多賀城 たがじょう

宮城県多賀城市中央


特別史跡多賀城跡

多賀城は、神亀元年(724年)に陸奥国府・鎮守府として創建され、古代東北地方の政治・軍事の中心地でした。
多賀城跡のほぼ中央には、100メートル四方の政庁跡があり、重要な儀式などが行われました。
多賀城跡は、奈良の平城宮跡、九州の大宰府跡と並んで日本の三大史跡の一つに数えられており、現在は、遠く奈良・平安時代を偲ぶ史跡公園として整備が進められています。

(パンフレットより)

土塀跡

土塀跡

この土塀は当時のものではなく、昭和天皇が皇太子の時に、ここを訪れるというので、その時に復元された塀らしいです。



(平成15年8月3日)

特別史跡 多賀城跡附寺跡

多賀城は、この附近の丘陵一帯の市川、浮島両地区にかけて所在しています。
仙台平野の北端に位置しており、南に太平洋を望むことができます。
東には国府の港と推定される塩竈の港をひかえるなど、古くから交通の要衝でした。

今からおよそ1300年前、奈良時代前半に陸奥国の国府として創建された多賀城は、鎮守府としての役割も果たしていました。
多賀城は、周囲が塀(おもに築地土塀)をめぐらし、その痕跡は現在でも土手状の高まりとして残っています。
多賀城の平面形は、不整方形をなし、広さはほぼ方八町に相当します。
そのほぼ中央部に重要な政務や儀式が行われた政庁があります。

多賀城跡は、大正11年10月に多賀城廃寺とともに国の史跡に指定されました。
さらに、昭和30年代に実施された発掘調査の成果により、日本の歴史を理解する上で学術上の価値が特に高く、貴重な遺跡として昭和41年4月、国の特別史跡に指定されております。
その後も、多賀城跡と多賀城廃寺は、国司館など数回の追加指定が行われ、現在特別史跡の指定面積は約107万6千平方メートルに及びます。

多賀城跡を末永く大切に保護するため、多賀城市では、指定地域の買上げを年次計画によって実施するとともに、特別史跡の維持管理を行っています。
さらに、宮城県では、宮城県多賀城跡調査研究所を設置し、学術的調査を行い史跡公園として環境整備を継続的に実施しています。

多賀城市では、今後も我が国の歴史にとって欠くことのできない、国民の財産であるこの史跡を積極的に保存し、活用を図る所存でおります。

平成10年3月
多賀城市教育委員会

(説明板より)


政庁推定復元図 (説明板より)

政庁の概要

政庁せいちょうは多賀城のほぼ中央の平坦な低丘陵上に位置する国府の重要な儀式などを行う中枢部で、政庁へは外郭南門がいかくなんもんから一直線に大路が通じている。
大宰府だざいふなどにも同じく政庁があり、これらは平城宮へいじょうきゅうの大極殿だいごくでん・朝堂院ちょうどういんに類似する。

(説明板より)

正殿跡 正殿せいでん(第U期ー8世紀後半)

政庁で最も重要な建物の跡である。
この時期の正殿は礎石式そせきしきの四面庇付しめんびさしつき建物で、その南は石敷いしじき広場である。
現在は基壇きだん部分のみ復元表示している。

(説明板より)
大路跡 南門〜政庁間大路跡(政庁第U期ー8世紀後半)

多賀城の正面入口である外郭南門がいかくなんもんから中枢部である政庁へ南北にまっすぐに通ずる大路おおじで、多賀城のなかで最も重要な道路である。
発掘調査の結果、政庁の第T、U期(8世紀)は道路幅が約12mで第V、W期(9〜10世紀中頃)には約23mに拡幅されていることや、政庁南方の斜面には自然石を並べた階段がもうけられていることがわかった。
現在は政庁第U期当時の大路について推定復元している。

(説明板より)

発掘現場




第74次発掘調査現場




(平成15年8月3日)

多賀城跡第74次調査(政庁〜南門間道路跡の調査)
宮城県多賀城跡調査研究所
調査期間:平成15年5月6日〜10月30日

多賀城の政庁と外郭南門を結ぶ道路跡の調査をおこなっています。
調査の結果、古代の道路跡の東側溝を発見しました。
また、この道路上で新たに建物跡を発見しました。
この建物跡は門の跡である可能性が高く、多賀城内の構造について検討していく上で、新たな視点が得られました。

(調査現場の案内板より)


外郭南門跡 外郭南門跡

多賀城の外郭南門

ここには多賀城の正門の跡がありました。
南を区画する築地塀ついじべいのほぼ中央に位置し、多賀城の中心施設である政庁の南方約350mのところにあります。
多賀城の外郭門がいかくもんは発掘調査の結果、この他に東・西門が判明しており、いずれも瓦葺かわらぶきの門で、陸奥国府むつこくふとしての重要性を示しています。
中でも南門みなみもんは多賀城の正面を飾るため、屋根が二重にじゅうになっている立派な門であったと考えられています。
将来、図のような姿に復元する計画があります。

(説明板より)

南門推定復元図 (説明板より)


奈良時代の外郭東門跡 奈良時代の外郭東門跡

外郭東門は国府こくふ多賀城と国府の津(塩釜港)を結ぶ最もにぎわった門であった。
奈良時代にこの場所に建てられ、大きく3時期の移り変わりがあった。
平安時代になると、約80メートル西に移された。
ここでは第U期の門を推定復元し、60cmの高さまで表示した。

(説明板より)

第T期の門
多賀城創建期の8世紀前半につくられた掘立柱ほったてばしら式の棟門むなもんである。
両脇には築地塀ついじべいが取り付いていた。

第U期の門
8世紀中頃に建てかえられた礎石式八脚門そせきしきはっきゃくもんである。
基壇きだんには瓦敷きの石組溝いしぐみみぞがともなっている。
両脇の築地塀も瓦葺かわらぶきのものになる。
幅10mの道路が城内に続いていた。
この門は780年の伊地公呰麻呂これはるのきみあざまろの乱で焼失した。

第V期の門
780年の焼失直後につくられた仮の門とその後の本格的な門とがある。
仮の門は掘立柱式の棟門で、材木塀ざいもくべいが取り付いていた。
まもなく築地塀がつくり直されると、門は南に移された。

(説明板より)

平安時代の外郭東門 平安時代の外郭東門跡

外郭東門は、第V期のある時期(平安時代初め頃)にこの場所に移された。
正面9.4m、奥行き5.5mの瓦葺きの八脚門である。
初めは掘立柱式、第W期(9世紀後半)には同じ位置で礎石式につくり直された。
門に取り付く築地塀は、幅2.7mで2度のつくりかえがある。
築地塀が内側に折れ曲がる位置には櫓やぐらが建てられていた。

(説明板より)


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史都多賀城観光案内所
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