高田屋嘉兵衛像 平成22年5月24日

高田屋嘉兵衛 たかだや・かへい

明和6年1月1日(1769年2月7日)〜文政10年4月5日(1827年4月30日)

北海道函館市の護国神社坂でお会いしました。


淡路島生まれ。
寛政7年(1795年)、辰悦丸を建造し、翌年から船持船頭として箱館〜上方間の物資輸送を開始。
寛政10年(1798年)、箱館に支店を開設。
翌年、幕府の東蝦夷地仮上知に伴い、官船・宜温丸で択捉(エトロフ)に渡り航路を開く。
享和元年(1801年)、蝦夷地御用定雇船頭。
文化3年(1806年)、蝦夷地産物売捌方。
文化7年(1810年)、択捉場所請負人。
幕府の蝦夷地政策に深く食い込み豪商となる。
文化9年(1812年)、国後(くなしり)島沖合でロシア人・リコルドに拿捕され、カムチャッカに連行される。
翌年、国後に送還され、「ゴロブニン事件」の平和的解決に尽力した。


高田屋嘉兵衛像



高田屋嘉兵衛像

(函館市宝来町9・護国神社坂)





(平成22年5月24日)
高田屋嘉兵衛像



高田屋嘉兵衛像

(函館市宝来町9・護国神社坂)





(平成22年5月24日)

【碑文】

高田屋嘉兵衛(明和6年1769〜文政10年1827)は淡路の人
28歳のとき渡来し50歳で帰国するまで箱館を基地とし、エトロフ島を開発経営して北海漁業の先駆をなし、造船、海運業を営み、奉行所松前移転後も、本店を大町に、屋敷を蓬莱町に構えて、大船十余、蔵四十余をもち、大いに箱館の繁栄を築いた
又ゴローイン拘囚のとき、沈着豪胆よく日露の間を奔走してその釈放につとめ、永く露国に感謝せられた
今年、函館開港百年祭を行うに当り、本市出身の梁川剛一氏に嘱し、この銅像を建立して、永くその功績を記念する

昭和33年7月15日
函館市長 吉谷 一次

高田屋嘉兵銅像

この銅像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、箱館開港100年を記念して昭和33(1958)年に建てられた。
制作者は函館出身の彫刻家、梁川剛一である。
嘉兵衛は明治(※以下、シールで隠してある)年に淡路島に生まれ、28歳のとき箱館に渡った。
文政元(1818年)に故郷に帰るまで、箱館を基地として造船・海運業・漁場経営などを手がけ、国後島・択捉島の航路や漁場を開発し、函館発展の基礎を築き、大きな業績を残した。
さらに、ゴロヴニン事件という日露国家間の問題を、民間の立場ながら無事解決に導いたことでも有名である。
この像は、文化10(1813)年、ロシア軍艦ディアナ号が捕らわれていたゴロヴニン船長を引き取るため、箱館に入港した際に立ち会った時の嘉兵衛の姿である。
右手に持つのが松前奉行からの諭書、左手に持つのは艦内で正装に着替えた際に脱いだ衣装であり、仙台平の袴に白足袋、麻裏草履を用い、帯刀している。

函館市

(説明板より)

日露友好の碑




日露友好の碑
(函館市宝来町9・護国神社坂)





(平成22年5月24日)

日露友好の碑

1811年ロシア軍艦ディアナ号の艦長、V.Mゴローニンが千島列島を測量中、徳川幕府役人に捕らえられて、松前に監禁されたゴローニン事件。
翌年、箱館の豪商高田屋嘉兵衛がクナシリ沖にてロシア船に拿捕され、カムチャッカに連行された。
しかし高田屋嘉兵衛は逆境を好機ととらえ、副艦長リコルドとの友情を深め、言葉の壁を乗り越え両国の和平を説き、1813年ゴローニン釈放を実現させ、日露武力衝突の危機より日本を救った。
ゴローニンは帰国後「日本幽囚記」を著し、嘉兵衛を評し「この世で最もすばらしい尊敬すべき人物」とたたえた。
ゴローニンは松前へ護送される前、ここ函館市宝来町の地にあった牢獄に幽閉されていた。
1999年ロシアより、ゴローニン、リコルドの子孫が来日され、高田屋嘉兵衛七代目を交え、事件から186年後の子孫を通じての再会をこの地にて果たしました。
ここに三人の深い友情と邂逅を記念し、21世紀を前に国際親善を深く願い、日露友好の永遠のシンボルとしてこの碑を建立した。

