高野長英 たかの・ちょうえい

文化元年5月5日(1804年6月12日)〜嘉永3年10月30日(1850年12月3日)


陸奥国水沢生まれ。
仙台藩水沢領主・留守氏の侍医高野玄斎の養子。
文政3年(1820年)江戸で杉田伯元・吉田長淑ちょうしゅくに蘭学を学ぶ。
文政8年(1825年)長崎に赴きシーボルトに師事。
3年後のシーボルト事件勃発後に姿を隠し、天保元年(1830年)江戸麹町で町医者と蘭学塾を開業。
天保3年(1832年)日本初の生理学書『医原枢要いげんすうよう』を著す。
この年、渡辺崋山を知り、以後、崋山主宰の西洋事情研究会主要メンバーとなり、『二物考』『戊戌ぼじゅつ夢物語』を著す。
天保10年(1839年)蛮社の獄に連座、永牢となるが、弘化元年(1844年)に脱獄。
宇和島・鹿児島などを密かに訪れ、『三兵答古知幾さんぺいたくちき』などの蘭書翻訳を行った。
嘉永3年(1850年)江戸青山百人町で幕吏に襲われ自殺する。


瑞皐高野先生誕生之地の碑


『瑞皐高野先生誕生之地』碑
(岩手県奥州市水沢区吉小路)

正三位男爵 後藤新平 書

大正7年5月5日建之   東京青山 石勝■


(平成21年11月8日)
救荒二物考の碑



救荒二物考の碑
(岩手県奥州市水沢区吉小路・生誕地跡)





(平成21年11月8日)

救荒二物考の碑

幕末の先覚高野長英先生は天保の飢饉に際し生民の窮乏を憂い救荒二物考を著し馬鈴薯と早熟蕎麦の栽培調理の法を詳述實践して國内に一人の飢える者無きを期した
今先生の誕生百五十年祭に當り其の救民済世の遺業を偲び碑に刻して之を後世に傳える

1953年
祭典委員會

(碑文より)

高野長英「蘭文座右銘」の碑



『高野長英「蘭文座右銘」』の碑
(岩手県奥州市水沢区吉小路・生誕地跡)





(平成21年11月8日)

高野長英「蘭文座右見銘」

門人の福田宗禎に贈ったオランダ語の格言

たえねばや
はては石をも うがつらん
かよわき露の
力なれども
天保7年(1836)高野長英

蘭学、蘭方医学をひたむきに勉強した高野長英が、西洋のことわざを引用して学問研究に対する信条を表わした言葉です。
後に宇和島に潜伏した高野長英は、学則の最初に「西洋の古語に曰く、学問の道は、須らく雫の石を穿つ如くせよ。」と掲げ、門人教育の方針を示した。

(碑文より)

高野長英生誕地跡



高野長英生誕地跡

(岩手県奥州市水沢区吉小路)





(平成21年11月8日)
高野長英生誕地跡



高野長英生誕地跡

(岩手県奥州市水沢区吉小路)





(平成21年11月8日)

高野長英 1804年(文化1)〜1850年(嘉永3)

長英は、1804(文化元)年留守るす家臣の後藤惣助実慶さねよしと美也みやの子として生まれ、のち母の実家高野家の養子となり、養父玄斎から蘭学の初歩を学びました。
17歳で江戸に出、吉田長淑ちょうしゅくの門に入り、長英の名を与えられ、のち長崎にむかいシーボルトの鳴滝塾に学び視野をひろめました。
シーボルト事件では、多くの門下が処罰されたなかで、長英は旅にでていて難をのがれ、町医者として活躍するため留守家を離れました。
その後、わが国最初の生理学書「医原枢要いげんすうよう」を、また、1836(天保7)年の大飢きんには「救荒二物考きゅうこうにぶつこう」を著わし、早生ソバの栽培を庶民にすすめるなど、民衆の願いに応える学問の方向をしめしました。
1839(天保10)年の蛮社ばんしゃの獄で、長英はその著書「夢物語」で幕政を批判したとの理由で永牢の身となりました。
獄中にあっても、不屈の姿勢を示し、1844年(弘化1)江戸伝馬町獄舎の火事で牢を脱し、多くの門人や学者、宇和島・薩摩藩主などに守られながら訳業などをつづけ、あるときは薬品をもって面相を変え、いくども名を変え潜行活動をしながら、ついに1850(嘉永3)年江戸青山で襲われ自刃、47歳の英雄的な生涯を閉じました。

平成4年3月
水沢市

(説明板より)


【高野長英誕生】

文化1年(1804)5月5日、高野長英は水沢で生れた。
父は後藤ハ介実慶、50歳。
母は美也、24歳。
長英(幼名、悦三郎)は実慶の三男である。
長兄は後藤惣助実元で、その母は猪狩七左衛門の娘であった。
この長兄は嘉永6年(1853)まで生きており、66歳で亡くなった。
次兄は直之進湛斎、この人は文政6年(1823)に江戸で亡くなった。
その次が長英である。
弟は慶蔵といい、天保8年(1837)に江戸で亡くなった。
4人の子のうち、長兄の惣助実元だけが、先妻の子であり、湛斎、長英、慶蔵の3人は、後妻美也の子である。
長英たちの母美也は、美代、幾代などとも呼ばれ、後藤と同じ留守家臣高野元端の娘である。

