4.宜蘭に行く

(旧宜蘭庁長官舎・宜蘭南飛行場跡・北關海潮公園・監寮海濱公園・金瓜石太子賓館・九份)


 平成24年(2012年)3月11日(第3日目)

台湾旅行3日目・・・・

今日は宜蘭という場所へ行く。
いつものように、7時にモーニングコール、8時40分出発である。
今日は大丈夫!寝坊をしなかった。(大笑)
7時5分過ぎにはレストランへ行ったが、殆どの参加者がすでにテーブルに付いていたのには驚いた。
なんで、みなさんはそう早起きなんだろうか?(笑)
で・・・相変わらず“右に偏った”お話が始まる。
わざと寝坊して、別のテーブルに座れば良かったかも・・・・(苦笑)

高速道路を走り・・・午前10時頃に宜蘭市に到着・・・
最初に訪問したのは日本統治時代の「宜蘭庁長官舎」・・・・
現在は「宜蘭設治記念館」となっている。

宜蘭設治記念館(旧宜蘭庁長官舎)
宜蘭設治記念館
発端は一株の老樹クスノキの保存から
宜蘭設治記念館は、元来歴代地方高官の官邸であり、その戸外の庭園には老樹が樹林を成しています。
その中でも特に1株の100年の樹齢を持つクスノキは非常に貴重で、それを保存すべきか否かで論議が巻き起こりました。
しかし、1株の老樹だけでは、保存の意義を満たすことはできませんでした。
そんな中、この100年に渡る宜蘭政治の発展を目視してきた官邸が、何ものにも代える事ができない歴史的価値を持っていた為に、県庁は「南門計画」の中でこの老樹クスノキを保存、並びに、建物は復元、整備し宜蘭設治記念館とすることを決定。
こうして、老建築物に新生命が宿ることになったのです!

和洋折衷建築の風格
本館は、1900年に建てられました。
敷地面積800坪、建築面積74坪で、日本木造建築とヨーロッパ古典建築様式を融合し、和洋折衷建築の風格を表現しています。
官邸建築の他、庭園もまた特色をもった空間であり、枯山水、枯滝石組等の日本庭園によって、花木の枝葉は茂り趣に溢れ、奥ゆかしく上品な庭園を作り上げています。

老樹に新芽―歴史建築の再生
この県知事官邸には、歴代20人余りの高官が居住しました。
内部構造、間仕切りは幾度も変更が加えられ、本来の風貌を復元することは困難な状態にありました。
しかし、職人や専門家の修復と計画により、老官舎はついに、新しい名誉を奮い起こすことができました。
1997年12月13日、官邸再建の第一棟である宜蘭設治記念館が落成、宜蘭の歴史をこれからも見守って行く役割を果たしています。

(日本語リーフレットより)
先住民族「平埔人」の写真展示パネル。

右上の写真は、19世紀末に撮影された武装した平埔人たち。
泰雅(タイヤル)族の地域近くで撮影されたらしい。
説明文が中国語だけなので、文字から意味を想像するしかないが・・・

右下の写真は機織をしている平埔族の女性。

神風特攻隊に関する写真展示パネル。
ここ宜蘭には戦時中、日本軍の航空基地があった。
そこから特攻隊が出撃したらしく、その日本軍航空基地の遺構についての説明パネル。
これも中国語で書かれているので、意味を想像して読むしかないが・・・(苦笑)
これらの遺構の所在地を示す地図のようなものがなかったのが残念・・・・

小さな資料館という感じなので、あっという間に見終わってしまい・・・・暇・・・
と・・・係りの青年が何やらビデオを上映してくれるという。
現地ガイドが「是非見てみましょう」というので、“お付き合い”で見ることにした。
ところが我が添乗員兼ツアーリーダーは、どこかに行ってしまい姿が見えない。
現地ガイドから「どこに行ったのか?」と尋ねられたが、私が知るはずも無い。(苦笑)
またもや単独行動のようである。

で・・・このビデオ・・・日本語で作成されたもの。
宜蘭市の歴史と文化を紹介するもので、これがなかなかいい出来なのである!
自分の町の歴史を大切にしていかねばなりません!・・・という啓蒙の意味も含めたビデオなのだが・・・
いやぁ~こういうものを我が町にも欲しいものである。
日本統治時代の建物も宜蘭市の歴史の一つだから復元して大事に残さねばならないという・・・この考え方。
素晴らしいの一言である。
日本統治時代の建物を壊したがる、どこかの国とは大違いである。
このビデオを見て良かった。
なんか・・・すごく気分がいいんですけど・・・清々しいというか・・・(笑)

