高崎城 たかさきじょう

群馬県高崎市高松町


 平成26年11月16日 

高崎城の由来

天正18年(1590年)、北条氏の滅亡によって傘下にあった和田城も落城して、和田氏も滅びたが、その後、和田の地は箕輪の地として支配された。
当時、箕輪城主であった井伊直政家康の命によって、慶長3年(1598年)この和田の廃城跡に城を構え、箕輪から町家や社寺を移して城下町の基礎を築き、地名を高崎と改めて高崎城と共に城下町が誕生した。
和田城は鎌倉初期、和田正信が築いたと言われ、戦国期は和田業繁・信繁父子の拠った和田城は規模も小さく、下之城と並榎の砦の二つの外堡をもっていたが、高崎城ではこれを廃止して城自体の強化につとめた。
井伊氏築城以来の整備の中で、とりわけ高崎城が整ったのは、元和5年(1619年)安藤重信着城以来三代77年の間で、城郭は大いに改修されて、この時期にほぼ完成された。
現在の遺構は三の丸外囲の土居と堀の大部分のみであるが、この高崎城には、県下で唯一の城郭建造物である乾櫓と東門が現存し、明治初年の御三階櫓の写真や「高崎城大意」「高崎城断面図」「御城御土居通ほか、御植物木尺附絵図」ほか、多くの「高崎城之図」等の資料が保存されており、これらによって往時を知ることができる。

(説明板より)


高崎城について

この城は、旧和田城を取り込み、旧箕輪城からは多くの構造物を移して築城されたようです。
慶長5年に井伊氏が佐和山へ移った後、諏訪・酒井・松平・安藤・大河内・間部などが城主となりました。
寛永10年(1633年)12月6日、この城に幽閉されていた徳川忠長(2代将軍徳川秀忠の三男・三代将軍家光の弟)が自殺した事件で有名な城です。


乾櫓
(平成26年11月16日再訪問)
乾櫓



乾櫓





(平成15年7月19日)

高崎城乾櫓の由来

この櫓は、高崎城本丸乾(西北)土囲上にあった。
南に建つ三重の天守閣(御櫓と呼ぶ)と並んで、本丸堀の水に影を投じた姿がしのばれる。

高崎藩に伝えられた「高崎城大意」という書物によれば「もとこの櫓こけらふきにて櫓作りになし二階もなく土蔵などの如くなるを先の城主腰屋根をつけ櫓に取り立て」とある。
先の城主安藤重博が今のように改築したとある。
従って、重博在城の元禄8年(1695年)より以前から存在したことが明らかである。
多分、安藤重長が城主であった寛永の頃の建築であろう。
城郭建築物の本県内に現存するものはこの櫓只一つである。
幸にこれが保存されていたのは、明治初年に払い下げられ下小鳥町の梅山氏方に移り、納屋に用いられていたからである。
所有者の梅山太平氏が市に寄附の意を表され、県の指定文化財となったのは昭和49年で以来2年を経て漸くこの位置に復元することができた。
元位置はここから西方300mの地点に当たる。

屋根の「しゃちほこ」は栗崎町の五十嵐重五郎宅に現存するもと高崎城のものを模造したものである。
また塀は金古町の天田義英氏宅にある高崎城から移した塀にならって作り、瓦は大部分を下滝町の天田季近氏方に保存されていた高崎城のものを寄附されたものである。

高崎城には石垣はほとんどなかった。
この石垣は土囲敷が広面積を占めないよう止むを得づ築いたもので、乾櫓には土囲上に1m足らずの高石台があったに過ぎない。

昭和52年5月
高崎市教育委員会

(説明板より)

乾櫓



乾櫓





(平成15年7月19日)

群馬県指定文化財
高崎城乾櫓

高崎城の本丸は、烏川の縁りに近いところ(現在の日本たばこ産業倉庫、NTT別館付近)に土塁と堀をめぐらし、その四隅に、西側の土塁の中央に建てられた三層(三階建て)の櫓を取り囲むように四棟の隅櫓を配していた。
その乾(北西)の角にあったのがこの櫓である。

二層(二階建て)で、本瓦葺き入母屋造りの屋根をのせ、腰櫓をめぐらした平入りの建物であり、梁間二間(12尺)桁行三間(18尺)の規模である。
外壁は柱を塗り込めた大壁で、白漆喰で仕上げている。
現状は初層(一階)の西壁(当時とは方位は逆)中央(中の間)に土戸を引く戸口を設け、初層のこの壁以外の三面と二層の四面には、それぞれ太い竪格子をはめた窓を二ヶ所ずつあけている。
ところが、明治6(1873)年に、城内に置かれた東京鎮台高崎分営(15連隊の前身)を撮影した写真では、初層の正面(東壁)右の間に戸口があり、左の間には同様な窓一ヶ所が認められる。
妻飾りは狐格子で破風板に懸魚をかけている。