文化9年(1812)の9月15日、父親である後藤ハ介実慶が53歳で死んだ。
長英はこの時、8歳である。
あくる年の文化10年、9歳の時、長英はその母・美也の兄・高野玄斎氏信の養子となった。
文化11年、10歳の長英は、隠居した祖父・高野元端に連れられて、東山興田(水沢から25kmほど離れた大東町)に行き、祖父の開いた塾で勉強するとともに、村の子供に祖父の代わりに漢籍を教えたりした。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月17日追記)


高野長英旧宅



高野長英旧宅
(非公開)
(岩手県奥州市水沢区大畑小路7)





(平成21年11月8日)

高野長英旧宅(非公開)

高野家は、高野長英の母、美也の実家で、長英が17歳で江戸に出るまでの一時期を暮らしたところです。
現在の建物は、1876(明治9)年に改築されていますが、西側の表庭に面した8畳と6畳の二部屋が長英の居室として保存されています。
長英9歳のとき、父の後藤惣介が亡くなります。
その後、母とともに高野家にもどり、14歳で伯父高野玄斎げんさいの養子となります。
長英は、「解体新書」を著した杉田玄白に学んだ蘭方医でもあった養父高野玄斎に蘭学を学びます。
また、祖父の高野元端げんたんから漢籍かんせきを学び、元端が東山興田(現在の東磐井郡大東町)でひらいた寺子屋では祖父の代理も勤めたとも伝えられています。
(国指定史跡)

水沢市

(説明板より)

国指定史跡 高野長英旧宅
所在地 水沢市大畑小路7番地

近世日本の先覚者、高野長英は文化元年(1804)5月、留守るす氏家臣後藤惣助そうすけの三男として吉小路きちこうじに生まれた。
長英は9歳のとき父が没したため、大畑小路おおばたけこうじの母美也みやの実家、高野家の養子となった。
この家は長英が幼少の頃、養父玄斎げんさいから蘭学らんがくを、祖父玄端げんたんから漢学を学んで育ったところである。
家は明治9年(1876)に一部改築されたが、階下の8畳・6畳は長英の居室として、当時の状態がよく保存されており、この階下二室が昭和8年4月13日、国の史跡に指定された。

昭和62年8月  水沢市

(説明板より)

高野長英旧宅



高野長英旧宅
(非公開)
(岩手県奥州市水沢区大畑小路7)





(平成21年11月8日)

【シーボルトの学舎に入る】

文政3年(1820)、蘭学修行のため、養父の反対を押し切って江戸に出た。
17歳の時である。
はじめ杉田伯元を頼って、その内弟子になろうとしたが、断られたので、伯元の家塾に通って蘭学を学んだ。
養父から支給される学資は、春秋あわせて4両であるが、江戸での生活費は最低ひと月1両2分を要した(長英書簡)から、生活は苦しく、按摩の内職をして、かろうじて飢えをしのいだ。
しかし、幸いにも翌年には、蘭医・吉田長叔の内弟子になることが許され、ようやく内職から解放された。

ところが、彼が長叔に師事して4年目の文政7年(1824)8月、師の長叔が金沢に出張中、急死した。
落胆した長英は、長崎の医師・今村甫庵の勧めで、翌年同行して長崎に赴き、シーボルトの鳴滝学舎に入塾した。
22歳の時の事である。
彼はその翌年の2月に蘭語論文『鯨ならびに捕鯨について』をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を与えられたが、引き続き長崎に留まって、生理学と化学の研究に従事した。
長英は、ドクトル論文の他に、今日判明しているだけで、16種にのぼる蘭語論文を、シーボルトのために書いている。
シーボルトの日記によれば、彼は貧しいが有能な日本人学生数名を雇い入れ、鳴滝塾に住まわせ、彼の日本研究を援助させた、とある。

(参考:責任編集・佐藤昌介 『日本の名著25 渡辺崋山 高野長英』 中央公論社 昭和47年11月初版発行)

(令和2年5月14日 追記)


【酒好き・女好き】

長英は、語学の才に恵まれていたばかりでなく、学殖も豊かであったが、その反面、傍若無人な人柄が災いして、蘭学者仲間の評判が、あまりかんばしくなかったようである。
彼は江戸に帰った後も、鳴滝塾時代の同輩を呼び捨てにし、彼らが長英の医術が優れていることを知って、たびたび患者の診察を頼むことをよいことに、カネに困れば、伊藤玄朴その他の旧友の宅へ押しかけ、強奪同様にして金を借りた。
そのため明治になって、坪井信道の未亡人が、大槻玄沢の孫にあたる大槻文彦翁に向かい、「長英さんは人の悪いお方で」と語ったという(大槻文彦『高野長英行状逸話』)。