ただ、ちょっと気になったのが、昔の「宜蘭庁長官官舎」の建物の写真が出てきたのだが・・・
今のこの建物とかなり風情が違うのである。
玄関部分に車寄せがあったようなのだが、復元された建物にはその部分が無い・・・
そうなると、“復元”といっても、かなりいい加減な復元なのか?・・・と疑いたくなる。
日本ではこういう復元はありえないだろう。
これでは資料的価値がないということになってしまうのではなかろうか?
どのくらいまで、忠実に当時の姿に復元したのかが、よくわからないのが残念・・・

この建物の隣にも日本家屋があった。
そこは、日本政府が作った宜蘭農林学校の校長宿舎を復元した、また別の“資料館”らしい。
添乗員兼ツアーリーダーは、どうも一人でここを見に行っていたらしい・・・(汗)
我々は、なぜか、ここを見学せずにバスに戻ることとなる。
折角、隣りにあるんだから、ついでに見学すればいいのにねぇ~・・・なんで行かなかったのだろう?

宜蘭設治記念館脇のバス停。
ベンチは竹で出来ていて、座り心地の良いベンチだった。

記念館のリーフレットによれば、ここ宜蘭市には、このほかに「旧宜蘭監獄事務室」や「旧主任秘書公館」(日本統治時代は庶務課長の住居)などが復元保存されているらしい。
残念ながら、それらは今回の訪問予定には入っていない。
機会があったら見てみたいものである。

で・・・次に向かったのが・・・「掩体壕」・・・
戦時中、日本軍の飛行機を敵の爆弾の破片等から守るために造られた、機体を保護する壕のことである。
これが今も残っているらしい。
ツアーリーダーが事前に調べていて、ここに向かうという。
こういうところがマニアックな、このツアーのいいところかも・・・(大笑)

途中で渋滞に遭遇・・・・
何事かと思ったら、お祭りなのだそうだ。
その神輿が交通渋滞を引き起こしているらしい。
で・・・その神輿が・・・これ・・・・

追い越すときにバスの窓から撮ったのだが・・・・
軽トラックの荷台に乗っているのが・・・神様!(大笑)
昔は人が担いだのではないだろうか?
人手不足なのか、それとも時代の流れなのか・・・
軽トラの荷台に載せられて神様はどう思っているだろう・・・

まもなく、台湾陸軍の駐屯地に到着したが・・・・掩体壕の位置がわからない。
というわけで・・・近くの宜蘭憲兵隊司令部へ聞きに立ち寄った。(汗)





宜蘭憲兵隊





(平成24年3月10日)

教えていただいたところによると、どうも行き過ぎたらしい。
途中まで引き返したところで「掩体壕」を見つける!

コンクリート製の掩体壕・・・・間違いなく日本軍の遺跡である。
入口部分は、煉瓦で壁を作ってふさがれている。
ツアーリーダーの話では「宜蘭戦争記念館」なのだそうだが・・・
中には入れないようなので確認は出来なかった。
表の看板を見てみると、何かの発表会の展示場として使用されているようである。
この場所のすぐそばを川が流れている。
参加者の中から「滑走路はどこにあるんだ?まさか水上機の掩体壕か?」との発言があった。
いくらなんでも川を利用して水上機を飛ばすなんてことはあり得ないだろう。
トンチンカンな話である。
で・・・早速、タブレットで現在位置の確認・・・・
多分、30メートルぐらいは誤差があるだろうから・・・ピンポイントでここだとは示せないが・・・
おおよその位置は分かるはずである。
通常、滑走路から誘導路を使って掩体壕へ飛行機を運び、そこに隠す。
だから・・・地図で滑走路跡と思われる場所を探してみる。
基本的には1000メートル前後が直線となっている道路。
当時の滑走路が戦後、道路として使用されることが多い。
風向きによって離着陸の滑走路を変えるので、よくある形がV字形やL字形である。
直線の道路がV字型に交わるような場所・・・・そういう場所があれば、そこが元滑走路の可能性が高い。
戦時中の軍事施設の多くは、戦後、そのまま軍事施設(駐屯地)とか、学校、役所、病院、公園などに転用されることが多い。
それも加味して・・・地図を見てみると、それらしき場所はあるのだが・・・
地図をツアーリーダーに見せて、このあたりが滑走路という可能性がありますねぇ~・・・と言ったら・・・
案の定・・・ムッとされて無視された。(苦笑)
お前の意見など聞きたくないということなのだろう。

