勝龍寺城 しょうりゅうじじょう

京都府長岡京市勝竜寺13−1


勝龍寺城 平成20年4月14日

勝龍寺城跡

所在地 勝竜寺・東神足2丁目地内
時代   南北朝時代〜安土桃山時代

勝龍寺城は、南北朝時代に京都に進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応りゃくおう2年(1339)に築いたといわれる。
城は京都西南部に位置し、西国街道さいごくかいどうと久我畷くがなわてを同時に押さえうる交通の要所に築かれている。
応仁おうにん・文明ぶんめいの乱(1467〜1477)では、守護畠山義就よしなり(西軍)の乙訓地域の拠点となった。
戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝ふじたか(幽斎ゆうさい)が元亀げんき2年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。
天正てんしょう10年(1582)の山崎合戦やまざきのかっせんでは、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。
ところで、この城は明智光秀の娘玉たま細川ガラシャ夫人)が16歳で藤孝の子忠興ただおき(16歳)のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。
城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。
北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。
この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成4年春に市民の憩いの場としてよみがえった。
これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓たもんやぐらが発見されるなど数多くの成果が得られた。
その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭じょうかく史上でも貴重なものであることが明らかにされた。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

南門




南門





(平成20年4月14日)
本丸跡




本丸跡






(平成20年4月14日)

本丸跡

城の心臓部にあたる本丸は、東西約105メートル、南北約70メートルで、その周囲には水を湛たたえた幅広い堀が造られ、その内側に高く土を盛り上げた土塁を巡らしている。
堀は深さ約3メートルで、幅が15メートルを越え、土塁の裾には石垣が築かれていた。
土塁は高さ4〜5メートルで、四方を取り囲んでいた。
しかも、最も高く築いた西辺の土塁は、四角い形をした本丸の南側に張り出していた。
これは南門から攻め入ろうとする敵をこの高い土塁上から攻撃する目的があったと考えられる。
土塁南辺の中央に推定される南門の位置では、杭列くいれつや大きな石垣が見つかった。
北西隅からは石垣で築いた北門が、北東隅では土塁に登る階段が、東辺の土塁上では長屋風の建物(多聞櫓たもんやぐら)の土台である石垣などが発見された。
本丸内では、西半部で南北方向の堀や石で蓋ふたされた溝などが、東半部で井戸2基や礎石建物3棟が見つかった。
堀は幅約4メートル、深さ約2メートルで、井戸はいずれも深さ約2メートル、直径約0.9メートルの石組みのものであった。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

 説明板より

 説明板より

北門跡




北門跡






(平成20年4月14日)

北門跡

本丸の北西隅から北の出入口が見つかった。
この出入口を囲む土塁は高さ2メートル以上の石垣があり、立派な門が建てられていた。
城内に入るには、堀を渡って第一の門をくぐり四角い形の広場に出る。
突き当りを左に折れ、第二の門を通り、やっと城内に入れる。
これは攻め入る敵を土塁上から攻撃し、簡単に城内に入れない構造になっていた。
この門から山崎合戦に敗れた明智光秀が逃げ出したといわれる。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

井戸




井戸跡





(平成20年4月14日)

井戸跡(本丸)

城にとって最も大切な井戸は、本丸内から4か所で発掘された。
そのうち、この井戸を含め3か所が細川藤孝による城の改修時のものであった。
井戸は直径0.9メートル、深さ2メートルで、底に太い木を井桁いげたに組み、その上に石を積み上げた立派なもので、発掘調査中にもこんこんと水が湧いていた。
石には土塁の石垣にも使われた石仏せきぶつや五輪塔ごりんとうなどが含まれていた。
井戸の周囲には、溝や石組みの水溜めが造られ、当時の生活の一部を知ることができた。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

 説明板より

多聞櫓への階段



多聞櫓への階段

説明板の解説と現状は一致していません。




(平成20年4月14日)

多聞櫓への階段

本丸の北東隅から石垣で築かれた高さ4メートルの土塁が見つかった。
この土塁に登る斜面には大きな自然の石を使った階段が7段造られていた。
土塁の上は一辺が10メートル四方の広い平坦な面があり、城の外を監視、攻撃するための建物があったことを裏付けた。
この建物は東辺の土塁上に伸びる多聞櫓という長屋風の建物と思われる。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

東辺土塁と多聞櫓



東辺土塁と多聞櫓

説明板の解説と現状は一致していません。




(平成20年4月14日)

東辺土塁とうへんどるいと多聞櫓たもんやぐら

本丸の東辺に築かれた土塁上の平坦面で、2列の石垣が見つかった。
この幅4メートルの間に北東隅の建物(隅櫓)とつながった長屋風の建物(櫓)があったと考えられる。
このような構造の建物は多聞櫓と呼ばれ、中に弓矢や槍、鉄砲、火薬などの武器が納められ、城外の敵を攻撃できるようになっていた。
また、土塁の斜面にはテラス状の平坦面をつくり、井戸を設けていた。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

沼田丸への通路



沼田丸への通路

説明板の解説と現状は一致していません。




(平成20年4月14日)

