軍艦大鷹慰霊碑 (長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地) (平成20年11月23日) |
碑文
軍艦大鷹たいようは日本郵船欧州航路の貨客船として昭和15年9月19日三菱重工業長崎造船所にて進水しその後佐世保海軍工廠において改装、16年9月5日佐世保鎮守府所管の特設航空母艦春日丸として軍艦旗を掲揚し、排水量20000屯速力21ノット搭載飛行機27機12センチ単装高角砲6門25ミリ連装機銃48門を装備し乗組定員747名なり。
17年7月1日連合艦隊に同年8月31日軍艦籍に編入され航空母艦大鷹と命名せらる。
太平洋戦争の当初、飛行機の発着艦訓練に当り以後トラック、クエゼリン、ルオット、ラバウル、ウルシー、タロア、マニラ、スラバヤ等南方基地への零式艦上戦闘機輸送を主任務とし、17年8月には戦艦大和、駆逐艦曙あけぼの、潮うしお、漣さざなみと共に作戦主隊となり18年5月にはシンガポールへの船団護衛に従事し、その行動は前後17回に及び南西太平洋の全域にわたり数百機の零戦を輸送したるは特筆すべきことにして赫々たる戦果を収めたりと言うべし。
されども戦局は次第にわれに利あらず、マニラにおもむくヒ71船団14隻を護衛航行中フィリピン群島ルソン島北西部ボヘヤドール岬沖40海里にてアメリカ潜水艦ラッシャーの魚雷攻撃を受け、19年8月18日22時48分北緯18度10分東経120度22分、濛雨の南支那海に艦首を直上にして沈没す。
就航以来3年余その行動力と武運の久しきを誇りし大鷹は被雷後僅か20分にて忠勇なる将士数百名とともに1400メートルの深海にその艦歴を閉じたり。
ああ痛恨の極み悲壮これに過ぐるものなし。
従前17年9月28日トラック島南水道南方40海里にて3柱、18年9月24日父島北東200海里にて4柱、いずれもアメリカ潜水艦の魚雷攻撃による戦没者あり、その終焉の際第931航空隊員を含め戦没せられしは477柱、本艦乗員にて國に殉ぜられしはあわせて484柱なり。
護国の英霊に慰霊の誠を捧げその功績を永く後世に伝えんことはつとに各々心にあるところなりしも世情人心不安定にして思うにまかせず、ようやく一昨年元乗組、生存者、遺族をもって空母大鷹会を組織し英霊ゆかりの佐世保旧海軍墓地に軍艦大鷹慰霊碑を建立するに至れり。
すでに戦後39年を閲せしことわれら慙愧ざんきに堪えざるもあやに尊き英魂の各位、冀こいねがわくはこの地に神霊として鎮まり、時あれば天を翔かけりて祖国日本をみそなわせ給わんことを。
昭和59年10月16日
空母 大鷹会
空母大鷹戦没者慰霊碑
春日丸を改装し、昭和17年8月1日空母として竣工
昭和16年5月1日付で佐世保を本籍とされた。
日本海軍では、戦前より、大型優秀客船の建造を行ない、有事には買収または徴用して特設空母とする計画があった。
その3隻のうちの1隻が欧州航路貨客船の春日丸であり、それを改装したのが、空母大鷹である。
春日丸は昭和15年9月19日進水し、船殻工事の大部分と艤装の約30%を実施したのち、昭和16年5月、佐世保に回航。
佐世保工廠で同年9月に特設空母春日丸として完成。
正式に空母大鷹と命名されたのは、昭和17年8月1日である。
大東亜戦争中は主として飛行機輸送の任に就く。
昭和17年9月28日と昭和18年9月24日の2回、米潜の雷撃を受け、後者の場合は航行不能となり、昭和19年4月まで約半年間横須賀で修理に従事している。
修理完工して4月1日、横須賀から呉に回航。