また彼は身持ちも悪かった。
長英が江戸にもどって開業した際、坪井信道が岡研介に宛てた書簡の中で、長英の大言壮語癖と放蕩癖を皮肉っている。
彼の酒好き・女好きは有名であった。
長英が脱獄・逃亡した際、幕府が全国に配布した人相書きには「大酒の由」と記されている。
地下潜行中の長英を一時藩地にかくまったことのある宇和島藩士・松根内蔵は、のちに、「長英は女と酒となくては一日も居られぬ性」であったと証言している。

(参考:責任編集・佐藤昌介 『日本の名著25 渡辺崋山 高野長英』 中央公論社 昭和47年11月初版発行)

(令和2年5月14日 追記)


【『二物考』・『避疫要法』】

天保4年(1833)に大飢饉が起った。
紀州藩の遠藤勝助は、、もとは儒学者であるが、飢饉の対策を求めて広く意見を交換する会を作り、いくらかその内容をぼかして老人の集まりであるとし、「尚歯会」と名付けて、江戸在住の名高い知識人を招いた。
この会合の産物として遠藤勝助の『救荒便覧』が書かれ、高野長英の『二物考』『避疫要法』が書かれた。

『二物考』(天保7年・1836年発行)は、気候不順でもよく実る早はやそば、、じゃがいもの二種を作って、米麦に頼らずに代用食をとって切り抜ける道を勧めたもので、その植物の性質、栽培法、調理法についてはオランダの書物をひいて、細かく説明している。
序文は尚歯会の世話役である遠藤勝助が書き、内容は、長英が述べたところを長英の弟子・内田弥太郎が文章にしたものである。
挿絵は渡辺崋山が描いた。

長英は、岩手の飢饉の知識から疫病の対策を早くから考え、『瘟疫考』全2冊を、天保7年(1836年)に著したが、医者でなくとも誰でもがすぐに応用できる手引き本とし、更に『避疫要法』全1冊を天保7年冬に書いた。
内容は、まず病人の気力の衰えぬうちに腹中の汚物を取り除くべきであり、吐き薬を使うか、それがない時は生ぬるい塩湯を数盃飲んで鳥の羽さきを喉に入れて吐けという。
軽い病はこれだけで治るし、重い場合にも、初めにこうしておけば、死は避けられるとした。
他に、疫病の人を訪問するにはどうしたらよいか、病人の部屋は窓を時々開けて空気を良くすべきだとか、死んだ時にすぐ埋葬して、そのあとは掃除し窓から良い空気を入れる事などの指示がある。
誰でもできることばかりで、特に専門医に頼む必要はない内容である。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月2日追記)


【蛮社の獄:目付・鳥居耀蔵】

鳥居耀蔵(1796〜1874)は、大学頭・林述斎の四男として生れ、旗本・鳥居一学の養子となったて家禄2500石を受けた。
生家の縁では徳川幕府の理論的な支えをなすべき任務を課されて育ち、養家の縁では幕府譜代の臣として武力をもって忠義を尽くす任務を課されたものと自分を位置付けた。
二重の意味で思想が彼の上に働きかけた。
幕府の命令に批判をもつと彼がみなしたものに対する、手段を選ばぬ弾圧が、目付として、町奉行としての彼の方針となった。
林家の儒学を守ってこれに対抗する蘭学を排すること、幕府の歴代の政策である鎖国を堅持し、これを緩めるような動きの芽のうちに断固として摘み取ることが彼の政治的決断の基準となった。
渡辺崋山、小関三英こせきさんえい、高野長英らの蘭学者を死に至らしめた「蛮社の獄」、洋式砲術を伝える高島秋帆を投獄した「長崎事件」は、鳥居が計画的に事実を捻じ曲げて作った二つの災難である。

「長崎事件」は、やがて鳥居自身に跳ね返って来て、弘化2年(1845)、鳥居甲斐守は町奉行を辞めさせられ、丸亀藩京極家に永預けとなる。
明治の新政府ができて彼の禁錮を解く命令を出すと、自分は幕府の命令でここに来たのだから幕府の許しがなくてはここを去らないと言って断った。
新政府は仕方なく、旧幕府の役人の名で改めて命令を出した。
彼は東京に戻って旧知に会い、自分の言うとおりにしなかったから幕府は滅びたのだと言って反省の様子がなかった。
批判者を容赦なく捕えて殺してゆけば、権力を守り抜くことが出来るという政治信条を、彼は生涯を通して疑うことはなかった。
その後、徳川旧臣の住む静岡に移って、林家にゆかりの人の家で余生を送った。

