(別称:鮫ヶ城)
上越市本城町6−1・高田公園内
「高田城 三重櫓」のパンフレットより
慶長3年(1598)春日山城主上杉景勝が会津に転封となり、替って越前北ノ庄(福井県)城主堀秀治が入封。
秀治は慶長7年(1602)福島城の築城に着手しましたが、同12年の完成を見ずに没しました。
嫡男の堀忠俊が家督を相続したものの、同15年(1610御家取り潰しとなり、松平忠輝が信濃川中島から入封しました。
忠輝は徳川家康の六男であり、徳川と豊臣の抗争が激化する中で、豊臣家の重臣前田利常を牽制するため、交通の要衝である福島城におかれたものと推定されています。
松平忠輝は入封3年後の慶長18年(1613)に新城の計画を立て、翌慶長19年(1614)国役普請(幕府の命による工事)として築城に着手しました。
普請には13の大名が任命され、総裁には忠輝の舅伊達政宗が就任しました。
ほかには上杉景勝(出羽米沢城主)、前田利常(加賀金沢城主)、蒲生氏郷(陸奥若松城主)、最上家親(出羽山形城主)などの大藩がが任命されました。
高田城の普請で特筆すべきことは、竣工までの期間の短さです。
諸説はありますが、慶長19年3月15日に着手し、7月上旬には一応の完成を見ています。
外堀を含めると60haを優に越える城郭が、約4か月で出来上がった背景には、大阪の陣を控えて、加賀の前田氏、出羽の上杉氏など豊臣の重臣を牽制し、江戸の背後を固めたものといわれています。
平城の高田城には、他の平城と違った二つの注目すべき点があります。
一つは天守閣が建築されなかったこと、二つ目は石垣が積まれていないことです。
天守閣は平城のシンボルとして、近世城郭の代表的な建築物とされています。
また、石垣のない平城はまれで、高田城の特徴とされています。
その理由は、主に時間的な問題であったと推測されています。
築城当初の櫓は二重の櫓でしたが、光長の時代に地震で倒壊した際、三重の櫓に生まれ変わりました。
本丸の西南隅の土塁上に造られた三重櫓は、大手門から城下町を広く望むことができたと推測されます。
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高田城の三重櫓
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三重櫓
入館料:一般200円 小・中・高校生100円
休館日:月曜日(月曜が休日のときは翌日)、休日の翌日、12月29日〜1月3日
(平成13年現在)
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