愛知県田原市
平成20年4月5日
田原城跡
田原城は文明12年頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城し、以来、70年にわたって栄えたが今川義元によって攻略され落城した。
その後、城主は交代し、慶長6年から戸田尊次が1万石で、寛文4年には1万2千石で三宅康勝が入城し、三宅氏の居城として栄え明治維新を迎えた。
田原城は、かつて海が城の周囲に入り込み入江を形成していたため、その状況が巴ともえ文に似ていることから、巴江はこう城とも呼ばれている。
中世に築かれた城を利用したため地形、規模などの制約を受けているが、藤田曲輪くるわ・本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪及び付属する腰曲輪の周囲を、堀によって区画するなどさまざまな工夫を凝らし、小さいながらも近世の城郭にふさわしい構成を取り入れている。
また空堀、土塁など随所に中世城館の遺構を残す貴重な城である。
平成17年3月
田原市教育委員会
(説明板より)
戸田弾正左衛門尉宗光 | 文明12年(1480)〜 | |
戸田弾正忠憲光 | 明応8年(1499)〜 | |
戸田左近尉政光 | 永正6年(1509)〜 | |
戸田弾正少弼宗光 | 大永6年(1526)〜 | |
戸田孫四郎堯光 | 天文11年(1642)〜 | 今川氏により落城 |
天野安芸守景貫 | 天文16年(1547)頃 | 今川氏の城代 |
朝比奈肥後守元智 | 天文17年(1548)頃 | |
岡部石見守輝忠 | 永禄4年(1561)頃 | |
朝比奈肥後守元智 | 永禄5年(1562)〜 | 松平(徳川)家康、田原城攻め |
本多豊後守広孝 | 永禄8年(1565)〜 | |
本多彦次郎康重 | 天正5年(1577)〜 | |
伊木清兵衛忠次 | 天正18年(1590)〜 | 吉田城主の城代 1万7千石 |
戸田土佐守尊次 | 慶長6年(1601)〜 | 伊豆下田より移封 1万石 |
戸田因幡守忠能 | 元和元年(1615)〜 | |
戸田伊賀守忠治 | 正保4年(1647)〜 | |
三宅土佐守康勝 | 寛文4年(1664)〜 | 挙母(豊田市)より移封 1万2千石 |
三宅備前守康雄 | 貞享4年(1687)〜 | |
三宅備後守康徳 | 享保11年(1726)〜 | |
三宅備前守康高 | 延享2年(1745)〜 | |
三宅備後守康之 | 宝暦5年(1755)〜 | |
三宅備前守康武 | 安永9年(1780)〜 | |
三宅能登守康邦 | 天明5年(1785)〜 | |
三宅備前守康友 | 寛政4年(1792)〜 | |
三宅対馬守康和 | 文化6年(1809)〜 | |
三宅備前守康明 | 文政6年(1823)〜 | |
三宅土佐守康直 | 文政10年(1827)〜 | |
三宅備後守康保 | 嘉永3年(1850)〜明治2年(1869) |
(説明板より)
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桜門(復元) (平成20年4月5日) |
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本丸跡 (巴江神社) (平成20年4月5日) |
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二ノ丸櫓(復元) (平成20年4月5日) |
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(説明板より) |
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空堀 |
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二ノ丸跡 (田原市博物館) (平成20年4月5日) |
田原博物館
開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)・展示替日・年末年始(12月28日〜1月4日)
観覧料:一般 210円
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三ノ丸跡 (巴江護国神社) (平成20年4月5日) |
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出曲輪・腰曲輪跡 (崋山神社) (平成20年4月5日) |
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藤田曲輪跡あたり (田原博物館駐車場) (平成20年4月5日) |
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惣門跡 (大手公園) (平成20年4月5日) |
田原城惣門そうもん跡
田原城は文明12年(1480)頃、戸田宗光が渥美半島統一の拠点として築城した。
現在の城の姿は江戸時代に完成したと考えられている。
惣門は武家屋敷を含む田原城の城域を囲う惣構そうがまえの門である。
絵図及び発掘調査の結果から、17世紀中頃にこの石垣が組まれたことがわかっている。
絵図には二層の門が描かれ、田原城の入り口として機能していた。
現在は東側の惣門に関わる石垣が残るのみだが、近世城郭の威容を伝える貴重な遺構である。
平成17年3月
田原市教育委員会
(説明板より)
(説明板より)
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報民倉跡 (愛知県田原市殿町) (平成20年4月5日) |
報民倉跡
報民倉ほうみんそう、天保6(1835)年に田原藩によって一の御倉、二の御倉の2棟(60坪)が完成しました。
領民の勤労奉仕によって建てられた義倉ぎそうであり、天保7、8年の飢饉では、一人の餓死者も出ませんでした。
「報民倉」と刻まれた額が博物館に展示されています。
平成19年3月
田原市教育委員会
(説明板より)
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藩校・成章館跡 (田原市立田原中部小学校) (平成20年4月5日) |
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田原城下町入口跡 (愛知県田原市新町) (平成20年4月5日) |
田原城下町入口跡の由来
龍門寺の文書に
「慶長年間(1596〜1614)戸田公(戸田尊次殿様)城下町を築くにあたり大外堀南西に新町をつくる」とあり、これによると「龍門寺は小牧長久手の戦役長びきて近郷被幣のためやむなく吉胡蔵王山より新町に移る」と記す
現在地は当時城下町の陸路正面の入口にあたり、時には木戸も建てられたようだ
巴江、加治、清谷の入江を前に城下を守る要塞ともなり、路はわざと見透しなく、曲がり曲がって城の大手門にいたる
新町はその道路を中心に開けた街である
龍門寺
(説明板より)
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