高橋至時 たかはし・よしとき

明和元年11月30日(1764年12月22日)〜享和4年1月5日(1804年2月15日)


字は子春。
号は東岡・梅軒。
通称は作左衛門。
大坂定番同心の長男。
高橋景保かげやすの父。
安政7年(1778年)父の跡を継ぐ。
算学を松岡能一に学ぶ。
天明7年(1787年)麻田剛立ごうりゅうに入門し、間はざま重富とともに天文学を学ぶ。
寛政9年(1797年)寛政暦を完成。
伊能忠敬を指導して日本全国測量事業を始めた。
フランス人ラランド著の天文書を調査し、『ラランデ暦書管見』を残す。


高橋至時の墓



高橋至時の墓

(東京都台東区東上野・源空寺)





(平成19年12月28日)

高橋至時よしとき(国指定史跡)

台東区東上野6丁目18番 源空寺墓地内

角石の墓碑正面に、「東岡高橋君之墓とうこうたかはしくんのはか」と隷書れいしょで刻み、三面には、尾藤二洲びとうにしゅうの撰文を刻む。
東岡は至時の号である。
至時は江戸時代中期の暦学者。
明和元年(1764)11月、大坂御蔵番同心、高橋元亮の子として生まる。
名を至時、字を子春、通称を作左衛門といい、東岡または梅軒と号した。
15歳え父の職を継ぐ。
性来、数学・暦学を好み、公務のかたわら、それらの研究に励む。
ついで、当時の天文学会の第一人者、麻田剛立あさだごうりゅうの門に入って学ぶ。
寛政7年(1795)、改暦の議が幕府で起きると、師剛立の推挙で、同門の間重富はざましげとみとともに天文方に抜擢され、同9年「寛政暦かんせいれき」をつくる。
一方、伊能忠敬いのうただたかが幕命により、実測地図を作成する際には、測量を指導し、完成させた。
その関係で、二人は後世「日本地図の父母」といわれている。
文化元年(1804)1月5日、41歳で肺患のため没した。
著書に『赤道日食法』がある。

平成7年3月
台東区教育委員会

(説明板より)

源空寺墓地



源空寺墓地

(東京都台東区東上野6ー18)





(平成19年12月28日)
源空寺



源空寺

(東京都台東区東上野6ー19ー2)





(平成19年12月28日)

【師匠・麻田剛立あさだ・ごうりゅう

大坂に蘭学の基礎をおいたのは、豊後国(大分県)出身の麻田剛立であった。
かれはもと杵築きつき藩の医官であったが、幼い頃から天文学が好きで熱心に独自の観測をしていた。
しかし藩にいては好きな天文暦学の研究に没頭することができないので、思いきって明和8年(1771年)ごろ脱藩して大坂にきた。
大坂では生活費を得るため医業を開いた。
このとき38歳。
いっぽうまた「先事館」という天文学の塾を開き、みずから天体観測をしたり暦学の研究をおこない、かつ授業もした。
やがてその実証的な天文暦学は有名になり、従来の暦術の改正に貢献するところが大きかった。

門弟には大坂の御定番同心の高橋至時、町人の間重富はざま・しげとみ、山片蟠桃やまがた・ばんとうらがいて、大坂における天文学は江戸の幕府天文方をはるかにしのぐものがあった。
寛政7年(1795年)に江戸幕府において改暦を計画したとき、剛立を起用しようとしたが、剛立はこれを辞退して門弟の高橋至時、間重富をすすめた。
高橋至時は大坂城の同心から幕府天文方となり、改暦事業を成し遂げた。

間重富は長堀川の富田屋橋後詰(西区)に大きな店舗をもっていた富裕な質屋の主人で、生来器械に興味をもち、彼が育成した金工に作らせた天文観測器具が麻田流の天文学の興隆に大いに寄与した。
重富は至時とともに改暦のことに当たり、その後は幕府勅任の命を固辞して帰坂し、引き続き天文暦学の研究につとめ町人学者として聞こえていた。
また幕命によって測量のため長崎に赴き、至時の死後はその遺した暦書の翻訳を完成したこともある。

(参考:梅渓 昇 著 『緒方洪庵と適塾』 2008年初版第4刷 大阪大学出版会 発行)

(平成27年10月24日 追記)



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