第931空の九七式艦攻12機を搭載し、船団護衛空母として、「ヒ61船団」、「ヒ62船団」、「ヒ71船団」の航空護衛の任についたが、最後の「ヒ71船団」護衛中に敵潜の雷撃を受けて戦没した。
「ヒ71船団」は、給油艦「速吸」、給糧艦「伊良湖」、大型タンカー「帝洋丸」「永洋丸」、大型貨物船「帝亜丸」「阿波丸」「北海丸」「玉津丸」「摩耶山丸」などを含む20隻からなる重要船団で、これを空母「大鷹」、駆逐艦「藤波」「夕凪」、海防艦「平戸」「倉橋」「昭南」「第11号」の8隻が護衛して、シンガポールに向けて8月8日門司を出港した。
途中台湾の馬公に寄り、更に比島のマニラに向かう。
しかし船団がルソン海峡を突破した直後から敵潜3隻の狼群攻撃を受け、18日の深更から19日の払暁にかけて大損害を蒙り、空母「大鷹」」、給油艦「速吸」(佐世保在籍艦)、タンカー2隻、貨物船3隻が沈没するに至った。
「大鷹」は18日当日は船団の後尾に位置していた。
午後10時25分、米潜ラッシャーの魚雷1本が命中。
この魚雷は「大鷹」の右舷後部軽質油タンク部に命中したため浸水と共に大火災となり、液化炭酸ガス及び高角砲弾が誘爆。
12分後、更に魚雷1本が左舷重油タンク部に命中し、8分後に沈没した。
時に昭和19年8月18日午後10時48分であった。
船団は散り散りになってマニラに回航したが、マニラ湾口外にはすでに米潜3隻が網を張っていた。
21日朝、海防艦「松輪」「日振」「佐渡」は雷撃され沈没。(3隻とも佐世保在籍艦)
「大鷹」の慰霊碑は昭和59年10月16日建立。
艦沈没時、運命を共にした477名を含み戦没者484名を祀る。
(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)
【大鷹型】
日本海軍は戦時には軍用に転用することを前提に、優秀艦の建造に対して補助金を出す制度を作っていたが、昭和12年に設けた『優秀船舶建造補助施設』によって建造されたのが日本郵船の「新田丸」「八幡丸」「春日丸」の3隻である。
昭和15年9月に、これら3隻を海軍で徴用して空母に改造する方針が決まり、建造中だった「春日丸」は早速改造工事が始められ、昭和15年9月に特設空母「春日丸」として完成した。
名前が「春日丸」のままになっているのは、徴用という、戦争が終われば所有者に返すのが建前のシステムのためであるが、昭和17年7月に軍艦籍に編入されて「大鷹」と名付けられた。
すでに客船として就役していた「八幡丸」「新田丸」も昭和16年に徴用されて空母へ改造され、「八幡丸」は「雲鷹」と名付けられ、「新田丸」は「冲鷹」と命名された。
完成後の本型は、開戦時こそ「春日丸」が第1航空艦隊に所属していたものの、低速で飛行甲板も短いため新鋭機の運用ができず、作戦行動は難しいと判断され、飛行機運搬任務などに就いていた。
大戦後半に入って米潜水艦による商船の被害が増えると、船団の護衛部隊として哨戒機などを運用していたが、逆に潜水艦から雷撃を受けるなど英米の護衛空母のような活躍はできなかった。
これは、対潜作戦の器材やシステムが不完全だったためである。
3隻ともすべて米潜水艦からの雷撃により失われている。
(要目) 昭和16年・大鷹
公試排水量:2万トン
機関出力:2万5200馬力
速力:21ノット
航続力:18ノットで8500海里
乗員数:747名
兵装:12cm単装高角砲×6
25mm連装機銃×4
搭載機数:23機(補用機4機)
(同型艦)
大鷹 昭和16年9月5日竣工〜昭和19年8月18日戦没