高崎城の築城は、慶長3(1598)年、井伊直政によって着手されるが、その後、藩主は目まぐるしく替わり、元和5(1619)年に安藤重信が入部して、元禄8(1695)年まで三代にわたって在城し、城と城下町の整備にあたっている。
享保(1716〜1736)ころの著作という「高崎城大意」には、三代の重博が、平屋の土蔵の様でしかなかった乾櫓を二層の櫓に改築したとの記事があるが、これと様式的にも矛盾はなく、17世紀末の建築と推定されている。

その後、東門とともに下小鳥町の農家に払い下げられ納屋として利用されていたが、県重要文化財の指定にともなって、昭和54年この位置に移築復元された。
初層の戸口の位置は納屋として使用されていた時期を踏襲されており、屋根瓦は当時の資料によって復元されたものである。
両側の鉄砲狭間をあけた塗り込め塀は、修景のためのものである。

指定年月日 昭和49年9月6日
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会

(説明板より)


東門

(平成26年11月16日再訪問)
東門



東門





(平成15年7月19日)

高崎城東門の由来

高崎城16の城門中、本丸門、刎橋門、東門は平屋門であった。
そのうちくぐり戸がついていたのは東門だけで通用門として使われていた。

この門は寛政10年正月(1798年)と天保14年12月(1843年)の二度、火災により焼失し、現在のように建て直されたものと考えられる。
くぐり戸は乗篭が通れるようになっている。
門は築城当初のものよりかなり低くなっており、乗馬のままでは通れなくなっている。
この門は明治のはじめ、当時名主であった梅山氏方に払いさげられ、市内下小鳥町の梅山大作氏方の門となっていた。

高崎和田ライオンズクラブは、創立10周年記念事業としてこれを梅山氏よりゆずりうけ復元移築し、昭和55年2月、市に寄贈したものである。

昭和55年3月
高崎市教育委員会

(説明板より)


三の丸外囲の土居と堀 
(平成26年11月16日再訪問)

高崎市指定史跡
高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)

箕輪城主井伊直政が徳川家康の命により、この地に城を築き箕輪より移転したのは慶長3年(1598)のことであった。
築城にあたって直政は、当時和田と呼ばれていたこの地の地名を松カ崎と改めようとし、竜広寺の住持白菴に相談した。
白菴は、諸木には栄枯があることを説き「成功高大」の意味から高崎と名づけるように進言し、これが採用された。
「高崎」の地名はこうして誕生したといわれる(川野辺寛『高崎志』)。
この地にはかつて和田氏により和田城が築かれていた。
直政により新たに築かれた高崎城は、和田城址を取り込む形で築かれたといわれており、坪数5万1613坪にも及ぶ広大な城郭となった(土屋老平『更正高崎旧事記』)。
築城にあわせ、城下町の整備も開始され箕輪城下から多くの寺院や町が移された。
連雀町や田町はこのとき箕輪より移転した町である。
また、城下町を囲む形で遠構と呼ばれる土塁と堀も築かれた。
明治4年(1871)の廃藩置県後、高崎城の敷地は兵部省、次いで陸軍省の管轄となり、乾櫓をはじめとする多くの建物が払い下げとなった。
さらに、兵営や練兵場を建設するために城内は整備された。
このため本丸や二の丸の土塁や堀は現存しておらず、三の丸の土塁と堀がわずかに昔の面影を止めている。

所在地 高崎市高松町5−8ほか
指定年月日 昭和57年2月17日
平成23年10月31日設置

高崎市教育委員会

(説明板より)

 (説明板より)

土塁 
(平成26年11月16日再訪問)


【平成15年訪問当時】
三の丸外囲の土居と堀



三の丸外囲の土居と堀




(平成15年7月19日)

高崎市指定史跡
高崎城址(高崎城三の丸外囲の土居と堀)

箕輪城に封ぜられた井伊直政が家康の命で、慶長3年(1598)に中山道なかせんどうと三国街道の分岐点にあたる高崎に城を構えたのが高崎藩のおこりです。
直政は箕輪から町屋まちやや寺院を移転させて城下町の基礎を築きました。
今は三の丸を囲む土塁と堀がのこるのみですが、本丸、二の丸、三の丸を囲郭かこいくるわ式に構え、二の丸を本城とし、三の丸に武家屋敷をおきました。
また、遠構とうがまえと呼ぶ城下町を囲む堀と土塁も築かれていました。
明治4年(1871)の廃藩までの273年間の高崎の近世の歴史は高崎藩政を中心に展開されたといっても過言ではないでしょう。
都市化が進み、昔日のおもかげを残す箇所は少なくなってしまいましたが、「乾櫓」や「東門」は復元整備されており、また明治初年の三層櫓さんそうやぐらの写真や「高崎城大意」等の資料が残されているため、当時の姿を知ることができます。