次に向かったのは「宜蘭南飛行場跡」らしい・・・
これもツアーリーダーが調べた場所らしい。
ここから米軍が上陸している沖縄へ特攻隊が出撃したという。

今日の天気は雨が降ったり止んだり・・・
ちょうど雨が降り出したため、バスの窓に雨粒がついてしまい写真撮影に不便をきたす。
やがて、どうもこのあたりではないかという場所にたどり着く。

向こうの方に管制塔らしき建物が・・・・
ツアー参加者の中から、あれが当時の管制塔ではないかとの声が上がったが、そんな馬鹿な・・・である。
戦時中にあんな立派な現代風の管制塔を日本軍が建てるわけがない・・・(と、私は思う)

まもなく、電信柱の向こう側に古いコンクリートの小さな建物が見えた。
ツアーリーダーはネットで調べたのだろう、その写真と似ているので、あれが当時の管制塔の建物だと言う。
が・・・残念ながら近くへは行けない。
なにせ、こちらはバスである・・・・道が細くて入って行けないようなのである。
やむなく車窓から見るだけ・・・

当時の日本軍の管制塔?

タブレットで地図を表示し、現在位置と周囲の地形を確認する。
ちょうど我々の走っている道路の向こうにかなり長い長方形の公園があることになっている。
が・・・工事中・・・・
現地ガイドの話では、どうも工業団地を造成中らしいとのこと。
公園を潰して工業団地にしているようなのである。
田んぼの向こうに青い工事用の塀が続いている。
あそこが滑走路の跡なのかもしれない。

宜蘭南飛行場跡? 

ツアーリーダーの話では、対空機銃のコンクリート製の台座も何箇所か残っているはずだという。
どうもネットの情報らしいが、バスから見てもそれらしきものが見つからないと残念がっていた。
そりゃ無理も無い・・・(笑)
バスの窓から見て探せるわけはないという気がする。
こういう時は団体行動は不便である。
運転手つきの乗用車で一人で来て、歩き回って“足”を使って調べねば見つからないのではないだろうか?
「まぁ、この辺に特攻基地があったということで・・・」ということで帰る事となる。

時刻はちょうど12時・・・・
途中の食堂で昼食をとる。
宜蘭の“郷土料理”(?)とのこと。

昼食を終え、バスは北上・・・・

まもなく海岸沿いを北上する。
う~ん・・・お天気がよければなぁ~
いい景色なんだろうに・・・
雨空なのが残念である。
宜蘭市の食堂を出発して約40分ほどで「北關海潮公園」という場所に到着。

「ここで、トイレ休憩をします!」というので、一番最後にトイレに行って用を足していたら、ツアーリーダーがウロウロと私を探していた。(汗)
「あっ!、これで全員集まりました!じゃぁ、行きましょう!」と言う。
ん?ただのトイレ休憩ではなかったのか?
「どこへ行くんですか?」と尋ねたら・・・
「あっち!」との事・・・

ドライブインの建物の中を抜けて海岸沿いの散策道を歩く。
ここは、清の時代に作られた“関所”の跡だそうだ。
で・・・そこに清の時代の大砲が残っていて、それを見に行くとの事。
それならそうと言ってくれれば、早くトイレから出てきてあげたのに・・・(大笑)
皆さんをお待たせしてしまい申し訳ない。(大汗)

この大砲は対日防衛のためのものという話もあるが、現地ガイドの話では、特に日本と限定しているのではなく、海から“敵”が上陸してくるかもしれないから念のため(笑)、ここに大砲を据えたのだとか・・・
う~ん・・・しかし、この大砲の飛距離はどのくらいのものだったのだろう。
沖を進む船まで届くのか?こんなチャチな大砲で・・・・
わが町には江戸時代に海防のための城と砲台があった。
日本にやってくる異国船を打ち払うための砲台だが・・・
果たして実際に役に立つような代物だったかどうか・・・
そう考えると、似てるよなぁ~
“異国船打ち払い”と同じ目的だったのだろうか?わが町と同じで・・・・(笑)