雲鷹 昭和17年5月31日竣工〜昭和19年9月17日戦没
冲鷹 昭和17年11月25日竣工〜昭和18年12月3日戦没
(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)
【ブースター・ロケット】
新型艦上機の設計に並行して、軽空母の短い飛行甲板からの発艦対策が昭和17年にはじまり、約1年で発艦促進のブースター・ロケットが完成した。
「天山」「彗星」などの新型機の主翼下面両胴体に1本づつのブースター・ロケットを装備し、発進と同時にロケットに着火し発進後にこれを投棄した。
「大鷹」などでは合成風速12メートルでも、飛行甲板が短いため3機しか「天山」を甲板上に準備できなかったものが、ブースター・ロケットの併用により発進距離が70%に短縮されたので、空いた甲板を利用し追加9機、合計12機の「天山」を同時発艦用に準備できるようになった。
しかし、艦上機用射出機(カタパルト)の開発に代わる日本海軍の知恵だったが、実用のチャンスはなかった。
(参考:遠藤昭 著 『空母機動部隊』 朝日ソノラマ 1994年8月第4刷発行)
(平成29年7月27日 追記)
【海軍護衛総司令部部隊】
昭和17年4月に編成され、護衛作戦に従事していた第1海上護衛隊と第2海上護衛隊は、いままでの連合艦隊司令部配下から離れ、「海上護衛総司令部部隊」の一隊となった。
ほかに、海護総(海上護衛総司令部)司令長官の直率部隊もつくられている。
昭和18年12月1日新編の1個陸上航空隊と4隻の空母がこの直率部隊に編入されていた。
区分 | 艦船部隊 | 特設艦船部隊 | |
第1 海上護衛隊 |
駆逐艦 | 汐風、帆風、朝風、呉竹、若竹 早苗、芙蓉、刈萱、朝顔 |
崋山丸、北京丸、長寿山丸 |
海防艦 | 松輪、佐渡、択捉、対馬 若宮、干珠、三宅、占守 |
||
水雷艇 | 真鶴、友鶴 | ||
第2 海上護衛隊 |
駆逐艦 | 追風、朝凪 | 長運丸 |
海防艦 | 隠岐、福江、平戸 御蔵、天草、満珠 |
||
水雷艇 | 鵯、鴻 | ||
直率部隊 | 航空母艦 | 大鷹、雲鷹、海鷹、神鷹 | |
航空隊 | 第901海軍航空隊 |
空母を海上護衛で対潜哨戒に使うというのは、ユニークな発想に見えるが、航空母艦といっても制式空母ではない。
それまでは、飛行機運搬に従事していた低速の商船改造空母なので、護衛作戦には手頃と考えたのであろう。
しかし、“海護総”に編入されたからといって、すぐさま作戦に使用できるはずもなかった。
まずは、母艦機搭乗員の養成から始めなければならない。
昭和19年2月1日付で、「第931海軍航空隊」という海上護衛空母搭載機用の航空隊が設けられ、佐伯を基地に訓練を開始。
九七式艦攻を使用して一通りの錬成を終え、母艦のほうも第一着に「海鷹」の準備が3月半ばに整った。
昭和19年3月以降、4隻の護衛空母は南西方面の護衛に従事させることになり、整備の終わったものから「海鷹」「大鷹」「神鷹」「雲鷹」の順に、第1海上護衛隊司令官の指揮下に入り、4月から本格的な活動に移った。
(参考:雨倉孝之著 『海軍護衛艦物語』 光人社NF文庫 2018年2月第1刷発行)
(平成31年4月10日 追記)
【ヒ61船団】
昭和19年4月19日、呉で海上護衛用航空隊の「第931航空隊」の艦攻12機を搭載した「大鷹」は、5月3日、門司発の「ヒ61船団」の護送に出陣する。
護られる船は11隻、護るは「大鷹」のほか海防艦「佐渡」「倉橋」「第5号」「第7号」「第17号」と駆逐艦「朝顔」「雷いなずま」「響ひびき」の9隻からなる強力布陣。