【蛮社の獄:『夢物語』】

天保8年(1837)、米国船モリソン号は日本の漂流民7人を送り届けようとして江戸湾に達したが、砲撃されて退去した。
翌天保9年6月に、モリソン号が日本にまた来るという知らせがオランダ商館長を通して幕府にもたらされた。
この時に評定所でなされた第1回の議論は、モリソン号を再び打ち払うことに傾き、その様子を評定所記録方・芳賀市三郎は、蘭学者の仲間に伝えた。
彼らは大いに憤慨し、渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は匿名で『夢物語』を、松本斗機蔵(八王子同心組頭)は、渡辺崋山・高野長英と同じ趣旨の上書を書いた。

老中・水野忠邦は、モリソン号の日本再訪問の噂もあるので、江戸湾の防備を堅くしようとして目付・鳥居耀蔵と代官・江川太郎左衛門とに巡見を命じた。
両者は浦賀の測量に際して衝突。
鳥居は小人目付こびとめつけの小笠原貢蔵に命じて測量をしたが、その結果は粗末なものだった。
鳥居は江川が渡辺崋山に助言を求め、内田弥太郎(高野長英門弟)、奥村喜三郎、上田喜作など洋式測量家を用いたことに不快を感じた。
小笠原は、自分が役に立たぬことを取り繕うために鳥居に悪口を言ったため、鳥居と江川の不和が深まった。
この時の対立は、崋山たちがモリソン号についての幕府の方針を批判したという噂を聞いた時の鳥居の反感を更に強くした。

江戸に定住してからの長英は翻訳の仕事が進み名声を得るにつれて、人間が転換したかと思われるほどに他人に対しても傲慢な態度で接し、自分の学力を自慢していたようである。
躁鬱気質の人にありがちな気分の変化である。
この躁状態の最高潮に、幕府批判の書『夢物語』は書かれた。

長英がモリソン号打ち払いの評定について聞いたのは、天保9年(1838)10月15日のことである。
その席で何人もの蘭学者が幕府の政策の非をならし、同席の渡辺崋山もその趣旨を『慎機論』に書いたが、完成するには至らなかった。
長英は知らせを受けてから6日後の10月21日には、『夢物語』という小冊子を書きあげている。
この論文の形式は問答式であり、一種の劇的対話である。
『夢物語』という題も人を引き付ける力を持っていたので、写本の形で広く人々に読まれたらしく、幕府にとっては不気味な潮流を作った。

鳥居耀蔵が目付の地位にあった天保10年(1839)4月10日、彼は江戸城内で配下の小人目付・小笠原貢蔵に命じて、同じく小人目付・大橋元六と共に渡辺崋山たちの身辺を調べさせた。
小笠原は4月29日に鳥居宛に報告書を差し出し、5月1日に鳥居と城内で会って更に指令を受けた。
その指令に際して、目付である鳥居耀蔵は、その上司である老中・水野越前守忠邦の内命によるものであるかのように偽った。

小笠原の探索は、鳥居によって、無量寿寺の住職・順宣たちの無人島行きの噂話と、モリソン号打ち払いについての渡辺崋山・高野長英たちの批判とが結び付けられ、幕府の政道批判の意図を含めた無人島渡航計画の証拠集め作業に変わっていく。
一旦、大洋上の無人島に渡れば、そこで幕府に知られずに異国人と連絡が取れ、そういうことが日本の国(幕府)を危うくすることになる。
そこで、無人島渡航計画をきっかけとして蘭学者「数十百人」を罪に陥れようとする手が打たれた。

天保10年(1839)5月14日、渡辺崋山は北町奉行所に呼び出され、その日から牢に閉じ込められた。
5月17日、岸和田藩岡部侯の侍医・幕府天文方御用・小関三英が自殺した。
正座し柱にもたれて三稜針らんせったで動脈を突き破ったという。52歳。
5月18日、高野長英は、崋山が捕えられたのを知って身を隠していたが、そのまま逃げよという勧めを断り4日経ったこの日の夜に、北町奉行所に自首した。

天保10年(1839)12月、判決が下り、長英は永牢をおしつけられることになった。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月30日追記)


十思公園


十思公園
(東京都中央区日本橋))

伝馬町牢屋敷跡




(平成17年11月13日)

傳馬町牢屋敷跡
所在地 中央区日本橋小伝馬町1の5先
所有者 東京都(中央區)
地積 13.45坪(22尺四方)
右を東京都史蹟に指定する。
昭和29年11月3日 東京都教育委員會

伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治8年市ヶ谷囚獄が出来るまで約270年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。
現在の大安楽寺、身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。
当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。
牢舎は揚座敷、揚屋、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦脱」と記されてある。
牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御■場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力1人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。
伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰橋本佐内、頼三樹三郎等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。
その後もここで尊い血を流したものは前者と合わせて96士に及ぶという。
これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。

昭和29年11月
江戸史跡保存協賛會
平成2年3月公園整備に伴い由来板を作り直しここに設置するものである。
中央区土木部公園緑地課

(説明板より)