更にバスは海岸沿いを北上・・・
次に向かったのは「監寮海濱公園」・・・・
ここは北白川宮が上陸した場所らしい。
記念碑が建っているという。

公園の駐車場にバスを止め、その“記念碑”とやらを探すが見つからない。
と・・・この駐車場の端の方に建物が・・・
そこが“記念碑”への入口のようである

このお寺のような門を潜り抜け、中に入ると公園がある。
遊歩道沿いに説明板もあり、中国語、日本語、英語の3ヶ国語で書かれている。
その向こうに“記念碑”が見える。

説明板ガイド図
1895年日本軍はこの公園の外側の砂浜に上陸し、台湾を50年間統治しました。
当時日本軍の上陸の光景を説明するために、この公園の周辺各地に、5組のガラス説明板を設置しました。
お客様がご覧になった際、各ガラス説明板の横にある説明を御参考にしながら、ガラス板に書かれてある人物と前方の光景を合わせ、それを想像しながら当時の現場情況を御体験ください。

(日本語説明板より)

(説明板より)

【近衛師団出兵経路図】
近衛師団は天皇の親衛軍。
中日戦争末期、近衛師団は命を奉じて遼東半島に向かい、戦争への参加を準備していた。
程なくして中日両国は和議に達し、下関条約を締結。
大本営は直ちに近衛師団を台湾駐屯軍に選び、部隊は旅順、大連から南下し、琉球の中城湾で集結後、台湾へ上陸した。

【近衛師団旅順出港】
1895年(明治28年)5月21日から、旅団司令部、歩兵第一旅団、騎兵、砲兵、工兵、後方部隊などを含む近衛師団の先遣部隊は旅順、大連を出発、琉球の中城湾で集結し、その後台湾に上陸した。
この写真は旅順港出港時の慌しい状況を写したもの。

【北白川宮能久親王像】
ドイツ留学経験を有する北白川宮能久親王は、几帳面な性格の軍人であった。
1895年(明治28年)近衛師団団長を務め4月命を奉じて出征、北京攻撃を予定していた。
中日両国が講和条約を締結後、能久親王は近衛師団を率いて台湾へ行き、台湾上陸の任務を遂行した。
最後は、台湾攻撃戦の最中異郷に客死した。

(説明板より)

 【日本軍澳底上陸記念碑】

野営地の木製記念碑を花崗岩でつくった北白川宮征討記念碑に建て替える。
その上の円錐の物体は、満清軍から奪った戦利品の砲身を改鋳して作ったもの。
昭和期、台湾総督府によって史跡に指定された。
光復後、民衆によって破壊された民国64年に至り、現在の抗日記念碑を建て直した。

(説明板より)

碑には「監寮抗日紀念碑」と書かれている。
抗日???
北白川宮上陸地・・・とかっていう記念碑ではないのか?
ツアーリーダーの話では、以前は、こういう名称ではなかったはずだという。
北白川宮上陸記念碑と書かれていたはずだと言う。
国民党が政権を握ってから書き直されたのだろうと怒っていたが・・・
まぁ、一理あるな・・・それ・・・
もし、国民党の蒋介石が中国からやってこなくて、台湾人だけの台湾だったら、「北白川宮上陸記念碑」という記念碑はそのまま残されたかもしれないなぁ~
しょせん、“中国人”のやることは、こんなものなのだろう。

【日本軍澳底上陸の光景】

1895年(明治28年)5月29日午後、近衛師団は三貂湾に上陸地點を定め停泊、兵をグループに分けて上陸させた。
先遣部隊が周囲を探査しながら内陸に進行した。
人馬や荷物を次々と陸揚げしている情景。

(説明板より)
【能久親王上陸後の記念撮影】

5月31日午前、能久親王は部隊を率いて上陸、「林投樹」に囲まれた砂場に設営した。
親王の椅子は船から運ばれてきたものである。
初代台湾総督樺山資紀が陣中見舞いに訪れ、近侍が2つのモッコを拾ってきてとまを被せて座席に充てた日本軍が離れる際、日本皇族最初の上陸地として木製の記念碑を立て標とした。