2000年12月
贈 函館ロータリークラブ

(碑文より)


高田屋屋敷跡




高田屋屋敷跡
(函館市宝来町銀座通り)





(平成22年5月24日)
高田屋屋敷跡




高田屋屋敷跡
(函館市宝来町銀座通り)





(平成22年5月24日)

高田屋屋敷跡

箱館の発展は、高田屋嘉兵衛によってその基礎が築かれたといっても過言ではない。
明和6(1769)年兵庫県淡路島に生まれた嘉兵衛は、寛政8(1796)年28歳のとき箱館に渡り、以来、文政元(1818)年郷里に帰るまで、箱館を拠点にして回漕業や漁場経営などで巨額の富を得た。
嘉兵衛は、国後および択捉両島の漁場を開拓し、北洋漁業の先駆者として歴史に名をとどめたばかりでなく、公共事業や慈善事業に大きな功績を残した。
高田屋の全盛は、寛政13(1801)年に嘉兵衛のあとを嗣いだ金兵衛(嘉兵衛の弟)が、幕府の許可を得てこの地域5万坪を拝借し、その一角に豪壮な邸宅を建てた頃である。
その規模は、敷地面積で2町(約220m)四方もあり、邸内には山を築き、池を造り、また高価な石が置かれていた。
市内にはほかに高田屋嘉兵衛の銅像(宝来町)や、大町の高田屋本店跡(標柱)があり、船見町の称名寺には高田屋一族の墓や嘉兵衛顕彰碑がある。

函館市

(説明板より)