指揮官は第8護衛船団司令官・佐藤勉少将。
途中、寄港地のマニラ少し手前で「あかね丸」が敵潜の雷撃を受けてしまったが、幸い小破の程度ですみ、5月18日に全隻がシンガポールに入港することが出来た。
(参考:雨倉孝之著 『海軍護衛艦物語』 光人社NF文庫 2018年2月第1刷発行)
(平成31年4月10日 追記)
ヒ71船団の悲劇 |
船団名の「ヒ」は当時、フィリピンを「ヒリッピン」「比島」と呼んでいた同地の頭文字に由来する。
船団番号は出港順番であり、奇数は日本からの往航、偶数は復航に付けられていた。
従って、「ヒ71」とは、この名称が使われるようになった昭和18年7月から(日本からフィリピンへの)36番目に編成された船団ということになる。
昭和19年(1944年)8月頃から来るべきフィリピン攻防戦に備えて、日本陸軍はフィリピンに強力な防衛線を構築するため、日本本土や満洲に温存していた予備兵力を続々とフィリピンに送り込んだ。
これらの兵力を輸送した後の輸送船は、ボルネオ島、マレー半島、ジャワ、スマトラ島などに回航され、ここから石油や工業原料、生ゴムなどを積み込み、再び船団を組んで日本に戻るのである。
フィリピン行きの輸送船団の中に、石油積み込み用の空荷の油槽船も含まれたが、これらは途中で分離してボルネオ島やシンガポール方面に直行していった。
昭和19年8月10日午前5時、九州北部の伊万里湾を18隻の客船、貨物船、輸送船と2隻の海軍特務艦(輸送艦と給油艦)、そして8隻の護衛艦で編成された大船団が抜錨した。
旗艦は小さいながらも司令官用の公室も設備されている海防艦「平戸」。
指揮官は第6護衛船団司令官の梶岡定道少将。
行き先は客船、貨物船と輸送船がフィリピン・ルソン島。
油槽船と給油艦がシンガポールであった。
船団を構成する船は油槽船の「永洋丸」と「瑞鳳丸」を除いて全て速力15ノット以上の高速船であった。
伊万里湾抜錨後まもなく、兵員を満載した「吉備津丸」が機関故障で船団を離脱し、長崎港へ向かった。
8月13日午前6時過ぎに台湾膨湖諸島の馬公(膨湖)泊地に到着。(15日の説あり)
ここで第1海上護衛隊から第3掃討小隊の海防艦「佐渡」「松輪」「日振」「択捉」と駆逐艦「朝風」が加えられた。
各艦船の整備、給水などを行ない、船団を組みかえ、「ヒ71」船団は16隻に編成替えとなった。
船団を護衛する海軍艦艇の陣容は増強され、空母1、駆逐艦3、海防艦9の13隻となった。
8月17日午前8時、船団の中の「鴨緑丸」ほか3隻と輸送艦「伊良湖」が、すでに到着していた他の護衛艦5隻と共に本隊から分離して台湾の高雄に向かった。
輸送船団 | 輸送船 | 能代丸 | |
北海丸 | |||
能登丸 | |||
あづさ丸 | |||
日昌丸 | 6,529総トン | ||
阿波丸 | |||
香椎丸 | |||
旭東丸 | |||
二洋丸 | 機関故障により引き返す | ||
陸軍特殊輸送船 (上陸強襲船) |
摩耶山丸 | ||
玉津丸 | 9,590総トン | ||
(吉備津丸) | 伊万里湾出港直後、機関故障のため長崎港へ向かう | ||
海軍給油艦 | 速吸 | 基準排水量18,500トン | |
油槽船 | 帝洋丸 | 9,845総トン | |
瑞鳳丸 | |||
永洋丸 | 雷撃により中破、台湾・高雄に引き返す | ||
客船 | 帝亜丸 | 17,537総トン・元フランスの客船「アラミス」 | |
