正力松太郎像 平成18年3月11日

正力松太郎 しょうりき・まつたろう

明治18年(1885年)4月11日〜昭和44年(1969年)10月9日

東京都文京区春日1丁目・講道館でお会いしました。


富山県出身。
東大卒。
警視庁に入り警務部長などを歴任。
大正13年(1924年)1月虎の門事件の責任で懲戒免職。
翌月、経営難の読売新聞社を買収して社長に就任。
これに反発して多くの記者が退社するが、斬新な企画などで100万部を越える一流紙に成長させる。
第二次世界大戦後、A級戦犯容疑者として巣鴨に拘留され退任。
昭和22年(1947年)、釈放される。
昭和26年(1951年)、公職追放解除。
翌年、日本テレビ社長、昭和29年(1954年)には読売新聞社社主となり復帰。
昭和30年(1955年)から衆議院議員に5回当選し、国務大臣などを務めた。
科学技術庁初代長官。
昭和44年(1969年)没す。84歳。


正力松太郎先生像



正力松太郎先生像
(講道館)





(平成18年3月11日)
講道館



講道館
(東京都文京区春日1丁目)





(平成18年3月11日)

『大杉事件』と正力松太郎

正力は警視庁の官房主事、警務部長と出世コースを歩き、警視総監は間違いなしといわれていた男である。
だが、大正12年12月27日、摂政宮を狙撃した虎ノ門の警護責任を問われて警視庁を辞職し、読売新聞の経営者に転じた。

〜安成二郎(読売新聞元婦人部長)がメモした大杉事件に関する正力談話〜

〈(一)陸軍が14日に大杉を殺すと言って来た。大杉と吉野作造博士と外の2人、誰だったか(大山郁夫かと僕が聞いた、そうかも知らんと言って、正力氏は明答しなかった)4人を殺すと言って来た。そんなバカなことがあるかと言って置くと、16日になって淀橋署から大杉が憲兵隊に連れられて行ったといふ報告が来た、殺したナと思ったが黙ってゐた〉

驚くべき発言である。ここには正力の悪魔的側面が浮き彫りにされている。正力は少なくとも震災直後から丸1日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、むしろ知り合いの新聞記者を使ってこの流言を積極的に流していた。その一方、軍隊の力を借りて徹底的に弾圧する方針を明確に打ち出している。

〈すると、18日になって、報知の夕刊に大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれたという記事が出た。それを見てこれはいかん、子供も殺したのでは必ずわかると思ったので、すぐ湯浅総監(湯浅倉平)に話した。総監はすぐ後藤内相の許へ報告に行った。すると、内相は復興事業に目を眩してゐて「自分は手をはなせないから、君から総理に報告せよ」と言ったので、総監はすぐ内閣総理大臣山本権兵衛伯に行って報告した。総理がすぐ陸相(田中義一)を呼んできくと「知らん」といふ。戒厳司令官(福田雅太郎)を呼んできくと知らんといふ。それから憲兵隊の捜査になったのだ〉

正力が実際に警視総監に報告をあげるは、子どもも一緒に連行されたということがわかった時点で、しかも、必ずわかると思ったので、というのがその理由である。これはどう考えても、バレなければそれでいい、と思っていたとしか解釈のしようがない。

(参考:佐野眞一著『甘粕正彦 乱心の曠野』・新潮社・2008年発行)

(平成21年1月19日追記)


【京成電車東京市内乗り入れ疑獄事件と男の約束】

昭和3年8月、京成電車(専務・後藤国彦)の東京市内乗り入れ問題が起こったが、東京市会は反対であった。
当時の東京市会の分野は政友会4に対して憲政会6の比率で、政友会は中島守利が牛耳り、憲政会は三木武吉が抑えていた。
何といっても60%の議席を持っている三木武吉がウンと言わなければ、過去5回も失敗している同問題は片付かない。
そこで京成電車の後藤専務は、読売新聞社長の正力松太郎に「オレを男にしてくれ」と泣きついた。
正力は三木とは仲が良くなかったが、持ち前の侠気を出して三木を口説いて、難問題の京成電車乗り入れを市会で可決させた。