(説明板より)

案内板によれば、この公園の下が海岸になっていて、そこが上陸地点なのだそうだ。
遊歩道が海岸のほうへ続いていたが・・・・残念ながらリーダーもガイドも行こうとしない。
そのままUターンしてバスへ。
あ~もったいない・・・
どんな海岸なのか見てみたかったなぁ~

海岸線を走る・・・・

次に向かったのは「金瓜石」という場所・・・
金鉱山らしい。

ここの駐車場で、金鉱山行きの乗り合いバスに乗り換える。
一般車輛は山を登っていってはいけないのだそうだ。

この派手なバスが乗り合いバス・・・

車がすれ違うのがやっとという山道を登り・・・・金鉱山跡へ向かう。
ここは「黄金博物館」を中心とした金鉱山跡を利用したテーマパークのようになっていた。

これは「四連棟」と呼ばれる日本の住宅。
日本統治時代の日本人職員の宿舎だった建物である。

ちょっとレトロな建物・・・・この建物は何かと思ったら・・・
「新北市政府警察局の派出所だった。





お土産屋さん




(平成24年3月11日)
ここは「金瓜石太子賓館」という建物・・・・
大正時代、皇太子(のちの昭和天皇)が、この金山を視察にくる予定とのことで建てられた皇太子のための建物。
が・・・結局、皇太子は来なかったので使われなかったとか・・・
金瓜石太子賓館
本館は1922年に建てられたと推定されている。
台湾国内に現存する屈指の日本式木造建築です。
大正年間、当時の日本国皇太子(後の昭和天皇)が金瓜石鉱山を視察されるという計画がありました。
このため、当時の鉱山所有者である田中鉱業株式会社が皇太子殿下の行啓の際のご休息所として本館を建てました。
日本の伝統的な書院造と西洋の様式を融合させた、当時流行した和洋折衷様式の建築です。
本館の北側には美しい日本式庭園が、南側はミニゴルフ場と弓道場が設けられており、建築や空間に対する日本の繊細な美意識を味わうことができます。

(『新北市立黄金博物館』日本語リーフレットより)





太子賓館の玄関と屋根




(平成24年3月11日)
太子賓館の玄関と屋根
太子賓館の構造は主に日本の邸宅の様式に依拠して設計されています。
建材は全て、最高のものが使用されており、枘(ほぞ)によって部材を接合する伝統的な方法が採用されています。
また本館の屋根は、それぞれ異なる七種の瓦を使い分けて葺かれており、その完成度の高さは建物の細部の造りから一端を伺うことができます。
また、玄関の脇に造られた飾りつきの窓には、日本の精神的象徴である富士山の形が表現されています。
富士山の横には雲形の装飾が施されており、設計者の意図を巧みに表現しています。
本館には全部で23ヶ所の飾り窓が設けられており、太子賓館を鑑賞する上での大きな見どころとなっております。

(日本語説明板より)

日本式庭園と第二客室

日本式の建築では、比較的格式の高い部屋には全て「床の間」と「床脇」が設けられています。
このため、本館の主寝室もまた、正面の左側には床の間が、右側には床脇が見られます。
両者の間に見られる木柱は「床柱」と呼ばれ、これにはさまざまな象徴的意味が込められています。
主寝室からは庭の四季の移ろいが鑑賞できるようになっています。
ここは本館でもっとも眺めがよい場所であり、またこの特徴は主寝室が最も大事な客のための部屋であることを示しています。
本館正面の庭には樹齢百年の九芎(きゅうきゅう)が植えられており、この樹は6月から8月にかけて真っ白な小さな綿をつけます。
そしてその綿は風に吹かれると、まるで雪のように地に降り注ぎます。

(日本語説明板より) 
   
第三客室(貴賓室)と第四客室(太子書房)

太子賓館の内部は、東側は主に客のための空間として使用されていました。
正面入口から入って、左側は客間として使用された部屋です。
廊下に沿って左へと進んでゆくと、手前より順番に第二客室(主寝室)、第三客室(貴賓室)、第四客室(太子書房)といった、重要な客人のための部屋が並んでいます。
これらは外側の音が聞こえにくい静かな環境となっており、一方で外を眺めると広々とした景色を楽しむことができます。
第四客室は、日本の旅館建築では「離れ」と呼ばれる別棟の建物に似ています。
また第三・第四客室には、「床の間」と「床脇棚」が設けられております。
第四客室の床柱には、日本では高級な部屋の建材として使用される黒檀が、そして第三客室では桜の木が使用されています。
第四客室の付書院(または明かり床)に見られる障子、そして欄間の彫刻もまた非常に精巧な設計がなされています。 