船団護衛 | 空母 | 大鷹 | |
駆逐艦 | 藤波 | ||
朝風 | |||
夕凪 | 損傷した永洋丸を護衛して台湾・高雄に引き返す | ||
海防艦 | 佐渡 | ||
平戸 | |||
択捉 | |||
倉橋 | |||
松輪 | |||
御蔵 | |||
昭南 | |||
日振 | |||
第11号 |
船団護衛に航空母艦が参加したのは昭和19年1月に小型空母千歳が試験的に使用された事例があるだけで、本格的な投入は今回が初めてのことであった。
昭和19年8月17日午前6時、分離した小船団より早く総勢29隻からなる「ヒ71船団」は馬公を出発。
出港2時間後、「二洋丸」に機関故障が発生して馬公に引き返す。
船団がバシー海峡南端のバタン諸島のイトバヤト島の西60カイリ付近に達した8月18日午前5時24分、「永洋丸」が敵潜の雷撃により船体後部を大破した。
油槽船「永洋丸」は荷のない空船だったため沈没は免れ、駆逐艦「夕凪」に守られて台湾・高雄に引き返した。
昼間は空母「大鷹」から艦上機が発艦して哨戒に当たったが、飛行機が飛ばない夕刻以降は無力であった。
この「大鷹」には対潜哨戒機が10数機搭載されていた。(12機の説あり)
これらは旧式の九七式艦上攻撃機で、各機は翼下に爆雷を一発づつ搭載し、交代で船団周辺の海上を哨戒飛行した。
レーダーなどは搭載しておらず、高度1000メートル以下で飛行し、パイロットを含め3名の搭乗員が目視で敵潜水艦の発見に努めるのである。
したがって、哨戒機から発見できる潜水艦は、浮上中のものか、微かに波を切る潜望鏡の痕跡の発見が主体で、潜航中の潜水艦の発見は潜望鏡深度の海面下数メートルを航行中の姿を発見する以外に手立てはなかった。
夜に入って風雨は強くなり、波浪高く、海上は暗夜となった。
そこへ1番船「阿波丸」が発した信号が全船を凍りつかせている。
「船団ハ敵潜水艦ニ包囲サレツツアリ各船警戒ヲ厳重ニセヨ」
米潜水艦はラシャー、ブルーフィッシュ、スペイドフィッシュの3隻。
相互に緊密な連絡をとりながら、まず空母「大鷹」に集中攻撃をかけている。
当時のアメリカ海軍の艦艇用の無線送受信装置は完成度が高く、近接区域であれば感度の良い無線電話の送受信も可能であった。
船団を発見した潜水艦は直ちにグループの他の潜水艦に船団の位置と進路を通報し、付近の海域に集合させるか、あるいは船団の予定針路上に待機させるのである。
これに対して、日本海軍では敵潜水艦の発信する無電を傍受することができても、その位置までは正確に特定する術は持っていなかった。
船団は午後10時20分ごろにはルソン島の西北端のラオアグ沖18カイリに達していた。
このころ天候が急変し、風速12メートル、視界不良となってしまい、船団の隊形が乱れた。
午後10時25分、船団の後尾についていた空母「大鷹」に魚雷命中、数分後、続いて2発目命中。
その爆発によって航空機用のガソリンタンクが爆発炎上し、28分後には「大鷹」は応戦らしい戦闘もみせず、あっけなく沈没した。
船団の各船は順次全速航行に切り替え、リンガエン湾に向かった。
各船は高速で避退運動に入り、船団は支離滅裂となった。
平素、集団行動の訓練などまったくしていない単なる群れの悲しさである。
その混乱の真っ最中、兵員を満載した客船「帝亜丸」が被雷。(23時10分)
第2船倉の右舷水面下に1発、続いて機関室右舷水面下に1発魚雷が命中した。
機関室右舷の破口から大量の海水がボイラー室に流れ込んだため、水蒸気爆発が起こり、その大爆発で被雷後28分で海面に没した。
