明治7年(1874年)2月22日〜昭和34年(1959年)4月8日
愛媛県松山市出身。
河東碧桐かわひがしへきどうとともに正岡子規門下の双璧。
明治31年(1898年)「ホトトギス」を松山から東京に移し、発行の中心となる。
写生を生かした文章表現の開拓にも尽力する。
夏目漱石の「吾輩は猫である」を「ホトトギス」に連載。
自らも小説を執筆する。
正岡子規の没後に独自の道を歩み始めた河東碧桐らの新傾向俳句に対しては守旧派を宣言する。
客観写生と花鳥諷詠を説き、俳壇に君臨するとともに多くの俊才を育成した。
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句碑 ![]() (山口県下関市・赤間神宮) 「七盛の 墓包み降る 椎の露」 (平成23年9月15日) |
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平家一門之墓 (山口県下関市・赤間神宮) (平成23年9月15日) |
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平家一門之墓 (山口県下関市・赤間神宮) (平成23年9月15日) |
前列 | ||
左少将 | 平有盛 | |
左中将 | 平清経 | |
右中将 | 平資盛 | |
副将能登守 | 平教経 | |
参議修理大夫 | 平経盛 | |
大将中納言 | 平知盛 | |
参議中納言 | 平教盛 | |
後列 | ||
伊賀平内左衛門 | 家長 | |
上総五郎兵衛 | 忠光 | |
飛騨三郎左衛門 | 景経 | |
越中次郎兵衛 | 盛継 | |
丹後守侍従 | 平忠房 | |
従二位尼 | 平時子 |
(説明石碑・碑文より)
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赤間神宮 (山口県下関市阿弥陀寺町4−1) (平成23年9月15日) |
赤間神宮
御祭神 第81代 安徳天皇
寿永4(1185)年3月24日源平壇浦合戦に入水せられた御8歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる
昭和20年7月2日戦災に全焼せるも同40年4月24日御復興を完成し同50年10月7日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 同60年5月2日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり
(説明板より)
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句碑 (福井県敦賀市・気比の松原) 「松原の続くかぎりの秋の晴」 昭和32年10月4日から来訪した虚子は、松尾芭蕉にならって気比神宮に詣でた後、気比の松原などを周遊し、句を残しました。 (平成20年4月12日) |
高濱虚子翁 昭和32年10月4日この地に来遊 時の市長畑守三四治氏これが記念に翁の真筆による句碑を建立す
爾来 広く文人墨客の親しむところなりしが風化損傷著しきものあり
茲に俳誌ホトトギス壱千号を機に蜀の■蹟を顕彰せんがため翁が生地の伊豫青石を選びて新たに建立せしものなり
昭和55年10月吉日
敦賀市長 高木孝一
(碑文より)
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気比の松原 (福井県敦賀市・気比の松原) (平成20年4月12日) |
名勝 気比の松原
ここ気比の松原は 三保の松原(静岡県)虹の松原(佐賀県)とともに日本三大松原の一つに数えられている
その昔 聖武天皇の御代に異賊の大群が来襲した
そのとき敦賀の地は突如震動し一夜にして数千の緑松が浜辺に出現した
そして松の樹上には気比神宮の使鳥である白鷺が無数に群衆し あたかも風にひるがえる旗さしもののように見えた
敵はこれを数万の軍勢と見て恐れをなし たちまちのうちに逃げ去ったという
この伝説に因んで「一夜の松原」とも称される
現在 気比の松原はおよそ東西1千メートル南北4百メートル広さ37.9ヘクタールで樹数約1万3千本を数え海岸林としては全国的にも珍しく赤松が群生している
(碑文より)
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