高田屋嘉兵衛略年譜
年号 紀元 数え年 事歴
明和 6 1769 (誕生) 淡路島の都志本村で誕生。幼名は菊弥。
天明 1 1781 13 親戚の弥右ヱ門方で漁業を手伝いながら和田屋喜十郎方の商業を手伝う。
寛政 2 1790 22 弟達を連れて兵庫に渡る。
堺屋嘉兵衛のところで樽廻船の水主となる。
寛政 4 1792 24 兵庫に出る前年知りたる“ふさ”と兵庫西出町に所帯を持つ。
寛政 8 1796 28 船持船頭として独立。
1500石積みの大船「辰悦丸」を庄内(酒田)にて建造し、松前・箱館に来航。
寛政10 1798 30 箱館大町に支店を設け、総支配人に弟の金兵衛を置く。
寛政11 1799 31 近藤重蔵の依頼でエトロフ航路を開き、翌年、17箇所の漁場を開拓。
幕府から定期航海用の船などの造船を命じられる。
寛政12 1800 32 幕府は嘉兵衛に蝦夷地定雇船頭を命じ、苗字帯刀を許す。
官船の建造、運用雇船の支配をゆだね道中往来の人馬送証文、官用提灯などを下付する。
伊能忠敬、箱館に着き箱館山で観測を行う(5月28日)
享和 1 1801 33 幕命により5隻の官船を建造し箱館に回送する。
ホロイズミ漁場開発を命じられる。
幕府は嘉兵衛の代人・金兵衛に箱館の湿地5万坪の埋め立てを許可する。
高田屋屋敷を築造。
享和 2 1802 34 工楽松右衛門と共にエトロフ島アイモリに港を築く。
文化 1 1804 36 幕府は嘉兵衛の請願で船作事場(造船所)を開く。
文化 2 1805 37 江戸、大坂に出店を開く。
亀田附近に新田を開墾。大坂、淡路から農民を移住させる。
文化 3 1806 38 箱館大火。
高田屋は米や古着を配り長屋を建てて救済。
材木を津軽、秋田から仕入れて元値で貸与する。
文化 4 1807 39 箱館の水不足解消のため自費で大坂から職人を入れ、市中に数箇所の堀抜井戸を設ける。
4月、エトロフ島ナイボにロシア人来襲。
箱館奉行所より南部藩、津軽藩、佐竹藩、庄内藩に出兵の命。
しかし官船の輸送不能のため嘉兵衛の持船が動員され大任を果たす。
文化 5 1808 40 間宮林蔵らが樺太が島であることを発見する。
文化 6 1809 41 官船建造45隻、蝦夷地輸送、船体修理の功により特別賞賜を受ける。
文化 7 1810 42 エトロフ島漁場所請負人を命じられる。
文化 8 1811 43 ゴローニン事件発生。
文化 9 1812 44 「観世丸」でエトロフなど漁場視察の帰り、ディアナ号に捕らえられる。
嘉兵衛、水主の吉三郎、平蔵、文治、吉蔵、夷人1名、カムチャッカのペトロパウロフスクに上陸。
文化10 1813 45 嘉兵衛一行、送還される。
奉行の名代としてリコルド使節と再会、ゴローニン事件の解決に尽力する。
幕府は日露両国間の円満解決の功績を称えて賞賜を与える。
文化11 1814 46 鎖国下いかなる理由あるとも外国渡航は国禁を犯したことになる。
しかし、異例の沙汰で旧職に復し苗字帯刀御免となる。
文政 1 1818 50 嘉兵衛、健康すぐれず郷里の都志に帰る。
文政 4 1821 53 蝦夷地定雇船頭を免じられる。
蝦夷地備え付け武器の内地転送の命を受ける。(幕府、蝦夷地の直轄をやめる)
文政 5 1822 54 大坂奉行所へ嘉兵衛退隠の口上書を差し出す。
弟・金兵衛は松前藩御用達を命じられ、苗字帯刀を許される。
高田屋は箱館大町を本店とし、兵庫、大坂、江戸を支店とする。
文政 6 1823 55 都志大宮に川池を築造する。
文政 7 1824 56 嘉兵衛、都志にて隠居。
文政 8 1825 57 都志本村に新池を築造する。
文政 9 1826 58 津名郡塩尾港の改修工事費の大半を寄附着工。
領主の蜂須賀侯より小高取格に取り立てられる。苗字帯刀御免となる。
文政10 1827 59 4月5日、都志本邸にて悪性腫瘍のため病没。
墓碑は吉祥山多聞寺。
天保 4 1833   弟・金兵衛、露国と密貿易の嫌疑で追放、財産没収となる。
身柄は松平阿波守御預かりとなる。
その後、高田屋嘉兵衛一族は明治に至るまで箱館で活躍。
刻昆布を一手に納める。
明治44 1911   嘉兵衛、正五位を追贈される。(9月15日)
大正 6 1917   2月、函館公会堂にて嘉兵衛木像開眼式を行う。
昭和10 1935   第1回函館港祭を記念し、函館市より嘉兵衛、金兵衛へ感謝状贈呈。(7月2日)
昭和33 1958   開港百年を記念して高田屋嘉兵衛銅像建立。

(参考:『箱館高田屋嘉兵衛資料館』のリーフレット)

箱館高田屋嘉兵衛資料館




箱館高田屋嘉兵衛資料館
(函館市末広町13−22)





(平成22年5月25日)

当資料館の由来

当資料館は高田屋造船所跡地にコンブ倉庫として造られ、特に明治36年建築の1号館は北前船のバラスト(船の重石)を利用した由緒ある建造物です。

(リーフレットより)