天候の悪化と各船全速航行に切り替えたため船団は次第にバラバラに展開。
8月19日午前0時32分、「能代丸」の第3船倉左舷に魚雷が命中。
船長は「能代丸」を付近の海岸に座州させ沈没を防ぐため海岸に向かう。
その1分後の午前0時33分、「阿波丸」の船首右舷に魚雷が命中。
船首の水槽が破壊された程度で沈没の危険はなく、そのまま船は進められた。
一連の被雷で各船は動揺し、進路をより海岸線に近付けて、海岸スレスレの航行に切り替えた。
午前3時20分、少し沖合を航行中の給油艦「速吸はやすい」が被雷し、たちまち沈没。
さらに午前4時30分、「玉津丸」の機関室右舷に2発の魚雷が命中、右舷に大きく傾き、そのまま横倒しとなり沈没した。(荒天の中、偶然通りかかった護衛艦が漂流中の65名を救助した。)
午前5時10分、油槽船「帝洋丸」の右舷船首、中央、船尾の3ヶ所に立て続けに魚雷が命中、わずか5分で沈没した。
8月18日 | 午前5時24分 | 永洋丸中波 | |
午後10時48分 | 空母「大鷹」沈没 | ||
午後11時10分 | 帝亜丸沈没 | 乗船者数:将兵・軍属・乗組員合計5478名 戦死者総数:2654名 (将兵2326名、軍属275名、乗組員53名) |
|
8月19日 | 午前0時32分 | 能代丸中波 | |
午前0時33分 | 阿波丸小破 | ||
午前3時20分 | 給油艦「速吸」沈没 | ||
午前4時30分 | 玉津丸沈没 | 乗船者数:将兵・乗組員・船舶砲兵隊員合計4820名 戦死者総数:4755名(乗船者の98%) 生存者は65名(船員132人中の生還者は3名) |
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午前5時10分 | 油槽船「帝洋丸」沈没 | 戦死者数:41名(乗船者数の過半数) |
加えて、護衛艦のうち、佐渡、松輪、日振の3隻もまた、現場海域で2日間の「対潜掃討」を行ったあと、帰投中のマニラ港沖で、敵潜水艦の雷撃により沈没している。
かくて、滅茶苦茶に引き裂かれた「ヒ71」船団の残存輸送船は、昭和19年8月22日前後、単船あるいは、2〜3隻が組となり、バラバラとなってマニラに到着している。
「ヒ71」船団の被害は甚大で、陸軍の精鋭部隊およそ1個旅団(約7,000名)が戦わずして失われ、およそ1個連隊(約3,000名)が救助されたが、所持していた兵器、弾薬、糧秣などの全てを失い、フィリピン攻防戦のための戦力の価値を失ってしまった。
さらに一連の輸送船の沈没により、およそ1万トン以上の武器、弾薬、糧秣、資材を失ってしまい、その後のフィリピン攻防戦に与える影響は極めて大きなものとなってしまった。
大損害をこうむった「ヒ71船団」は、マニラで立て直しをして新たに「旭邦丸」を加えて12隻の編成で8月26日に再びシンガポールを目指した。
護衛は海防艦「平戸」「倉橋」「御蔵」「第2号」と駆逐艦「藤波」、「第28号駆潜艇」の6隻。
この再編の船団は9月1日に無事にシンガポールに入港することができた。
(参考:土井全二郎著 『生き残った兵士の証言』 光人社 2004年)
(参考:大内建二著 『輸送船入門』 光人NF文庫 2003年)
(参考:雨倉孝之著 『海軍護衛艦物語』 光人社NF文庫 2018年2月第1刷発行)
(平成23年6月26日追記)
(平成31年4月10日 追記)
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