沼田丸への通路

西辺土塁の中央部で、土塁の頂上にある平坦面を深さ1.5メートル堀りくぼめ、土塁が南北に分断されていた。
この土塁斜面を発掘調査したところ、斜面は階段状に掘られ、2か所で段差が見つかり、多量に石が埋まっていた。
このことから、土塁の斜面に石を使って階段をつくり、土塁の頂上まで登り、沼田丸へ渡ったものとみられる。
また、西辺土塁の南端で人頭大の大きな石や小石が見つかった。
これらは土塁上にあった隅櫓などの建物に使われたとみられる。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

沼田丸跡




土塁の上から見た沼田丸跡






(平成20年4月14日)
沼田丸跡




沼田丸跡





(平成20年4月14日)

沼田丸跡

本丸の南西に接する沼田丸は、東西約50メートル、南北約65メートルの長方形で、周囲に土塁が築かれていた。
さらに堀が外側をとりまいていた。
堀は、昭和30年代まで水を湛たたえていた西南部のものに加えて、発掘調査によって北辺と東辺にも堀があることが明らかにされた。
新たに確認された堀は、いずれも幅約5メートル、深さ約2メートルのもので、石垣のない素掘りのものだった。
北辺の堀内からは大きな石が2か所でまとまって発見された。
これらはこの堀の北側にあったと想定される沼田屋敷などに通じる橋などの施設に使われていたと思われる。
本丸と沼田丸の間には、両側を掘に挟まれた幅約5メートルの南北に細長い区画(帯曲輪おびくるわ)が見つかった。
これは本丸を守るための施設であろう。
また、沼田丸内の発掘調査では、本丸と同じ構造をもつ井戸が見つかった。
ところで、沼田丸の名は細川藤孝の妻麝香じゃこうの旧姓にちなんだもので、沼田氏に与えた屋敷があったところといわれる。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

井戸跡




井戸跡





(平成20年4月14日)

井戸跡(沼田丸)

井戸は直径0.9メートル、深さ2メートルで、底には太い丸太を井桁に組み、その上に石を積み上げた立派な井戸で、発掘調査中もこんこんと水が湧いていた。
積み上げた石には石仏や五輪塔などが含まれていた。
本丸でも同じ構造の井戸が3か所で見つかっており、細川藤孝が城を改修した際に造ったものである。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)

 説明板より

北辺の堀と帯曲輪



北辺の堀と帯曲輪

説明板の解説と現状は一致していません。




(平成20年4月14日)

北辺の堀と帯曲輪おびくるわ

この堀は沼田丸の北を区画するもので、幅約5メートル、深さ約2メートルで、石垣のない素掘りのものである。
堀は東端で曲がり、北方に延びる。
堀の中から大きな石がまとまって出ており、堀の北方に想定される沼田屋敷へ通じる橋などがあったと思われる。
本丸と沼田丸の間には、両側を堀に挟まれた南北に細長い区画(帯曲輪)が見つかった。
ここには本丸へ通ずる橋が架けられていたとみられる。

平成4年3月
長岡京市

(説明板より)


■勝龍寺城のあゆみ

1339(暦応2)   細川頼春が築城する。
1457(康正3) 1月 このころ畠山義就が郡代役所を置く。
1467(文正2) 1月 応仁・文明の乱(文明9年11月まで)
1470(文明2) 2月 義就(西軍)が勝龍寺城を陣城とする。
この頃、西軍と東軍がたびたび合戦。
1497(明応6) 5月 細川元有が将軍足利義澄から西岡の3千貫の地を賜り、城を再建する。
1568(永禄11) 9月 織田信長が将軍義昭を擁立し上洛する。
信長軍が岩成友道いわなりともみちを攻め、藤孝が入城す。
1571(元亀2) 5月 信長が城を修理させる。
1573(元亀4) 7月 藤孝が信長から山城国桂川の西地を与えられ、氏を長岡と改める。
1578(天正6) 8月 忠興が明智光秀の三女玉(のちガラシャ)を迎えて妻となす。
10月 吉田兼見かねみが訪れ、囲碁や乱舞を楽しむ。
1580(天正8) 8月 細川氏が丹後国宮津城に移る。
1582(天正10) 6月 本能寺の変。
山崎の合戦で光秀が敗れ、落城する。
1600(慶長5) 7月 細川ガラシャが自殺する(歳38)。
1633(寛永10) 3月 永井直清なおきよが入城する。(1649まで)。

■城に名を刻んだおもな人

◇細川藤孝(1534〜1610)

三淵晴員みぶちはるかずの次男で、細川元常の養子となり、将軍足利義晴・義昭に仕えました。
永禄11年(1568)に信長上洛の際は朝廷の警護にあたり、岩成友道いわなりともみちが籠る勝龍寺城を攻めました。
信長が義昭を追放した後、桂川の西の地を与えられ、姓を長岡と名乗りました。
本能寺の変では光秀に協力せず、髪を切って幽斎玄旨ゆうさいげんしと称して丹後田辺城に移り、羽柴秀吉に従いました。
歌人としても名高く、勝龍寺で三条実枝さねきから古今伝授こきんでんじゅをうけた藤孝は、八条宮智仁としひと親王へ伝授するなど、公武を通じて当代第一の歌人といわれています。