※ ■はパソコン上で表示不可能な文字です。

伝馬町牢屋敷跡



伝馬町牢屋敷跡
(十思公園)





(平成17年11月13日)

都旧跡 伝馬町牢屋敷跡

所在 中央区日本橋小伝馬町1丁目5番地先
指定 昭和29年11月3日

江戸の牢屋敷は慶長年間(1596〜1615)常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。
代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。
そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続していたものである。
「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。
すなわち、面積は2,618坪(8639.4平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。
南西部に表門があった。
獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657)の収容囚人は130人であり、安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が収容されたこともある。

昭和44年10月1日 建設
東京都教育委員会

(説明板より)


【小伝馬の牢】

長英の入った牢は、小伝馬町にあり、表52間2尺、奥行50間、総坪数2677坪余あったという。
そのまわりにには高さ7尺5寸の練塀が巡らされており、塀の上には忍び返しが施されていた。
門は西南に面し、その反対に裏門があり、裏門の外には堀があった。
正門右側の塀に沿って役人の長屋があり、その突き当り南端に牢屋奉行・石出帯刀の屋敷があった。
牢屋は、奉行の屋敷と反対の西北部にあり、東西大牢2房、東西二間牢2房、百姓牢、揚り屋各1房、揚り座敷4房があった。
牢屋敷の中央に、同心の詰め所、賄い所、薬煎所があり、東南部に首切り場があった。

小伝馬町の牢屋は、未決の囚人、あるいは既決の囚人で、まだ遠島、斬首などの刑の執行のないものを置く場所であって、現代のように懲役や禁錮の執行の場ではない。
だから多くの囚人はここに定着することがない。
長英のように永牢を申し渡されると、自然に牢内で重きをなすことになる。
幕府は各監房に12人の役付きを任命して牢内の自治を図った。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月2日追記)


【蛮社遭厄小記】

投獄された後に、自分がなぜこういう目にあったかを整理して、高野長英は『蛮社遭厄小記』(天保12年)を書いた。
この記録は、災難に巻き込まれた当事者の手記としての歪みを免れず、仲間から出た裏切り者としての花井虎一と彼を操る上司・鳥居耀蔵への憎しみを軸として繰り広げられている。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年4月30日追記)


高野長英居住地の碑



宇和島市指定史跡
高野長英の居住地
(愛媛県宇和島市新町)




(平成19年11月7日)
高野長英居住地跡



高野長英の居住地跡
(愛媛県宇和島市新町)





(平成19年11月7日)

高野長英の居住地

高野長英は、陸奥国水沢生まれの洋学者。
若年から苦学を重ね、ついにシーボルト門下の逸材として有名になり、江戸で蘭医を開業。
名医の名が高かったが、西洋事情の研究と普及に努めたのを幕府の役人に睨まれて、無実の罪をでっち上げられ終身刑の判決を受ける。
牢獄生活6年の後、牢舎の火災で囚人一同は仮釈放となったのを機会に獄に戻らず、脱獄囚としての逃亡生活を送ること3年に及んだ。

宇和島藩主・伊達宗城は、その彼の英才を惜しんで密かに保護の手を差し伸べた。
長英は出羽の蘭学者・伊東瑞渓ずいけいという変名で、嘉永元年(1848年)4月、宇和島に入り、家老・桜田佐渡の別邸に居住することになった。
彼はここで藩士の中より選抜された数名の青年たちに蘭学の教授をし、また午後は藩のために蘭書の翻訳に努めた。
藩命により御荘の地に赴いて、久良ひさよし砲台の設計築造に従事したこともあった。
彼が「五岳堂」と名付けたここの学塾には、彼の筆による学則が作られた。
「学問の道は水の雫しずくが石を穿うがつようにせよ。西洋の書物たるや、文字は蟹かにの横ばいのようであり、音はモズのさえずりのようで、語脈の連なりは前後錯綜して規律がないようだが、よく研究してみると文法、語法は厳格であり、理路整然として月日の運行の如くであることが解る。朝に夕にこれを習い誦しょうしたならば、解明できないということはない。学徒はただ勉めに勉めよ。途中で解らないといって自暴自棄になってはならない。」と第一則に説き、以下、学科の分類や教授中・翻訳の時間、休日中・面会日などを定めている。

しかし彼の宇和島在住も永くは続かず、幕府に探知されたらしいと情報が入って、嘉永2年1月頃、この地を立ち去った。
再び逃亡生活を続けた後、江戸に潜入。
幕府の捕手に囲まれて悲壮な最期を遂げたのは、翌嘉永3年10月末のことである。
学塾の跡には、長英の同郷の後輩、後藤新平の筆になる碑が建てられている。

(参考:宇和島文化協会発行 『宇和島の自然と文化(6訂版)』 平成11年)

(平成22年11月26日追記)