後藤専務は喜んで、正力に10万円を置いていった。
これは正力が要求も約束もしていなかった金なので、彼は中島と三木に5万円ずつ渡し、一銭も自分は取らなかったのが真相である。
しかし、結局正力は、禁錮4ヵ月、2年間執行猶予となったが、公判の際、検事が「正力は人格、手腕において欠けるところがない」と、被告を称揚するような論告をした。

正力が検挙されたのは9月19日だが、その以前、敏腕で鳴らした朝日新聞社会部記者の岡見斉は、どこから嗅ぎ出したか、正力を訪ねて「あなたは近く召喚されますね」と詰問した。
これに対して正力は、「岡見君、いまそれを書かれると困る。イザ自分が検挙されるときは、君にまっさきに知らせるから、ちょっと待ってくれ、男の約束だ」と言った。
正力の自宅にいよいよ検事局のお迎えが来た時、正力はいったん自動車に乗ってから、検事たちに「一つ忘れたことがあるから」と自宅に引き返し、電話で、岡見記者に笑いながら「いま収容されるよ」と男の約束を果たしたという。

読売新聞という一社の社長たるものが、朝日新聞という他社の一記者に特ダネを告げるとは、美談といっていいか、正力という男は不思議な新聞人ではないか。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月6日 追記)


【新聞の本質】

昭和5年のロンドン条約の時・・・
財部海相は一席、読売新聞の正力松太郎社長をはじめ、幹部ならびに政治部記者を招待して、ロンドン条約成立への協力を要請したことがあった。
財部海相の挨拶にこたえて、正力社長は起ってこんなことを言った。
「自分は、一生の恩人として故後藤新平伯しかない。ところが、後藤さんが脳溢血で東海道線の車中で倒れた際、同車中の財部さんが、献身的に看護され、わざわざ京都で途中下車されて、後藤さんを病院まで送って下さった。そんなわけであるから私は、全力をあげて財部さんの今日のご希望に協力する」と、本当に涙を流して誓ったのである。

ところが、当時の東京の各新聞はこぞってロンドン条約を支持していたが、ひとり読売新聞だけは、ロンドン条約の成立に対し、激しく反対した。
「ロンドン条約は太平洋の天王山」というような大見出しをつけ、右翼顔負けの反撃ぶりだった。
当時の読売は、発行部数8万部に足らず、朝日、東日、時事、報知、国民より見れば三流新聞であったので、孤軍、一流紙に挑戦した形であった。

ところで、正力社長は自ら主宰して、毎月1回、政治部会を社長室で開いていた。
もっとも、社長室といっても、屋上の、もと伝書鳩を飼育していたガラス張りの狭い部屋だった。
その部屋で、次の政治部会があった時、のちに自民党代議士となって日韓条約委員長をやった有名な安覚こと、安藤覚記者は、たちまち正力社長に激しく食ってかかった。
安藤記者は首相官邸担当で、海軍省担当の等々力栄(のち巨人軍幹部)と共にロンドン条約反対の急先鋒であった。
「われわれは連日、ロンドン条約反対の記事を書いているのに、社長たる貴君が、財部海相に協力するとは何事であるか、新聞は公器であって、社長の私物ではない。社長が何と言おうが、我々政治部はトコトンまでロンドン条約に反対する覚悟である」と。

ところが、正力という男は、実に面白いというか、割り切っているというか、安藤覚記者にニコニコして答えた。
「まぁ、そう興奮しないでもいい。君たちは君たちで、反対でも何でも勝手に書いたらいい。ボクはボクとして、つまり個人として財部海相に協力するのだから、それでいいではないか」と。
これは、正力の一面を語るとともに、新聞の本質をハッキリさせるエピソードである。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年10月7日 追記)