◇細川ガラシャ(1563〜1600)

明智光秀の三女で、本名を「玉たま」といい、天正6年(1578)8月に16歳で細川藤孝の長男忠興のもとに嫁ぎ、丹後宮津に移るまで3年間を勝龍寺城で過ごしました。
天正10年父光秀が主君信長を倒した「本能寺の変」で、丹後の三戸野みとのに幽閉されました。
2年後、豊臣秀吉の計らいで忠興との復縁を許されました。
ところが、苦難の生活を強いられた彼女は、心の平安をキリスト教に求め、洗礼を受けガラシャと呼ばれるようになりました。
やがて、関ヶ原の戦いで石田三成の人質になるのを拒み、自害という悲劇的な最後を遂げました。

(『歴史とロマンの城 勝龍寺城跡』リーフレットより)


勝龍寺城公園の案内

交通案内:JR長岡京駅東口から南へ500m
開園時間:4月〜10月=9時〜18時/11月〜3月=9時〜17時
休園日:毎週火曜日、年末年始(12月28日〜1月4日)


勝龍寺城の土塁と空堀

東神足2丁目
戦国時代

現存する土塁と空堀は、細川藤孝ふじたかが元亀げんき2年(1571)に城の大改修で造営したものです。
土塁と空堀の他、土橋と横矢よこやの掛かる土塁が残されています。
神足こうたり神社の東側は、昭和59年(1984)に消滅しましたが、発掘調査で土塁と空堀の比高が約6メートルあること、新たに土塁下から6世紀後半の方墳である神足古墳が確認されました。
勝龍寺城外郭に位置する神足屋敷は、藤孝が国人こくじん神足氏の居館である神足城を勝龍寺城に組み込んだものと考えられます。
平成12年の調査では、土塁の手前で止まる南北方向の堀と、土塁を開削する溝を確認しました。
絵図にない堀はこれまでにも見つかっていますが、新たな堀の発見は城の細部を明らかにする上で貴重な手がかりとなります。
このほか、菊一稲荷社で使われたとみられる灯明皿と狐の土人形が空堀から出土しています。

平成13年3月
長岡京市教育委員会

(説明板より)

 説明板より

 説明板より

神足神社



神足神社
(京都府長岡京市東神足2丁目)





(平成20年4月14日)

神足こうたり神社

旧神足こうたり村の産土神うぶすながみ
式内社で「延喜式」にのる乙訓おとくに十九座の一つで「神足神社こうだにのじんじゃ」とみえる。
また、文徳天皇の斉衡元年(854)に国の官社にあげられている。
祭神は、「舎人とねり親王(天武天皇の子)」であるといわれている。
当社には「桓武天皇の夢」として次のような伝説が残っている。
〈田村(神足村の旧名)の池に天から神が降り立ち、宮中を南から襲おうとした悪霊を防いでおられた夢を見られたと言う。天皇は目覚められ、田村にこの神を祭る社を建てさせ、太刀と絹を秘蔵させた。〉
以後この社は「神足神社」と、田村は「神足村」と呼ばれるようになったと言われる。

長岡市観光協会
(社)京都府観光連盟

(説明板より)


勝龍寺城大門橋




勝龍寺城大門橋の碑と結界門





(平成20年4月14日)
大門橋




大門橋





(平成20年4月14日)

勝龍寺城大門橋の由来

勝龍寺城は、660年昔、暦応2年(1339)南北朝時代後醍醐天皇を擁する南朝方は、男山八幡宮まで進出し、京を窺う情勢であった。
これに対抗するべく北朝方の足利尊氏は、細川頼春よりはる(細川氏遠祖)とその弟師氏もろうじに命じて、京を守るために前戦基地として勝龍寺に土塁をもって周囲をかこむ城塞を築いた。
長岡京遷都(784)当時、宇波多うばた川(小畑川)は、向日市上植野付近から東流し伏見区羽束師南部付近で桂川に合流していたとされている。
その河道を西南の方に移動して勝龍寺城の「外堀」の役目を果たしながら、大山崎町下植野付近で桂川に合流させる河川工事を担当したのが、弟の細川師氏(宝財ほうさい院)といわれている。
土地の古老の言によれば「小畑川」と呼ばずに「ホウサイ川」と呼ばれていた。
細川家古文書や「綿考輯録めんこうしゅうろく」等によれば元亀2年(1571)織田信長の許可を得て、近世細川初代細川藤孝(幽斎)は鉄砲戦術に対応するため「総構そうがまえ」を拡張する。
此の処に「大手門おおてもん」を構築し、現JR神足ガード付近を「搦手からめて」とする。
以来この「大手門」にかかる橋を「大門橋」と呼称されて来た。
なおそのシンボルとしてこの結界門けっかいもんを建立するものである。

1999年7月 京都府乙訓土木事務所

(説明板より)


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