松山城 まつやまじょう

(別名:松嶺城)

山形県酒田市字新屋敷36-2・松山町歴史公園


 平成26年11月22日

松山町歴史公園







 松山城本丸御殿跡





(平成26年11月22日)

松山城本丸御殿跡

松山藩の藩主が居住した場所と政庁があっった場所です。
松山城は、松山藩3代藩主酒井忠休ただよしが26年間、幕府の要職を勤めた功績により、安永8年(1779)に築城が許されました。
また、大手門には「鯱しゃち」を上げることが許されました。
築城は、天明元年(1781)、本丸・二の丸の総面積が約3万8千坪の広大な計画で着工し、7年の歳月をかけて進められましたが、ついに未完成のまま築城を終えました。

(説明標柱より)

大手門
(平成26年11月22日)

松山藩及び築城の沿革

中世この地方一帯を遊佐郡平田郷中山地方と称す
江戸期初頭荘内藩主酒井忠勝ただかつ公の遺命により第3子酒井忠恒ただつね公に庄内の所領の中中山村外35ヶ村及び村山郡の中左澤地方74ヶ村併せて知行2万石を与え中山に分封せんことを幕府に出願す
天保4年(1647年)12月11日其の許可を得たり
依って寛文元年(1661年)中山地内稲荷沢古舘の跡を選び此処に舘を構築し中山陣所と公称し政庁を開く
翌2年忠恒公家臣団と倶に鶴ケ丘より移駐し鶴ケ岡亀ケ崎に因み中山を松山に改め以後松山藩と公称す
超えて第3代藩主酒井石見守忠休ただやす公幕閣に列し若年寄の重職を歴任す
安永8年(1779年)12月15日幕府忠休公永年の勤功を嘉し上州の地桐生地方5千石を加増し城主を命じ松山に築城を許可す
以後松山藩2万5千石の表高となる
依って宗藩鶴ケ岡の軍師長坂十太夫正逸為に築城の縄張を行い執政上野織右ヱ門安邦を総奉行に任命し天明元年(1781年)5月工事に着手す
以来巨額の工費と人力を動員し天明7年(1787年)9月に至り本丸仮御殿を落城し第一次の築城工事を終わる
時已に忠休公逝去し第4代忠崇ただたか公之に替る以来庄内松山城としてその偉容を近隣に誇り幕末に至る
時に藩主第7代紀伊守忠良ただよし公たり世情まさに王政復古の動乱期に当り慶応4年(1868年)の春以来宗藩と共に武門の誉れを守る
明治元年(1868年)維新後宗藩鶴岡と共に官軍に抗した理由により時の政府に城池没収取り毀しの厳命を受け遂に全城郭を破却の止むなきに至りここにその当時の偉観を全く失うに至る
実に創藩以来二百年余築城以来80有余年に亘る松山藩の命運であった

松山城大手門

天明元年(1781年)築城に当り本丸西方外濠に面し城郭の正面として翌2年9月に竣工し通常端門又は多聞楼と称される
完成以来9年目即ち寛政2年(1790年)秋10月10日の早暁屋上に落雷し之を焼失す
時に酒田在住の庄内藩士並びに松山藩財政方本間四郎三郎光丘同次郎四郎重利の両士大手門再建を藩庁に出願す
藩庁為に幕府の許可を俟ち寛政4年(1792年)6月26日再建完成す
現存の城門即ち大手門これなり
翌5年山形銅町の鋳工庄司氏造るところの青銅の鯱一対 屋上に飾り再建の主旨を銘記す
鯱の高さ4尺8寸(約1.45メートル)造形極めて優美なり(現在屋上にある鯱は大手門再建二百年を記念して平成4年4月山形市銅町庄司逸雄氏により制作されたものである)
藩政時代階上に非常の兵具を配置し階下の門扉(現在無し)の両側に下士12名門番として昼夜常駐せり中1名は面番役又1名は下座見役とし常に拍子木を持ちその打数により時刻及び登城の士の通過を門番に通報する
但し藩主不在中は大門扉を閉じ側の潜り戸をより通行することを例とせり
明治2年城郭破却中来松の按察使坊城俊章閣下による格別の取り計らいにより破却を免れ得たものと伝えられる
後に旧藩校の流れを汲む松嶺正心学校の校舎として子弟教育の場となり貢献長期に亘る
再建以来実に二百有余年の風雨に耐え当時の城郭をしのぶ唯一の建物として今尚毅然として城跡に建つ
昭和45年(1970年)2月4日山形県文化財の指定を受け現在に至る

平成23年6月
酒田市教育委員会

(説明板より)







 愛山頌徳碑





(平成26年11月22日)