【読売新聞】

正力は大正13年(1924年)に読売新聞を買収している。
戦後の時点で読売新聞が大企業となっていた背景には昭和13年(1938年)に施行された国家総動員法に基づく「新聞統制」政策がある。
新聞統制は有事下における言論統制を目指したものだが、その法的根拠は、あくまで国家総動員法で法制化された消費制限品目に新聞用紙が含まれていたことによる。
この政策で、昭和12年(1937年)時点で1208社あった新聞社は、昭和17年(1942年)の時点で55社までに統合が進んだ。
正力の読売新聞は昭和17年(1942年)に報知新聞を統合し、発行部数を172万部強とした。

(参考:西村幸祐 著 『報道しない自由〜なぜ、メディアは平気で嘘をつくのか〜』 イースト・プレス 2017年第1刷発行)

(令和元年11月9日 追記)


正力松太郎像 平成21年11月8日

岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館でお会いしました。

正力松太郎先生像



正力松太郎先生像
(岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館)





(平成21年11月8日)




左:後藤新平伯像
右:正力松太郎先生像
中央:後藤新平自治三訓の碑




(平成21年11月8日)

後藤新平と正力松太郎

正力松太郎は、警視庁官房主事時代、内務大臣であった後藤新平を嫌って地方転出を希望したときがあるが、当時の警視総監湯浅倉平から警務部長として警視庁に残るよう説得され、大正12年10月27日警務部長に転じた。
しかしながら、後藤新平は、正力を直接呼びつけては政治上の用件をいいつけるなど自由に使った。
正力は、最初は大嫌いだった新平も直接使われてみると、その雄大な着想や計画に触れるに至り、次第に敬服するようになった。
そして、虎ノ門事件で免職となった正力に対し、新平から生活費の援助の申し出を受けて感激した。
この申し出は辞退したが、新平は自分が相馬事件で収監された時に、母親が訓戒和歌集の歌を家人に読み聞かせて新平の苦労を共感した話しをし、その歌集を正力に与えた。
この日から正力は心から新平を信頼できる先輩と信服うるようになった。
その後、正力は読売新聞社を経営するため、その資金について新平に相談した。
新平は1、2分考えただけで、「新聞経営は難しいと聞いているから、失敗したらきれいに捨てて未練は残すなよ。金は返す必要ないからな。」と言って10万円を正力に貸した。
このとき、正力は、新平に親の愛を感じたと言われている。
正力は、新平の死後になって、その金は新平が住んでいた麻布の土地を担保に無理な借金をして作ったものであることがわかり、感激し、号泣した。
そして、新平の郷里の水沢に公会堂を作ってほしいと、建設費15万円に維持費5万円を足して20万円の金を当時の水沢町に寄附した。
この施設は、昭和16年11月に竣工し、その名称は、新平の甥の椎名悦三郎が「公民館」と名づけた。
これが公民館のという名称の日本第1号となり、公民館発祥の地と呼ばれるゆえんとなっている。

(チラシより)

「記念公民館」の碑



「記念公民館」の碑
(岩手県奥州市水沢区・後藤伯記念公民館)





(平成21年11月8日)

記念公民館

本記念公民館は故後藤新平伯爵の生前其知遇を受けたる讀賣新聞社長正力松太郎君が故伯の忠誠豪邁なる人格を永く地上に標置し以て薫化育英の源泉と為さんと欲し故伯の出身地水澤町を選んで之を建設寄附したるものなり

昭和16年11月3日
水澤町

(碑文より)

留守家家老余目氏の邸跡碑




「留守家家老余目氏の宅跡」の碑






(平成21年11月8日)
後藤伯記念公民館



後藤伯記念公民館(日本第1号公民館)
(岩手県奥州市水沢区大手町4−1)





(平成21年11月8日)