(日本語説明板より)
   
ミニゴルフ場および弓道場

奥の庭には、付属施設としてミニゴルフ場と弓道場があります。
弓道場はその名の通り、弓の射撃が実際にできるように設計されています。
ミニゴルフ場は、当時としては非常に高価で斬新な建築材料であるセメントによって造られています。
当地の気候は雨が多いのですが、コンクリートで造られたこのミニゴルフ場は、雨の後も短時間で表面が乾き、すぐに使用できるようになります。

(日本語説明板より)





太子賓館から見た景色




(平成24年3月11日)
太子賓館
ここは「本山(もとやま)第5坑道」・・・・
一部が見学コースとなっているそうだが、我々は真っ直ぐ「黄金博物館」へ向かう。





博物館のジオラマ




(平成24年3月11日)

説明板には「私人煉金」と書かれていて、中国語と英語の説明文・・・
中国語を読んでもわからない。
英語を読んだらもっとわからない・・・(大笑)
軍隊用語で言うところの「処置なし」である。






金塊




(平成24年3月11日)

何億円かの価値があるのだそうで・・・
丸い穴から手を突っ込んで、この金塊を触ることが出来る。
で・・・みんな、なぜか触りたがる。
金塊を撫でて・・・ニコニコ顔で「お~!」と声を上げる。
これ、日本人も外国人も、みなさん同じリアクション!
万国共通である。(笑)

こんなものを撫でて何が面白いんだろうか?
どうせなら、この金塊を撫でるより、なんとか削れないものかと思うのである。(笑)

当時使われていたトロッコと線路・・・・

このほかにも見所はたくさんあるようだが・・・
我々は博物館のみを見学して移動ということになる。
現地ガイドの話では一日かかっても見切れないだろうとの事・・・

時刻は午後5時・・・バス乗り場まで降りて、「九份」行きのバスに乗る。
「九份」で夕食を食べるのだそうだ。
「九份」は映画『千と千尋の神隠し』のモデルになった場所らしい。
そういうことで観光客が多いのか?
昔は「九份」なんかは観光コースには入っていなかったような気がするが・・・(汗)
ただ不思議なのは、日本人観光客ばかりではなく台湾人もしくは本土から来た中国人観光客も多いということ。
あの映画は台湾や中国でも上映されたのだろうか?
それにしてもミーハーだよな・・・・
アニメの影響を受けて見に来るなんて・・・(苦笑)

狭い路地の両側に商店・・・・
若い女子店員が日本語で声をかけてきたのには驚いた。
なんで日本人って分かっちゃったんだろう?(苦笑)
ここで30分ほど自由行動となる。
夕食会場は・・・狭い石段を100段ほど降りた先にあるという。
で・・・ご高齢の参加者は、迷子にもなりたくないし、階段を下りるのが大変なので、散策をせず、今のうちから真っ直ぐそちらに向かうとか・・・
私は一人で散策することにする。

九份から見た景色

ちょっと展望が利く所から景色を見る。
多分、あっちのほうが「基隆(キールン)」ではなかろうか?
私の祖父が戦時中、満州からここ台湾に進駐した時に上陸した港である。
「我が祖父上陸の地」!!
行ってみたかったなぁ~
今度、一人で来たときに行ってみようかな~

狭い路地の中の商店を冷やかし半分の散策・・・
と・・・フクロウのグッズを見っけ!(喜)
買わねばなるまい!
我が妹に・・・・
しかも、店員の女の子は美人なんだし・・・
買わねばなるまいねぇ~(大笑)
しかし・・・彼女・・・日本語が出来ない・・・(汗)
結局、身振り手振りで・・・なんとか購入できた。