愛山頌徳碑

斉藤元経(げんけい)(愛山)
嘉永5年(1848)~大正15年(1926)
素封家
松山の豪商斉藤弥右衛門の子として生まれ、明治22年市町村制度の施行により松嶺町の町会議員として当選する。
明治24年から明治28年まで飽海郡会の大地主議員に選出された。
さらに明治32年から同34年迄松嶺町第六代の助役として町政進展に活躍した。
また、町内子弟の教育に意を用い、義務教育施設の整備に対し貢献する所大きく、地域産業の振興にも寄与し、乾田馬耕かんでんばこうの奨励を始め農業の振興にも尽力した。
風雅を好み俳諧をよくした。
大正11年8月、彼を慕う人たちにより、愛山頌徳碑が建立され、平成2年歴史公園整備事業により砂山公園から当地に移転した。

(説明板より)







 川俣茂七郎碑





(平成26年11月22日)

【碑文】

贈従五位川俣君碑銘   従三位勲三等侯爵徳川圀順題額
君諱次周稱茂七郎出羽松山藩主酒井侯侍醫川俣玄璞第三子妣田口氏天保十年生于江戸邸天資
温厚而沈毅少為近習頭取嘉安之際欧米諸國連求互市於是尊攘論大起海内騒然君夙抱勤 王之
志遊桃井可堂門修文練武可堂慷慨憤世文久三年将集義徒赤城山攻略沼田城進襲横濱君脱藩與
焉事敗奔水戸謀再擧元治元年三月水藩田丸真允藤田信等唱義於筑波山宣允為総帥君與信善擢
為監察参機務尋移軍於日光及太平山復旋筑波山君與岩谷信成徇結城壬生二藩■同盟有績七月
七日幕軍来攻君属藤田隊邀撃高道祖原幕軍退次下妻翌夜竒襲斫營大破之君與有功是時水藩姦
黨入水戸城逞暴威藩主徳川慶篤在江戸憂之遣支族松■頼徳鎮撫焉正黨諸士従之首領武田正生
山國共昌等迎途擁護而東宜允等聞急議曰先除内姦而後攘外夷君等不肯曰是内訌非志士所關焉
相率屯小川館別有所圖會幕軍来襲衆寡不敵走鹿島郡謀南航艤大舩津衆争乗殆覆轉上行方郡破
麻生藩警備入新治郡幕軍與諸藩兵合追撃益急且戰且却遂至西茨城郡大池田村羽衣里君謂事竟
不可為傾■兮與部下各任所往而獨入民舎西向拜 皇城自刃時年二十六實九月八日也土豪森平
三郎石井惣五郎等感其壮烈私相地臺■厚葬焉従士佐野某殉之■其側大正四年
天皇擧即位禮 特旨贈従五位九年 詔合祀靖國神社頃郷人胥謀設會■金欲樹碑於松山公園并
標石於常陸羽衣墓上以垂其功績於不朽矣徴予文予嗣■允後故不敢辞乃叙梗■且係銘曰
 慷慨憂國 率先擧兵 雄圖一蹶 取義舎生 聖恩隆渥 追遠荷榮 貞珉屹立 爰表忠誠
大正十五年歳在丙寅三月 従三位勲三等田丸■稔撰  下総  渡邊孚書
     勤王家川俣茂七郎君功績顕彰會建  今井徳治 刻

川俣茂七郎碑

川俣茂七郎
天保10年(1839)~元治元年(1864)
松山藩主の侍医川俣玄璞げんぼくの三男として江戸に生れ、早くから尊皇攘夷の思想を抱き、文久3年25歳の時、江戸藩邸を脱して、上州赤城山麓で挙兵を企図したが失敗し、江戸長州藩邸に匿われた。
これより水戸勤王派と通じ、元治元年筑波山に挙兵し幕府軍と戦う。
その後水戸藩の志士らと分かれて再び幕府軍と戦ったが敗北、同志は四散し、茂七郎は、志半ばにして、茨城郡大橋村羽衣(現在の茨城県笠間市)で自刃した。
享年26歳。
大正4年11月従五位を贈られ同9年靖国神社に合祀された。
大正13年勤王家川俣茂七郎功績顕彰会が結成され、同15年彼の勤王愛国の精神を顕彰するため砂山公園に顕彰碑が建立され、平成2年歴史公園整備事業により当地に移転した。
川俣茂七郎の所持の槍には時世の句が刻まれてあった。

みちのくの木の間かくれの山桜
     ちりてぞ人や夫と知るらん

(説明板より)

松山城馬出跡
(平成26年11月22日)
馬出跡土塁
(平成26年11月22日)







 松森胤保翁像





(平成26年11月22日)






 震災記念碑

 明治27年10月22日に庄内地方を襲った大地震の被害状況などが刻まれている。




(平成26年11月22日)