宇和島での高野長英

高野長英は、嘉永元年(1848)2月30日、藩医・富沢礼中、護衛の足軽2人と共に江戸を出発して宇和島に向かった。
嘉永元年4月2日、宇和島に着き、初めは町会所にいて、後に家老の桜田数馬の別荘に移り住んだ。
蘭学者・伊東玄朴の門人・伊東瑞渓という変名の下で4人分の扶持を与えられ、別に翻訳料を渡すという取り決めになった。
藩命により、谷依中、土居直三郎、大野昌三郎の3名が長英について学ぶことになった。
この3人の他に、自発的に習いたいと、二宮敬作の子・二宮逸二が加わった。

長英宅での授業は、はじめにオランダ語文法、次に『三兵タクチーキ』のオランダ語原文一字一字について講じてもらい、これを覚え込んで、それぞれが帰宅して、宿題としてこれを日本文に訳して、翌朝持参して長英に直してもらうこととした。
長英は英語はできなかったが、そのころ伊達宗城が幕府から借りてきていた英語字書が藩の文庫にあったので、これを使ってオランダ語の本に引かれている英語をも読み下していた。
長英はオランダの兵学者スチルチイスの著書を訳して『砲家必読』11冊を著したが、清書したのは谷・土居・大野の3人である。

長英は宇和島から南に11里ほど離れた、土佐に近い深浦湾に砲台を造る計画をする。
嘉永元年(1848)11月22日から12月1日にかけて10日ほどの調査旅行を試み、測量に従事した。
この砲台は嘉永3年4月もしくは5月頃に完成した。
この下見旅行に同行したのは砲術家・板倉志摩之助、松田源五左衛門と門人の土居直三郎。
松田源五左衛門はのちに宇都宮九太夫と共に奉行となって安政2年(1855)3月から12月にかけて宇和島湾に樺崎砲台を造った。
この時には村田蔵六(大村益次郎)が招かれて来ており、長英の『砲家必読』を大いに活用して、この砲台を築いた。
長英の書物はいつも空論ではなく、それを読んで実地に行えば、現実に何事かが成就するという論文であった。

長英は司書としての仕事もした。
伊達宗城は長崎からかなりの数のオランダ語の本を買ってもっていたが、それらを自由に読みこなす人は、まだ宇和島の蘭学の社中からは出ていなかったようである。
長英は、蘭書の文庫に目を通し、どの本に何が書かれてあるのかの摘要を作り、どれだけの本が藩の見地からいって翻訳を必要とするかの見積もりを作ることを頼まれた。
蔵書は、兵書が大多数を占めるとはいえ、その種類は、天文学、数学、言語学、化学、歴史の諸分野にわたり、これほど多数のオランダ語の書物を前にして、その性格を即座に見極め、宇和島藩の目的にとっての必要性を決めるには、相当の学識が前提とされたであろう。

横新町の長英の借家には長英の他に若党1人(昌次郎・三河吉田の生まれ)、僕1人(新吉・身分出処不明)、学僕1人(二宮逸二・二宮敬作の子)、婢1人(実は妾婢兼帯)の5人が住んでいた。
この婢(召使いの女)“とよ”との間には、子どもが生まれていたようである。

嘉永2年(1849)3月14日、江戸からの飛脚が宇和島に着いた。
長英がここに隠れていることが幕府に聞こえ、近々捕手が送られるという宇和島藩江戸屋敷からの知らせだった。
長英は松根図書から200両の金を与えられ、あくる日、3月15日の朝、宇和島を立ち去ったと藩の記録にある。
(実際はもっと早く1月初旬に宇和島を離れたのではないかという説もある)

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月3日追記)


高野長英の隠屋



高野長英の隠屋
(愛媛県西予市宇和町卯之町)





(平成19年11月7日)
高野長英の隠屋



県指定文化財
高野長英の隠屋
(愛媛県西予市宇和町卯之町3−239)




(平成19年11月7日)

蛮社の獄で入獄。卯之町にも潜伏。
高野長英先生

高野長英は文化元年(1804)5月5日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれる。
幼名は悦三郎。
叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となる。
杉田伯元や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ぶ。
田原藩家老・渡辺崋山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。
飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走する。
天保8年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃。
長英は「夢物語」を、渡辺崋山は「慎機論」を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄する(蛮社の獄)。
入獄6年目、獄舎が火災になり一時釈放されるが、そのまま逃亡。
諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り6年間潜行する。
宇和島藩内には嘉永元年4月2日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠した。
その間に「砲家必読」(全11巻)などを訳している。
翌年1月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・二宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜む(現在地)。
4月には鹿児島に向ったが、安んずることができず、再び宇和島を経由し6月3日卯之町に到着。
10日間余滞在する。
8月には江戸を経由し、下総に潜伏。
翌年の嘉永3年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営む。
10月30日、捕吏7人に襲われ、自刃する。

製作
宇和郷土文化保存会
宇和ライオンズクラブ
結成40周年記念
平成12年4月23日

(説明板より)


鳥居門


鳥居門
(愛媛県西予市宇和町卯之町)