ついでに自分へのお土産・・・・
「ステッカー」を探す。
これがなかなか見つからないのである。
昔は、どこにでもあったと思うのだが・・・
「ステッカー」は旅行スーツケースに貼るのである。
宿泊したホテルのステッカーとか、旅先の観光地で買ったステッカーとか・・・
これが旅のいい思い出になるのである。
20歳のときから使っていた(2年前のパラオへの旅行の時に壊れたので引退したが)スーツケースにはステッカーがベタベタ貼ってある。
いまどきこんなスーツケースで旅をする奴はいないだろう。
みんなレンタルだからかもしれないが・・・
ステッカーを貼っている奴は滅多に見かけない。
このメリットは・・・目立つこと。
空港でターンテーブルに乗って出てくる自分のスーツケースを見つけるのが非常に簡単である!
しかも、まず間違って持って行かれたり盗まれたりする心配がない。
余りにも目立つから・・・・盗まれない。
で・・・デメリットは・・・・目立ち過ぎる!(大笑)

しかし、最近は、その「ステッカー」が手に入らない。
昔は、そこそこのホテルには必ずそのホテルのステッカーがあったのだが、今は置いていないという。
以前使っていたスーツケースには31年前に泊まった台湾のホテルのステッカーが貼ってある。
住所を見たら「花蓮」と書いてあった。
ん?俺・・・花蓮なんていう町に行ったの?(苦笑)
ステッカーが貼ってあるんだから間違いなくこのホテルに泊まったのだろう。
が・・・記憶にない。
30年も経つと、こういうわけだ・・・
その他に、タイ、マレーシア、シンガポール、香港、インドのニューデリーなどのホテルのステッカーも貼ってある。
これらのホテル・・・今でもあるのかな?
あ~あ~30年も経つと無くなっちゃうのかぁ~・・・ステッカー!
寂しいものである。
いい旅の記録なんだけどなぁ~

というわけで・・・散々探して、それらしきものがありそうな店に入る。
で・・・「ステッカーありますか?」と尋ねたのだが・・・言葉が通じない!(大汗)
身振り手振りで散々説明し・・・結局、無いというので諦め、別の店へ・・・
いくつもの店を渡り歩き・・・ようやく見つけた!(大喜)
2種類しか置いてなかったけど、間違いなく「ステッカー」である!
金額は・・・20元!
つまり・・・日本円にして60円のお土産!(笑)
これで、スーツケースに思い出が刻めるぞ!(大喜)

そろそろ集合時間なので、狭い石段を降り集合場所へ向かう。
と・・・・すごい人だかり・・・
みんなでこっちにカメラを向けている。
降り切った所で振り返ったら・・・あ~例の映画のワンシーンか?
なんとミーハーな連中なんだと思いながら・・・私も少し離れたところから写真を撮ってみた。(大笑)

全員が集合するまで店の前で待っていたら・・・次々と狭い石段を登って日本人観光客たちがやってきた。
しかも・・・全員が中高年・・・
「いやぁ~キツイ~」「膝が痛い」等々大騒ぎしながら登ってきた。
いやぁ~ご苦労さんなことである。
この急角度の石段をねぇ~登ってくるとはねぇ~
我々のツアーは上から降りてきたから楽だけど・・・(笑)






夕食




(平成24年3月11日)

例の如く、いつもの調子の“右に傾いた”話を聞きながら食事を済ませ・・・・(苦笑)
石段を降りて我がツアーバスのところまで向かう。
途中、夜景を楽しみましょう・・・となったが・・・
さきほど私が撮影した基隆方向の夜景は・・・・正直言って、大した夜景ではなかった。

この後は、真っ直ぐ台北のホテルに向かう・・・・

午後8時ごろ、台北のホテルに無事到着!
さて・・・今晩は、台湾最後の夜である!
初日に行ったマッサージに、日本に帰る前にもう一度行ってみようか・・・
と、コーヒーを飲んで一服しているうちに、ドッと疲れが出てきてしまった。
おかしい・・・いつもならコーヒーを飲むとシャキッとするはずなのだが・・・

外は雨が降っているし・・・
傘を差してまで、ブラブラと夜の街を歩く気は起こらないし・・・・
で・・・結局、帰国の準備をして、部屋でゴロゴロすることにする。
なんと、もったいないことか~
雨さえ降っていなければ・・・・あの石段なんかを歩かねば・・・(涙)
う~ん・・・でも、駄目だ・・・クタクタだ・・・ 体力を消耗してしまった。


   


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