 松山文化伝承館


【酒井家の入部】

関ヶ原の戦いで、上杉氏のついた石田三成方(西軍)が敗北した結果、荘内は徳川家康方(東軍)の最上義光の支配下となり、慶長6年(1601年)、志村伊豆守が東禅寺とうぜんじ城代となって、酒井氏入部までの間、この地を治めることになった。
慶長8年(1603年)、庄内の地を掌中した最上義光は、鶴亀の雅称がしょうを用いて酒田の東禅寺城を「亀ケ崎城」、鶴岡の大宝寺城を「鶴ケ岡城」と改名した。
元和8年(1622年)、最上氏は改易になり、その旧領のうち庄内藩13万8千石は、信州松代(現・長野市松代)から譜代大名である酒井家3代目藩主の忠勝が転封され、鶴岡の初代藩主となった。
忠勝は、正保4年(1647年)病床に臥し、その死期を悟って遺言をしたため、三男忠恒ただつねに松山の領地2万石を与え城主にした。

14年半の間、江戸にいた忠恒は、寛文2年(1662年)、初めてこの地に入部した。
入部に際して、忠恒は中山村の農民を、町づくりのために城下の本町に移した。
寛文4年(1664年)、本家の「鶴ケ岡」「亀ケ崎」に倣って藩の繁栄を願い、また、父から拝領した当地には多くのマツが群生していたので、縁起の良い「松」「竹」を用いて、中山村を松山に、田尻村を竹田村に改めた。

【歴代藩主】

初代 酒井忠恒ただつね 
     寛永16年(1639)~延宝3年(1675)
     統治期間:正保4年(1647)~延宝3年(1675)
庄内松山酒井家初代。
庄内藩主・酒井忠勝の三男として鶴岡に生まれる。
正保4年(1647)の父・忠勝の逝去にあたり、その遺言により庄内松山2万石松山藩の初代藩主となる。
寛文2年(1662)に松山に初入部する。

2代 酒井忠豫ただやす
     明暦3年(1657)~享保20年(1735)
     統治期間:延宝3年(1675)~享保17年(1732)
庄内松山酒井家2代。
松山藩初代藩主・忠恒の嫡男として松山に生まれる。
延宝3年(1675)に家督を継ぎ松山藩主となる。
その後、たびたび大坂城加番を務める。
享保16年(1731)に次男の忠寄ただよりが宗家の養子となり7代目の庄内藩主となる。
長男・忠英ただふさが眼疾のため廃嫡はいちゃくとなり、庄内藩家老・酒井直隆なおたか(初代鶴岡藩主の六男の子)の子・忠休を養嗣子ようししに迎え、松山藩3代目を相続させた。
この後、松山藩主の家督をめぐりお家騒動が発生する。

3代 酒井忠休ただよし
     正徳4(1714)~天明7(1787)
     統治期間:享保17年(1732)~天明7年(1787)
庄内松山酒井家3代。
享保17年(1732)に松山藩主・酒井忠豫の養嗣子として迎えられ、松山藩3代藩主となる。
幕府の奏者番そうしゃばん・寺社奉行・若年寄と、幕閣在職長年の功で5千石加増され、松山の地に築城を許される。
要職中は常に江戸にあり、江戸出費の累増と農村の疫幣により、藩財政が窮乏し藩内が著しく動揺する。
宝暦2年(1752)に後継ぎをめぐる騒動が発生。
藩内が二派に分れて争うが、宝暦6年、宗家が介入して一応鎮静する。
これより宗藩から付け家老が派遣され、藩政が監督されることになる。

4代 酒井忠崇ただたか
     宝暦元年(1751)~文政7年(1824)
     統治期間:天明7年(1787)~寛政10年(1798)
庄内松山酒井家4代。
3代藩主・忠休の次男として江戸に生まれる。
天明7年(1787)に家督を継いで4代目の松山藩主となる。
子がなく、本藩の9代藩主・酒井忠徳ただのりの兄である忠順ただとしの子・忠禮を養子に迎えて家督を継がせる。

5代 酒井忠禮ただのり
     安永8年(1779)~文政9(1820)
     統治期間:寛政10年(1798)~文政4年(1821)
庄内松山酒井家5代。
酒井忠順の長子として江戸に生まれる。
寛政10年(1798)に松山藩主・忠崇の養嗣子となり、家督を継いで松山藩主となる。
たびたび大坂加番を務める。

6代 酒井忠方ただみち
     文化5年(1808)~明治20年(1887)
     統治期間:文政4年(1821)~弘化2年(1845)
庄内松山酒井家6代。
酒井忠禮の嫡子として江戸に生まれる。
文政4年(1821)に家督を継いで松山藩主となる。
2回にわたり大坂加番の任につく。
天保14年(1843)に将軍・徳川家慶いえよしの日光参詣の折りには勤番の役を果たした。
隠居後の慶応4年(1868)の戊辰戦争の際、封地の松山に下るのを拒んで江戸・向島に隠棲いんせいする。