高田屋嘉兵衛銅像鋳造原型 平成22年5月25日

北海道函館市・北方歴史資料館でお会いしました。

高田屋嘉兵衛銅像鋳造原型


高田屋嘉兵衛銅像鋳造原型

(函館市・北方歴史資料館)

梁川剛一氏製作
函館市宝来町建立のものと同大
梁川剛一記念美術館寄贈



(平成22年5月25日)

高田屋嘉兵衛銅像 平成22年5月25日

北海道函館市・北方歴史資料館でお会いしました。

高田屋嘉兵衛銅像


高田屋嘉兵衛銅像原型「未建立」

(函館市・北方歴史資料館)

昭和2年に函館港の堤防の先端に建立予定であったが都合で未建立
梁川剛一氏製作
梁川剛一記念美術館寄贈



(平成22年5月25日)
高田屋恵比寿神社




高田屋恵比寿神社
(北方歴史資料館となり)





(平成22年5月25日)

高田屋恵比須神社由来

高田屋嘉兵衛および二代金兵衛は、ことのほか神仏の信仰厚く、屋敷、蔵地、漁場、船中などに、すべて守護神をまつりました。
屋敷(現、銀座通り)には恵比須神をまつり、蔵地には稲荷神をまつり、漁場や船中には金刀比羅神などをまつりましたが、とくに屋敷の恵比須神と蔵地の稲荷神とは近隣の人たちからも尊信されました。
共に商売繁盛、漁業満足の神様だからであります。
銀座通りは昔、高田屋通りといいました。
恵比須神からは恵比須町の町名まで生まれ、昭和40年まで存続しました。
ここにまつる恵比須神は、高田屋が代々奉祭してきたその恵比須様であります。
稲荷神(御蔵稲荷)と金刀比羅神は東照宮(宝来町)に合祀されております。

(説明板より)

北方歴史資料館




北方歴史資料館
(函館市末広町23−2)





(平成22年5月25日)

【近藤重蔵と高田屋嘉兵衛】

北辺警備ならびに全蝦夷地処分についての近藤重蔵(幕臣・探検家)の意見が採用されて、寛政11年(1799年)、幕府は東蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄地にすることになった。
そして蝦夷地総裁松平忠明以下多くの高官が同方面に派遣された。
蝦夷地から江戸に帰っていた重蔵は、エトロフ島経営の任をおびて、松平忠明らと共に江戸を出発し、厚岸に着いたのは6月上旬であった。
兵庫の船頭、高田屋嘉兵衛が厚岸に入ったと聞いて、さっそく彼を呼び入れた。

高田屋嘉兵衛は、淡路島志本村の生まれで、蝦夷地交易に力を入れ、その果断な実行力によって、めきめき業績をあげていた。
いつも二人の妾をつれて航海するほどの精力的な男であった。
重蔵は、嘉兵衛に向かって「エトロフに渡る航路を開くのに協力してもらいたい」と頼んで同意を得た。

重蔵は、厚岸で日本語に通ずるアイヌ人3人を選んで従者として、嘉兵衛と共にクナシリ島に渡り、アトイヤに滞在した。
嘉兵衛は毎日、船を乗り回してみたり遠見山に登ったりして、潮流をよく見極めた。
そしていよいよ確信を得て7月、七十石積みの船に乗って出航し、エトロフのタンネモイに着いた。
そして数日間アトイヤに安着し、魔の海峡を大船でたやすく往復できる航路を発見できたのである。

嘉兵衛は、一旦兵庫に帰り、千五百石積みの「辰悦丸」その他4艘の大船に、米、塩、魚貝、漁網などを積み、松前、箱館を経て東蝦夷地に向かった。
寛政12年(1800年)4月頃、シャマニで重蔵が嘉兵衛の船に乗り込む。
厚岸の酋長イコトイが、幕府の新政に服さず、多くのアイヌ人と共にウルップに逃亡した話があった。
そこで重蔵は、武威を示すために、いかめしい甲冑を着けて、紅白の指図旗を持ち、エトロフ島に上陸した。