沿革

故後藤新平伯の生前、その知遇を受けた当時の読売新聞社社長正力松太郎氏が、故伯の13回忌を迎えるに当たり、旧恩忘れ難く謝恩頌得の志に燃え、伯の生誕地水沢町(区)に当時、総工費15万円と維持費5万円を添えて、昭和16年11月3日に贈られた記念の建物です。
当時、商工省総務局長で当町(区)の出身であった椎名悦三郎氏の命名により『後藤伯爵記念公民館』となりました。
『公民館』の名称は、当公民館が『日本第1号』であることから、今では『公民館発祥の地』とも呼ばれています。

後藤伯記念公民館のいわれ

大正12年9月、後藤新平が内務大臣に就任したとき、正力松太郎は、警視庁官房主事として知遇を得ました。
松太郎は、新平のスケールの大きいものの考え方や、先見性に心酔し、新平もまた、松太郎の仕事に対する誠意、熱意、創意を通して、将来大物になることを予見しました。
しかし、松太郎は、虎の門事件が起こり辞職の止むなくにいたります。
松太郎が野に下る事を知った新平は、「生活費は全部出してやるから、当分静養したまえ」と激励します。
免官になって悲境のどん底にあった松太郎はその人情のうるわしさにただただ感激したといわれます。
やがて、松太郎のところに「読売新聞をやらないか」という話が持ち込まれますが、10万円の資金の工面がつきません。
万策尽きた松太郎は、新平を訪ねます。
その時、新平と取り交わした会話を松太郎は次のように話しています。
「何しに来たか」
「金が10万円欲しいのです。」
「何するか」
「読売新聞をやりたいと思います。」
「よろしい」
たった1分間の会話の後、「正力君、新聞というものはなかなか難しいものだ。失敗したら金は返さんでもいい。」
と言ったそうです。
松太郎は、その言葉に「親の愛」を感じたといいます。
「命がけで働け」という激励の言葉として胸に刻み、やがて新聞事業で大成功を収めたということです。
新平死して4年、松太郎は、新平の子息、一蔵伯から10万円の出所を聞き、驚きかつ感涙にむせびます。
金は某実業家から出たなどの噂もありましたが、実は、自宅の土地を担保にして生み出したお金であることを知ったのです。
これに報いるために、松太郎は新平の生誕の地、水沢町(区)に公会堂を建設し、地下に眠る新平の霊に捧げたいと願い、総工費15万円と維持費5万円を寄贈したものです。
なお、建造物の命名にあたっては、「【練成道場】のような時流に便乗するようなものではならぬ。」という松太郎の願いを受けて、時の商工省総務局長の椎名悦三郎が「公民館」と名づけたといわれています。

(リーフレットより)


【戦犯】

敗戦直後の10月と12月、有楽町にあった読売新聞社は労働争議に揺らいでいた。
民主化運動の名のもとに共産主義がはびこり、新聞社幹部の排斥に広がると、これが経営権の奪取闘争にと発展した。
社内に闘争委員会が組織され、無謀にも編集局や印刷工場を占拠した。
彼らは社長の正力松太郎を批判し、退陣さえ要求したが、正力は屈しなかった。
そこへ自由党総裁の鳩山一郎や、共同通信社の理事長になった伊藤正徳が仲裁をかって出て味方となった。
正力は連日奔走して、法律の保護を求めたり、東京都長官(現:知事)に調停を依頼した。

こうした矢先、正力は板橋にある凸版印刷へ行った帰りに、街で新聞の号外が出ているのを知ったが、それほど気にもかけずにいた。
読売本社へ戻り、玄関に入ると「正力社長、戦犯に指名さる」という大きな活字のポスターが貼ってあった。
GHQから自分に逮捕命令が出たことを、正力は自分の発行する新聞号外が伝えているのを知らずにいたのである。
これを知った正力もさすがに仰天した。

