昭憲皇太后 しょうけんこうたいごう

嘉永2年4月17日(1849年5月9日)〜大正3年(1914年)4月11日


父は左大臣・一条忠香ただか
はじめ富貴君、のちに寿栄君と改称。
慶応3年(1867年)女御にょうごに定まり、明治元年(1868年)美子はること改名して入内じゅだい
女御宣下があり、即日、皇后に立てられた。
女子教育の振興、慈善事業の発展、養蚕など産業の奨励、宮中の洋装化などにも熱心で、日本の近代化に貢献した。
没後昭憲皇太后と追号された。
御陵は伏見桃山東陵。


明治神宮御苑



明治神宮御苑
(東京都渋谷区代々木神園町1−1)





(平成20年2月21日)

明治神宮御苑

明治天皇御製
  うつせみの代々木の里はしづかにて
    都のほかのここちこそすれ

この御苑は江戸時代の初めから大名加藤家、井伊家の下屋敷の庭園でありましたが、明治初年皇室のご料地となり、明治天皇の思召により所々模様替えがなされ、昭憲皇太后にはたびたび行啓になられた由緒深い名苑であります。
面積は約83,000平方米(2万5千坪余)で武蔵野特有の面影を残した苑内には、隔雲亭、御釣台、四阿南池、菖蒲田、清正井などがあり四季折々の眺めは誠に趣があり、殊に6月に咲き競う御祭神ご遺愛の花菖蒲の美しさは格別です。

(説明板より)

隔雲亭



隔雲亭かくうんてい
(明治御苑)





(平成20年2月21日)

隔雲亭

元の隔雲亭は明治33年明治天皇の御思召により皇后様のために建てられましたが、戦災により焼失したので、昭和33年篤志の寄附と社殿御造営残材とにより一部増築して再建したものであります。

(説明板より)


昭憲皇太后御座所跡




昭憲皇太后御座所跡
広島城本丸・上段)




(平成22年5月1日)

昭憲しょうけん皇太后御座所跡

明治天皇の后きさきである昭憲皇太后が、日清戦争の折に滞在した建物の跡です。
大本営跡から西側に少し離れた場所にあります。
もともとは、第五師団監督部庁舎として明治23年(1890)に建てられたものです。

(参考:財団法人広島市文化財団広島城 編集『広島城総合案内』 平成20年6月発行 広島市市民局文化スポーツ部文化財課 発行)


御座所跡



昭憲皇太后陛下御座所跡
(静岡県沼津市・千本浜公園)





(平成18年4月15日)

昭憲皇太后陛下御座所跡

昭憲皇太后御歌

くれぬまに
 沼津のさとに
   つきにけり
しばしみてこむ
 海のけしきを

侍従長 入江相政

昭憲皇太后陛下(明治天皇の皇后さま)が、初めて沼津御用邸に行啓されたのは、明治39年(1906)1月8日である。
以後毎年、約3か月間おいでになられている。
大正2年(1913)には、7か月間沼津におられ、12月に再びおいでになり、翌年3月下旬御発病、4月10日東京へお帰りになり、11日ついに崩御された。
御在邸の折、おしのびで市内各地へお出かけになっているが、初めに掲げた御歌によって、陛下が、沼津の風光をいかに愛されておられたかが拝察できる。
陛下が千本浜へ行啓されたのを記念して、現在の防潮堤の所に御座所跡が設けられていたが昭和50年、防潮堤拡幅工事のため移設することになり地元の「千本をよくする会」の尽力により御歌の碑をも建立して永く陛下の御遺徳をしのぶこととしたのである。

昭和61年10月1日
沼津市

(説明板より)


行啓の地



「英照皇太后・昭憲皇太后 行啓之所」の碑
(大阪市中央区・マイドームおおさか)





(平成20年6月18日)
行啓の地



英照皇太后・昭憲皇太后 行啓の地
(大阪市中央区本町橋2−5・マイドームおおさか)





(平成20年6月18日)

昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡の碑



昭憲皇太后大喪儀葬場殿跡の碑

(東京都渋谷区・代々木公園)





(平成20年2月21日)





聖徳記念絵画館
(東京都新宿区霞ヶ丘町1−1)




(平成22年11月10日)

東京都選定歴史的建造物
聖徳記念絵画館

所在地 新宿区霞ヶ丘町1番1号
設計者 明治神宮造営局
建築年 大正15年(1926)

明治神宮外苑は、多くの国民の寄附金と勤労奉仕によって、旧青山練兵場の跡地に造成され、大正15年明治神宮奉賛会によって奉献された。
広さは約30万u、神宮球場をはじめ数々のスポーツ施設が点在し、スポーツの森として都民に親しまれている。
その中心となる聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の事蹟を縦3m、横2.7mの大壁画80枚に表し、後世に伝えることを目的に建設された。
設計は公募により、一等に入選した小林正紹氏の案を基に明治神宮造営局(佐野利器、小林政一)が修正し、完成したものである。
重厚な建物の外壁は岡山県万成産の花崗岩石貼り、中央の頂部にドームをのせ、左右対称の両翼部2階が展示廊となっている。
中央正面階段よりアーチ型の玄関を入ると内部は大広間となり、その大空間壁面は国産大理石貼り、小部にタイルを用い、石膏の装飾文様等が配されている他、ステンドグラスによる採光も考慮された壮麗な意匠となっている。

東京都生活文化局

(説明プレートより)





『明治神宮外苑之記』碑

(東京都・明治神宮外苑)




(平成22年11月10日)

明治神宮外苑の記

石碑の題字 「明治神宮外苑之記」
         明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁ことひと親王殿下の篆書てんしょ
撰文      明治神宮奉賛会 会長 徳川家達いえさと
石材      東北仙台産の板岩

高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意

明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。
これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕ついぼし、敬仰けいぎょう申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。
これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中しばしば陸軍観兵式を行なわせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金ごかしきんをはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた80枚の大壁画が揚かかげられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びつつ、青少年の心身鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳すうこうしんげんの気漲みなぎる内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。

大正15年10月
            明治神宮奉賛会 会長 徳川家達

(説明板より)




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