アイヌたちは、初めは驚き怪しんだが、重蔵は彼らに嘉兵衛の持ってきた米、塩、衣服などを与えたので、しだいに心服するようになった。
そしてシャナ(紗那)に会所を置いて、17ヵ所の漁場を開き、また全島を7郷・25ヵ村に分けて、各村の酋長を乙名おとなあるいは土産取みやげとりに任じて治めさせた。

エトロフ島は、すでに明和5年(1768年)にロシアに占領されていたが、ロシアがその後同島の経営を疎かにしていたので、その隙を狙って日本が占領した格好になったわけだ。
アイヌ人はエトロフ島を「近藤島」と呼んだ。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月9日 追記)


【捕らえられた高田屋嘉兵衛】

ゴロヴニンが逮捕された時、「ディアナ」号副艦長のリコルドは、これを救おうとしたが、海岸からの砲撃が激しく、上陸できなかった。
1812年(文化9年)8月3日(旧暦)、「デイアナ」号は1隻の小艦を従え、先年エトロフで捕らえた五郎次ら7人の漂流日本人を連れて、再びクナシリ(国後)島へやってきた。
「今回送還の日本人とゴロヴニンらとを交換してもらいたい」という書面を五郎次に持たせてやったところ、役人は「去年捕らえた7人は全部殺してしまった」と答えた。
リコルドは非常に驚いたが、ともかく五郎次と漂民らを上陸させ、「もし殺されたのなら、その理由書を得たい」と言わせた。

8月14日、リコルドはケラムイ岬を通りかかった1艘の日本船を抑留した。
それは高田屋嘉兵衛の持ち船「観世丸」(六百五十石積み)で、嘉兵衛以下40人ほど乗り組み、エトロフから松前へ航行の途中、クナシリへ寄港したところであった。
船員らは、ロシア人に驚いて海に飛び込み、溺れて死んだ者も多かった。
嘉兵衛は落ち着いた口調で自分が船主であることを告げ、「他の者は助けてほしい」と言った。
ゴロヴニン艦長の生死については無事で松前にいることもわかった。
リコルドは、嘉兵衛の威厳ある風貌と、立派な態度を見て、ただの人ではないことを知った。
彼はゴロヴニンの安否がわかるまで、嘉兵衛ほか4人を人質にすることにして、「観世丸」の貨物を「ディアナ」号に積み入れ、そのままペトロパヴロフスクへ回航した。

捕らえられた高田屋嘉兵衛は、ロシア人の尊敬を受けて、あまり不自由なく暮らした。
今までペトロパヴロフスクへ来た日本人といえば、みな舟子か番人のような下層の者たちで、日本のサムライの相貌をそなえた者は嘉兵衛が初めてであった。
嘉兵衛は、ロシア語の勉強を始め、ロシアの事情を研究した。
嘉兵衛は、日露通商開始の支持者で、紛争を平和に解決することを強く望んでいた。
ロシア人たちは、彼を尊敬して「長官」と呼んだ。

リコルドは嘉兵衛と話し合ううち、相互の事情がかなりはっきりしてきた。
一方、嘉兵衛も、リコルドらが艦長ゴロヴニンの安否を深く気遣っているのを知って、この釈放のために、ひと肌脱ごうと決心した。
リコルドは、嘉兵衛の意見に従い、オホーツク長官に手紙を送り、イルクーツク知事から松前奉行あての公式書簡を申請した。
嘉兵衛は、これを松前奉行に伝達する役を買って出た。
この頃、2人の水兵が死んだため、いつも楽天的な嘉兵衛が苦り切った顔をして沈んでいることが多くなった。
リコルドは、嘉兵衛にこそ艦長の釈放も対日関係の復活もかかっていると思ったので、イルクーツクからの返事を待たず、ただちに嘉兵衛を日本へ送還する決心をした。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