西予市指定有形文化財(建造物)
宇和町指定文化財



(平成19年11月7日)

鳥居門

天保5年(1834)鳥居半兵衛によって建築。
庄屋には分限の過ぎた格式高い門構えという理由で、半兵衛は左遷され、清水家が庄屋となる。
本邸は略原形を留め二階にはからくりの間もある。
嘉永2年(1849)、二宮敬作の学友高野長英が卯之町に潜んだ際、当家にも泊まり、県指定長英隠屋と共に知られている。

(説明板より)


卯之町での高野長英

宇和島から広島へ逃れた長英は、広島を離れた後、鹿児島へ入ろうとしたが、彼の頼りとする島津斉彬は異母弟の島津久光との間に家督争いができて藩論が二つに分かれていた時なので、鹿児島入りを果たさず、もう一度四国に戻り、宇和島藩内の宇和島城下から歩いて半日ほどの距離にある卯之町に入った。

長英の卯之町滞在は10日ほどであったという。
彼は、二宮敬作の家の離れの二階においてもらった。
部屋は四畳半で、天井は低くてちょうど6尺くらいだった。
この家は、もとは二階建てだったそうだが、今は平屋となって残っている。

ここからほんの少し歩いたところに里正さとまさと呼ばれる清水家の庄屋門がある。
この家を長英はよく訪れてここで酒を飲んだと言われる。
この里正か、二宮敬作の家かで、いつも酒を飲んでいたようである。
里正は、卯之町の人の中から信頼できる若者を選んで、長英がここを離れる時に同行させた。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月3日追記)


【長英の最期】

大槻文彦『高野長英行状逸話』によれば、長英は召捕の夜、庭に敷きつめてあった枯葉に音がしたが、戸を開けてみると既に人影がない。
不吉な気配を感じて妻に自分は逃げると言った。
すると妻は、今ちょうどお蕎麦を頼んだところですから、それが来たらひと椀食べてからおいでなさい、と言った。
やがて蕎麦屋の出前が来て、「おあつらえ」と言って台所の戸を開くと同時に捕方が押し入った、という。
長英に抱きついた捕方は「御女郎亀おじょろうがめ」とあだ名されていた男で、この男の脇腹を、長英は懐の短刀を逆手に抜いて後ろに向かって刺し、前から向かってきたもう一人を再び逆手で斬り下げ、返す刀で自分の喉を突いて倒れたという。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月5日追記)


【長英の最期】

長英は、しばらく宮野信四郎方に身を寄せていたが、のち下総国香取郡の門人・花香恭法を頼って、一時、同地に移り、嘉永3年3月、再び江戸に戻った。
そして沢三伯の名で、青山百人町に卜居し、医業を営む傍ら、兵書の翻訳に従事したが、同年12月晦日、捕吏に襲われ自殺した。
時に47歳であった。

奉行所の記録によれば、長英が自宅で捕吏に襲われたのは、夜の8時頃で、彼は刀を抜いて抵抗したが、これを打ち落とされたので、さらに短刀を抜いて3人に手傷を負わせ、喉を突いて自殺を図った。
しかし、死にきれず、奉行所まで連行され、仮牢で翌朝、死亡した、という。

(参考:責任編集・佐藤昌介 『日本の名著25 渡辺崋山 高野長英』 中央公論社 昭和47年11月初版発行)

(令和2年5月14日 追記)







「高野長英先生隠れ家」の碑

(東京都港区・スパイラル)




(平成23年8月1日)

都旧跡
高野長英先生隠れ家

こゝは昔の青山百人町幕臣与力小島持ち家で質屋伊勢屋の離れ屋先生の隠れ家又最後の処である時は嘉永三年(1850)十月卅日夜であったこの度青山善光寺の碑の再建に際しここを表彰する
千九百六十四年

(碑文より)






高野長英最期の地(隠れ家)
(東京都港区南青山5−6−23・スパイラル)




(平成23年8月1日)






高野長英の碑
(東京都港区北青山・善光寺)




(平成23年8月1日)

碑文

高野長英先生(1804〜1850)
先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者である
その間に多くの門人を教え又訳書や著書八十餘を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり四十七才で不幸な最後をとげた
最後の処は今の青山南町六丁目四三の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治卅壱年先生に正四位が贈られたので同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処昭和戦災で大部分こわれた
よってこゝに残った元の碑の一部を保存し再建する

昭和三十九年十月






高野長英の碑
(東京都港区北青山3−5−17・善光寺)




(平成23年8月1日)

【長英の墓】

明治12年(1879)10月30日、水沢の大安寺境内にある高野家累代の墓地に高野長英の墓が建てられ、昭和11年(1936)10月30日、長英の肖像と垢つきの小布片を霊体として陶器に入れて新しい墓を作った。
この時に、長英の母・美也の遺骨を茂木家墓地から分骨して、ここに墓を建てた。
長英の遺骨はいまだにそのありかがわからない。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月5日追記)


