迎えました。

1945(昭和20)年8月15日、日本の無条件降伏により、台湾と澎湖の日本統治は幕を閉じました。
1949(民国38)年5月17日、すでに辞任していた蒋介石総統が初めて澎湖に降り立ち、貴賓館に宿泊して5月26日に馬公から高雄へ向かいました。
それ以来貴賓館は長く「蒋公行館」とされ、「第一賓館」と改称されました。

1956(民国45)年、第一賓館を総統専用の行館とするため、第一賓館内部の和風空間が一部取り壊され、西洋風の居住空間に改築されました。
さらに書斎、食堂、蒋経国氏の専用個室を増築し、第一賓館の南側に戦時に備えた地下指揮室を設けました。

1958(民国47)年の金門823砲撃戦の際は、蒋介石総統が第一賓館に戦時指揮室を設立し、「閃電」、「鴻運」、「轟雷」計画を実行しました。
金門砲撃戦が終ると、蒋介石総統は澎湖を巡視に訪れるたびに第一賓館を宿としました。
その後を継いだ蒋経国総統も第一賓館に何度も宿泊しました。

建築の特色

第一賓館は和洋折衷の建築様式となっています。
内部の空間は「洋風空間」と「和風邸宅」の二つの部分に分かれています。
洋風空間には「表玄関(正面玄関、広間)」、「応接室(洋風の客間)」、寝室があります。
和風邸宅は「内玄関(側面玄関)」、二組の「座敷(和風の居間)と次の間(座敷の隣の部屋)」からなっています。
入り口の玄関は当時流行していた「入母屋造」の屋根と洋風門扉の構造になっており、家屋の外壁は主に烏石で造られた耐力壁構造になっています。
内壁の間仕切り壁は当時最先端だった洋風の「木摺漆漆喰(板に漆喰を塗って仕上げた壁)」と伝統的な和風の「竹木舞造壁(竹を組んで漆喰を塗った壁)」による工法が用いられています。
座敷と次の間を仕切る引き戸の上の欄間にはヒノキの板に富士山の景色を透かし彫りした特殊な工法が用いられています。
入口玄関の地面と壁面には澎湖特産の「洗砂頭」、「洗石子」、「レンガ造漆喰壁」の工法と材料が使用されています。
屋根は切妻屋根となっており、セメント製の理想瓦(上瓏瓦)が張られています。
1956(民国45)年に澎湖が修築した際、内部の間仕切り壁を一部改築しました。
また板張りだった廊下にじゅうたんを敷き、寝室の畳を外してフローリングに改造しました。

第一賓館はその建築の特色と歴史的な意義により、1998年12月10日に県指定の史跡となりました。
2000年には頼峰偉県知事が軍の協力を得て第一賓館を県の管理に置きました。
県では2002年に調査研究および修復計画をまとめ、2006年に改修工事に着手しました。
そして2008年7月30日、王乾発県知事が上棟式を主催して新たな看板が掲げられました。
2009年に改修工事が完了し、2011年5月18日に開館を迎えました。

(日本語リーフレットより)

和室




第一賓館の模型




(平成25年3月3日)
蒋介石の寝室 蒋介石の軍服

蒋中正前総統の寝室

ここは蒋介石総統とその夫人宋美齢女史の寝室です。
室内は木造の内装がなされており、シングルベッドが2つ、デスク、椅子、机、ソファー、茶机、ベッドフレーム、収納型ヘッドボード等を含む家具の多くは当時から残されているものです。
また、家具には「壽」の文字模様がはっきりと刻まれています。

(日本語解説パネルより)

蒋介石の書斎

蒋介石前総統の書斎

ここは蒋介石前総統の書斎です。
ここでは事務や文書処理も行われていました。
木造の内装がなされ、室内は清掃と整理整頓が行き届いています。
窓の外には草花や木々が生い茂り、静かな雰囲気に満ちています。

(日本語解説パネルより)

地下戦闘指揮所

【蒋介石・田中義一箱根会談】

日支の最後の歩み寄りは、昭和2年10月の田中義一首相と森恪と蒋介石の箱根会談である。
蒋介石は、張群を帯同して東京に入ると、次のような声明を発した。
「貴我両国民は一致して、東亜の平和に努力するため、まず中国国民革命の完成を謀り、真正なる両国歓喜の基礎を建てなければならぬ。かくしてここに同文同種、共存共栄の理論は、はじめて実現し得るのである」

蒋介石は入京に先立って、まず、張群をして東京の要人と折衝せしめた。
張は陸軍省に鈴木貞一中佐(軍事課高級課員、のち中将)を訪ね、次に参謀本部の第二部長であった松井石根少将を訪ねて、田中首相および森恪政務次官と箱根で会談した。
蒋、田中の箱根会談は3時間に及んだといわれている。

蒋と田中および森との会談の結果は、
1、国民党は共産党と分離し、ソ連と断って後の国民革命の成功、支那の統一を図ることを日本が認める。
2、満州に対する日本の特殊地位と権益を支那は認める。
これらを要点として、双方に円満な了解が成立した。

このときこそ、日支提携の絶好にして最後のチャンスだったが、果たして日本が支那の統一、換言すれば、蒋介石の北伐完成を少なくとも妨害するかしないかにかかっていた。
田中首相は、この協定によって、第二次済南出兵に反対であったが、鈴木貞一の直話では、「箱根会談のさい、済南に出兵しないという具体的な協定はなかった」と言っている。

張群の『中日関係と米国』(昭和27年著)には、「蒋総統は田中と談話後、日本軍閥がその侵略伝統の野心を放棄せざるを知る。果然、昭和3年5月(第二次済南出兵)、田中内閣は山東に出兵し、我が北伐を阻み、済南惨案を造成す。当時総統は、国家民族の存亡問題を徹底考慮し、乃ち暫時忍譲し、先ず国内の統一を求め而して後、外侮に抵禦することを決定す」とある。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)~事件臨場記者の遺言~』 光人社 昭和56年4月 第1刷

令和元年10月8日 追記)




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