高崎城 たかさきじょう

群馬県高崎市高松町


高崎城の由来

天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏も滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。
当時、箕輪城主であった井伊直政家康の命によって、慶長3年(1598年)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。
和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下之城と並榎の砦の二つの外堡をもっていたが、高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。
井伊氏築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619年)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。
現在の遺構は三の丸外囲の土居と堀の大部分のみであるが、この高崎城には、県下で唯一の城郭建造物である乾櫓と東門が現存し、明治初年の御三階櫓の写真や「高崎城大意」「高崎城断面図」「御城御土居通ほか、御植物木尺附絵図」ほか、多くの「高崎城之図」等の資料が保存されており、これらによって往時を知ることができる。

(説明板より)


高崎城について

この城は、旧和田城を取り込み、旧箕輪城からは多くの構造物を移して築城されたようです。
慶長5年に井伊氏が佐和山へ移った後、諏訪・酒井・松平・安藤・大河内・間部などが城主となりました。
寛永10年(1633年)12月6日、この城に幽閉されていた徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の三男・三代将軍家光の弟)が自殺した事件で有名な城です。


三の丸外囲の土居と堀



三の丸外囲の土居と堀




(平成15年7月19日)

高崎市指定史跡
高崎城址(高崎城三の丸外囲の土居と堀)

箕輪城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長3年(1598)に中山道なかせんどうと三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩のおこりです。
直政は箕輪から町屋まちやや寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。
今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭かこいくるわ式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。
また、遠構とうがまえと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていました。
明治4年(1871)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展開されたといっても過言ではないでしょう。
都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾櫓」や「東門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓さんそうやぐらの写真や「高崎城大意」等の資料が残されているため、当時の姿を知ることができます。

(説明板より)


乾櫓



乾櫓





(平成15年7月19日)

高崎城乾櫓の由来

この櫓は、高崎城本丸乾(西北)土囲上にあった。
南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。

高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。
先の城主安藤重博が今のように改築したとある。
従って、重博在城の元禄8年(1695年)より以前から存在したことが明らかである。
多分、安藤重長が城主であった寛永の頃の建築であろう。
城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。
所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2年を経て漸くこの位置に復元することができた。
元位置はここから西方300mの地点に当たる。

屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。

高崎城には石垣はほとんどなかった。
この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない。

昭和52年5月
高崎市教育委員会

(説明板より)

乾櫓



乾櫓





(平成15年7月19日)

群馬県指定文化財
高崎城乾櫓

高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。
その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。

二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰櫓をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(12尺)桁行三間(18尺)の規模である。
外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。
現状は初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二ヶ所ずつあけている。
ところが、明治6(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一ヶ所が認められる。
妻飾りは狐格子で破風板に懸魚をかけている。

高崎城の築城は、慶長3(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和5(1619)年に安藤重信が入部して、元禄8(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。
享保(1716〜1736)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的にも矛盾はなく、17世紀末の建築と推定されている。

その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和54年この位置に移築復元された。
初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲されており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。
両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。

指定年月日 昭和49年9月6日
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会

(説明板より)


東門



東門





(平成15年7月19日)

高崎城東門の由来

高崎城16の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。

この門は寛政10年正月(1798年)と天保14年12月(1843年)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。
くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。
門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。

高崎和田ライオンズクラブは、創立10周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和55年2月、市に寄贈したものである。

昭和55年3月
高崎市教育委員会

(説明板より)


城址公園


城址公園
高崎市役所の近くにあります。
ここには何もありませんでした。



(平成15年7月19日)

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