高野長英墓


高野長英墓
(岩手県奥州市・大安寺)

右:高野長英の母の墓石
左:高野長英の墓石



(平成21年11月8日)

高野長英の御霊

高野長英は蘭学を志し、1820(文政3)年江戸へ向かい、水沢出身の薬種問屋「神埼屋」に草鞋を脱いだ。
以来、高野長英の手紙などに認められている神埼屋に、多大な支援を受けている。
神埼屋は高野長英没後も密かに遺体を引き取り、自家墓地に埋葬したと伝えられている。
神埼屋こと片岡家はその後茨城県土浦市に転じ、高野長英の御霊も1940(昭和15)年同地淨眞寺に改葬された。
「高野長英生誕200年」にあたり、高野長英の供養を続けてこられた片岡家に深謝し、その御好意により、高野家の菩提寺であるここ大安寺に分霊を迎えることとなった。
右の墓石は、高野長英没後30年、長英の母没後15年の1879(明治12)年に建立され、左の墓石は、1928(昭和3)年から『高野長英全集』『高野長英伝』を刊行した高野家13代長運の建立である。
この両墓石の間に155年の時を経て、高野長英の御霊が故郷に帰った。

2004(平成16)年10月30日
高野長英の御霊を迎える会

(説明板より)

高野長英墓所



高野長英墓所
(岩手県奥州・大安寺)





(平成21年11月8日)

高野長英墓

1839(天保10)年長英は、鎖国政策を批判する「夢物語」を書いて、幕府に弾圧され「蛮社ばんしゃの獄ごく」で投獄とうごくされました。
その後火災に乗じて逃亡生活のすえ、江戸で1850(嘉永3)年10月30日幕府の捕方に襲われ自決じけつしてその生涯を閉じました。
国の将来を憂い、近代日本の魁さきがけとなった高野長英の偉業と生涯は、今日もなお高い評価を受け顕彰されています。
長英の著述書等58点が「歴史資料」として平成8年6月27日、国の重要文化財に指定され、高野長英記念館に保管展示されています。

水沢市

(説明板より)

大安寺



大安寺
(岩手県奥州市水沢区字東町2)





(平成21年11月8日)
大安寺



大安寺
(岩手県奥州市水沢区字東町2)





(平成21年11月8日)

【留守氏と大安寺】

水沢市内の留守氏関係の寺には大安寺、増長寺、長光寺、大林寺の四寺がある。
このうち大安寺は水沢留守氏の祖である宗利むねとしが父政景まさかげの発願によって、その遺志を継いで慶長12年(1607)一関城の東方機織山はたおりやまに創建した。
のち、3代水沢城主宗景むねかげ以降、留守氏代々の菩提ぼだい所となる。
寺は寛永年間(1640頃)現在地に建立。
貞享3年(1686)改築、以後数回にわたる焼失と再建をくり返し、万延元年(1860)留守氏の祈願寺吉祥寺きつしょうじを移築して本堂とし、その後3回の修改築を行って今日にいたる。
留守氏の墓は3か所にある。
寺の東南方に宗景(水沢3代)、西南に村利むらとし(6代)、村儀むらのり(7代)各夫妻、さらに村善むらよし(8代)、村福むらやす(9代)の妻及び後妻、北に政景(宗利の父)及び殉死者4名と村景むらかげ(5代)村福(9代)宗衡むねひら(10代)、邦命くになか(11代)、邦寧くにやす(12代)、基治もとはる(13代)の各夫婦や基治生母と宗衡四男景平かげひら、ほかに側室や幼逝ようせい者の墓がある。
なお、景福かげやす(14代)以降の遺骨は同所の奥津城おくつき(留守家)に納められている。
大安寺の墓所は、日高神社境内の墓所とともに、水沢の歴史を理解する上で貴重なことから、昭和49年4月1日に水沢市有形文化財(史跡)に指定されている。

水沢市

(説明板より)


高野長英の碑



高野長英の碑
(岩手県奥州市水沢区・水沢公園・『高野長英記念館』敷地内)





(平成21年11月8日)

高野長英の碑

水沢の生んだ幕末の蘭学者として名高い高野長英 1804(文化元)年〜1850(嘉永3)年の碑で1901年(明治34)に建てられたものである。
碑文は広瀬淡窓の門人である谷口中秋(佐賀県)の撰によるもので、その結びに「先師淡窓先生又言ス吾ガ門下ノ士数千人一飯ノ間モ国ヲ憂フルヲ忘レザル者ハ、其レ唯長英ノミカト、亦以テ其ノ人ト為リヲ知ルベキナリ」と漢文で刻まれている。
長英が天保の飢饉に直面して「救荒二物考」を著し、また「夢物語」にみられる先覚者としての見識と熱情がよくうかがわれる。

(説明板より)

高野長英記念館 高野長英記念館
(岩手県奥州市水沢区中上野町1−9)



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