【没落】

オホーツク長官ミニツキーは、嘉兵衛が両国和親のために尽くしたことを徳として感謝状を贈った。
嘉兵衛は、「従来通りエトロフ島請負人たることお構いなし」と申し渡され、将軍家からは両国斡旋の功によって、賞金をもらった。
そののち、彼は箱館に本店を置き、兵庫、大坂、江戸に支店を置いて盛大に業務を続けたが、まもなく弟に譲って郷里の淡路島に隠退。
1827年(文政10年)、59歳で死んだ。

ロシア人は、嘉兵衛が日露間の斡旋に努力した感謝のしるしとして、海上で日本船に出遭っても、高田屋の商標である山高印の小旗を出せば劫略(脅して奪い取ること)せず、ロシア船も赤旗を掲げてこれに応じるという約束をした。(密約)
弟の金兵衛の時代になって、高田屋の船は東蝦夷地シャマニ沖で2隻のロシア船に出遭い、「旗合せ」をした。
ところが、それがその筋にわかり、密貿易の嫌疑で取り調べられ、その結果、密貿易の事実はあがらなかった。
しかし、先の密約をしていたことがわかり、1833年(天保4年)、家産は全部没収、本支店とも閉鎖のやむなきに至り、さしも栄えた高田屋一家も遂に没落してしまった。

(参考:中村新太郎 著 『日本人とロシア人』 1978年5月第1刷発行 大月書店)

(平成31年2月10日 追記)


高田屋嘉兵衛顕彰碑



高田屋嘉兵衛顕彰碑
(北海道函館市・称名寺)





(平成22年5月25日)
高田屋嘉兵衛の墓




高田屋嘉兵衛の墓
(北海道函館市・称名寺)





(平成22年5月25日)

高田屋嘉兵衛一族の墓地

この墓域の中にある正面中央の一基は
  顕徳院瑞光明現居士
     次弟 高田屋嘉蔵
  高誉院至徳唐貫居士
     長兄 高田屋嘉兵衛
  高運院顕徳勇義居士
     四弟 高田屋金兵衛
他の四基はそれぞれ函館に於ける同家一族のものである
大正6年2月11日嘉兵衛の木像開眼式を挙行した
■■山から高誉院殿至徳功阿唐貫大居士を追贈せられている

昭和31年8月3日
称名寺

(説明石碑・碑文より)

高田屋嘉兵衛一族の墓




高田屋嘉兵衛一族の墓
(北海道函館市・称名寺)





(平成22年5月25日)

高田屋嘉兵衛一族の墓

高田屋嘉兵衛は明和6年(1769年)淡路島に生まれ、廻船を業とし、寛政10年(1798年)箱館大町に支店を設けた。
以来、弟金兵衛と力を合わせ、千島エトロフの開発と共に巨富をもって箱館の殖産興業に多大な業績を残した。
日露両国間の問題解決に努力したのも有名で、その顕彰碑は観音堂前にある。
郷里で没したから墓は淡路にもあるが、金兵衛の系統が函館に住んだので、称名寺にも墓が建てられた。

(説明板より)

称名寺



称名寺

(北海道函館市船見町18−14)




(平成22年5月25日)

称名寺

称名寺は、正保元年(1644年)円龍上人が亀田村(現市内亀田八幡宮辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれており、箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院である。
明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)称名寺を公称し、宝永5年(1708年)亀田の衰退と箱館の繁栄により箱館の富岡町(現・弥生町 弥生小学校)に移転した。
明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)この地に移転した。
その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート寺院が完成した。
境内には河野政通の供養碑をはじめ、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑として有名な「貞治の碑」〔貞治6年2月(1367年)の銘がある板碑で北海道指定有形文化財〕が保存されている。
また、墓地には箱館発展のもとを築いた高田屋一族の墓、新島襄の海外渡航を助け日本最初の気象観測所を開設した福士成豊、日魯漁業株式会社創立者堤清六の碑など、著名な人の墓がある。

(説明板より)




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