読売の労働争議の調停は一進一退し、なかなか進展に至らなかったが、あと24時間後には、正力は「巣鴨プリズン」に入らねばならぬという非常事態であった。
それが直前となって、ようやく解決の糸口ができ、闘争委員会と調停に至り、争議はようやく締結されたのである。
正力は、自分が不在となるあとの役員人事を、品川司と清水与七郎に託して巣鴨入りの準備をした。
そして12月12日、家族と揃って朝食をとった正力は、午前8時に、いつもの出勤と変わらぬ時間に自宅を出て、巣鴨に向かった。
正力が、プリズンの前にある外務省終戦連絡事務所に到着し、入所の手続きをすると、そこには読売新聞社の女子社員2人が待っていた。
この二人は全女子社員を代表して正力に大きな緋の座布団を差し出したのである。
正力は感激しながらもプリズンの中に入り、39号室の住人になったのである。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


【巣鴨プリズン・迷惑な入浴】

日本の風呂は、手拭いを浴槽に入れて顔を拭ったりするが、外国では手拭いを入れてはいけない。
巣鴨の収容者も浴槽に入るときには気をつけていた。
もし、これが看守に見つかると、同じ居房にいるものが全員風呂に入れなくなるのだ。
これでは一緒に入るものが迷惑を蒙ることになる。

ところが、正力は浴槽の中でも手拭いを使い、顔や身体を平気で洗った。
それに湯水を撒き散らして行儀が悪かった。
新聞発行という文化的な仕事をいているにしては、誠にお粗末な動作だった。
これが回を重ねるため、笹川良一は嫌な憎まれ役を買って出て、厳重な注意を与えたが、正力の所作は一向に改まらなかったために目立った。
結局、正力の傍若無人ぶりは、育てられた時の躾しつけや長い習慣の慣れすぎが影響していたようだ。
正力は他人のことには無頓着で、はたから見て誰が何と注意しようと、自分の思う通りにやり遂げる性格であったのかもしれない。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


【座禅】

正力松太郎は面白い男だった。
彼は学生時代から禅をやっていたということで、宗教談義をよく話していた。
彼の声は大きく、巣鴨プリズンの中でもよく聞こえた。
いつもニコニコしているので、巣鴨に楽しんで入っているように思えるほどだった。

正力は自己流の座禅を短時間に行ない、給食を取りに出るのが遅かった。
ところが、あとから遅れて廊下に出る時には、前にいる人に肘鉄砲を喰らわせて、割り込む癖があった。
運動場を歩きながら、正力から口述で座禅を教わっていた高橋三吉海軍大将が正力に尋ねた。
「君は食事の際に、時々あとから部屋を出てきて、前に並んでいる連中に肘鉄を喰らわせるが、座禅をやる人間は、もっとドッシリした人間になるはずなんだが、君の座禅をやると肘鉄をくらわすようになるのか」
これは痛烈な皮肉になった。
これには正力も兜を脱いだ。
「どうも僕には悪い癖があってね。電車なんかでも空いている席があると、すぐ駆けつけて座る癖があるんだ」と正力は苦笑した。

正力の宗教観は結構深く、後年になって、東京・稲城市と川崎市にまたがる「よみうりランド」内に、仏舎利ぶっしゃりを建立して釈尊の遺骨を葬った。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月6日 追記)


【心理戦プロジェクト・テレビ放送網】

ドゥーマンのプロジェクトの一つである「テレビ放送網」は、読売新聞社主・正力松太郎を担ぎ出し、これにアメリカの輸出入銀行の借款を斡旋して、日本全国をおおうマイクロ波通信網を建設させ、正力にはテレビ放送を行わせ、駐留アメリカ軍には軍事通信を行わせるというものだった。
正力が行なうテレビ放送には当然ながらアメリカのプロパガンダ放送VOAが制作した番組が供給されるので、これは日本人を親米・反共産主義にする心理戦の意味を持っていた。
実際、日本テレビ放送網株式会社は1952年10月に設立され、1953年8月に放送を開始している。

CIAはこのマイクロ波通信網建設計画にPODALTON、日本テレビ放送網にPOHIKE、正力松太郎にPODAMという暗号名を付けていた。
これはCIAの作戦だったのだ。

(参考:有馬哲夫 著 『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』 文春新書 2013年2月 第1刷発行)

(令和2年5月1日 追記)


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