7代 酒井忠良ただよし
     天保2年(1831)~明治17年(1884)
     統治期間:弘化2年(1845)~明治元年(1868)
庄内松山酒井家7代。
酒井忠方の嫡男として江戸に生まれる。
弘化2年(1845)に幕府奏者番となる。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の折りには松山に下って、宗家・庄内藩と共に参戦する。
明治元年(1868)に降伏・開城し、隠居して長男・忠匡に家督を継がせた。
その後は東京に在住。

8代 酒井忠匡ただまさ
     安政3年(1856)~明治44年(1911)
     統治期間:明治元年(1868)~明治4年(1871)
庄内松山酒井家8代。
酒井忠良の嫡男として江戸に生まれる。
戊辰戦争で官軍に抗したことで隠居を命じられた忠良に代わって家督を継いだ。
明治2年(1869)に松嶺藩知事、明治4年に松嶺県知事となる。
合併後、上京して本郷駒込にて隠棲する。

(参考:『松山町のものがたり』 平成17年3月 松山町観光協会 発行)


【松山藩の公用飛脚】

松山藩の公用飛脚(大名飛脚)は、中間ちゅうげんの内から健脚の者を選んで飛脚番としていた。
2~3名が任ぜられていて、主に江戸・松山間の公用に用いられた。
当時参勤は14日間、藩士の場合は12~13日で松山・江戸を旅したが、飛脚は普通9日、急飛脚は7日であった。
安政2年(1855年)の安政の大地震の時に、松山藩江戸藩邸の状況を三昼夜で松山に伝えた勘蔵は、「走り勘蔵」と呼ばれた。

(参考:『松山町のものがたり』 平成17年3月 松山町観光協会 発行)


【藩名の改称】

明治2年(1869年)の版籍奉還に伴う新政府からの藩名改称の指示により、松山藩は松嶺藩と改名する。
松山は伊予いよ松山(現・愛媛県松山市)と混同することを避けるために改名したという説と、かつての「松山領」といった時代を惜しみ、「山」と「領」の字を合せ「嶺」の字を用いた説がある。
また、「松岡」という名称も考えられたが、同名の地もあり、府中に「鶴ケ岡」、海辺に「亀ケ崎」、山麓に「松山」と称した例もあり、このたびは「松嶺」と命名することに決定した。
ちなみに、荘内藩も「大泉おおいずみ藩」と改称した。

さらに、明治4年(1871年)7月の廃藩置県により「松嶺県」が新たに発足した。
しかし、財政難を抱える県をそのまま在置することは許されず、政府の方針もあって整理統合が行われ、同年11月、松嶺県は大泉県(旧・庄内藩)とともに第二次酒田県へ統合された。
その第二次酒田県も4年後の明治8年8月に「鶴岡県」と代わり、その鶴岡県も1年後の明治9年8月には山形県に併合された。
その後、明治22年(1889年)に市町村制が施行された。

(参考:『松山町のものがたり』 平成17年3月 松山町観光協会 発行)


舊藩松嶺侯酒井氏遺徳碑 舊松嶺藩戊辰戰死之碑
明治14年7月有志者建之





中山神社

(山形県酒田市字内町3)





(平成26年11月22日)

中山神社

由緒・沿革

慶安元年(1648)4月1日創建。
寛文元年(1661)松山藩主酒井大学頭だいがくのかみ忠恒ただつねは、羽黒山の天宥別当てんゆうべっとうに松山法護山ほうごさん修善寺しゅぜんじを開かせ、寺禄じろく16石2斗5升を与え、天台修験てんだいしゅげんの法をもって中山神社に奉仕させ、藩内鎮護ちんごの祈願をさせた。
延宝4年(1676)庄内酒井藩は分封ぶんぽうした松山藩に命じ、中山の大明神に徳川家康の嫡男ちゃくなん「徳川三郎源信康のぶやす公」を配祀はいしし「源鎮霊社」と称した。
元文3年(1738)松山藩は社殿を現在地に造営し、宗源宣旨そうげんのせんじを得て「中山大明神」と称した。
明治4年県社、同9年2月24日郷社、昭和22年1月8日宗教法人となり神社本庁に属した。

祭神 倉稲魂命うかのみたまのみこと
配祀 徳川三郎源信康命
    酒井左門尉さえもんのじょう忠次ただつぐ(酒井藩祖)

相殿あいどの 松山神社
        祭神 伊弉諾尊いざなぎのみこと 伊弉■尊いざなみのみこと
            酒井忠恒公(松山藩祖)
            酒井忠豫公(松山2代)
            酒井忠休公(松山3代)
稲荷社 山神やまのかみ社 厳島いつくしま神社
例祭 5月1日
神輿渡御みこしとぎょあり、武者行列供奉ぐぶ

平成3年秋

中山神社社務所
松山町観光協会

(説明板より)



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