(説明板より)






 史跡
 高崎城址 

 高崎市長 住谷啓三郎 書




(平成26年11月16日再訪問)

高崎城記 

高崎は王朝時代赤坂の荘と称し 東山道に属していたが この地方の中心地とまでにはいっていなかった
13世紀 鎌倉時代和田氏が城を築いてここに居るに及んでようやく地方の中心的存在となり 16世紀の末期 天正18年 小田原の北條氏と運命をともにするに至るまで 和田城は三百数十年の歴史を誇った
慶長3年 井伊直政が箕輪城12万石の城主から移って 城主となるに及んで和田の地を高崎と改めた
成功高大の義である
この時代 城地の規模を拡張し 中仙道第一の壮大さは 交通の要衝たることと相伴なって 要害の名をうたわれた
中仙道はのち中山道と改称された
後 酒井 安藤ら数代の城主を経て大河内氏十代の居城となり 明治維新王政復古により廃城となった
大河内氏は初代城主輝貞から第10代輝聲に至るまで 幕政時代ではあるが文治の城主だった
明治6年 東京鎮台高崎文営が置かれ 旧城内は兵営となった
ついで 明治17年歩兵第15聯隊が創設され 以来昭和20年8月太平洋戦争の終結まで 高崎は60余年間 軍都の観を呈した
その間 大小の戦役に従い 特に太平洋戦争には東部第38部隊となり 歩兵第115聯隊をはじめ大小あまた部隊の基幹部隊をなした
滅私奉公 国家護持のために散華の郷土出身将兵は実に5万 兵どもが夢の跡とうたった古人の名句が偲ばれる
昭和20年8月15日 戦終り 平和はよみがえった
われらは永遠に戦争放棄の民として更生し 城内は市の行政 教育 文化の中心機関所在地となり 市民生活の中枢となった
ここに明治百周年を迎え高崎城の回顧記を録する

昭和43年10月23日
高崎市

(碑文より)


城址公園


城址公園
高崎市役所の近くにあります。
ここには何もありませんでした。



(平成15年7月19日)






 ハクモクレン

 (高崎公園)




(平成26年11月16日)

群馬県指定天然記念物
ハクモクレン

元和5年(1619)10月、安藤重信は下総国小見川から高崎城へ国替えされてきた。
以来、重信・重長・重博の3代の77年間にわたり、安藤氏が高崎城主となり、井伊・酒井両氏の後をうけて、城下町の整備をはじめ、領内総検地の実施、領内支配の確立など高崎藩発展の基礎を築いた。
このハクモクレンは安藤重信が高崎藩主となり菩提寺川島山良善寺を建立した元和5(1619)年に庭に植えられたと伝えられている。
根元ちかくで4本の支幹に分れている。
樹高14メートル、根元周囲は4メートル、枝張りは東西13メートル、南北14メートルにおよび樹齢は375年と推定されている。
4月上旬の開花期には、葉に先立ち白い花を枝いっぱいに咲かせて、見事な眺めとなる。

指定年月日 昭和27年11月11日
群馬県教育委員会
高崎市教育委員会

(説明板より)






 高崎公園
 (高崎市宮元町127)




(平成26年11月16日)

高崎公園は、明治9年(1876)、旧高崎城南西の頼政神社に隣接した大染寺の跡地に造られ、当時は頼政公園とも呼ばれていたようです。
明治33年(1900)に市制が施行され高崎市となり、高崎公園と呼ばれるようになりました。
現在も園内に残る、県指定天然記念物「はくもくれん」は、元和5年(1619)高崎城主となった安藤重信がこの地に良善寺を建立した時、境内に植えられたものと伝えられています。

平成18年3月 高崎市公園緑地課

(『高崎公園案内図』説明板より)







 頼政神社 
 (高崎市宮元町143)




(平成26年11月16日)

頼政神社

元禄8年(1695年)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同11年(1698年)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。
宝永7年(1710年)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保2年(1717年)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。
頼政公は、平安末期に、源家の正統に生まれた武将にして歌人である。
白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。
後に剃髪して世に源三位入道と称す。
後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承4年(1180年)宇治平等院で自刃した。
家集『源三位頼政卿集』がある。
又、宮中で鵺ぬえを退治した話は有名である。
当社の祭礼は、例年頼政公自刃の日、5月26日に行われ旧藩時代は上野随一の祭であったと云われる。

高崎観光協会

(説明板より)







 あら町諏訪神社 
 (高崎市あら町85−1)





(平成26年11月16日)

高崎市指定重要文化財
新町あらまち諏訪神社本殿及び御宝石 

新町諏訪神社は、江戸時代の高崎について記した地誌『高崎志たかさきし』によれば、慶長4年(1599)、箕輪城下の下ノ社を勧請かんじょうしたことにはじまるという。
本殿は土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造ぬりごめづくりで、しばしば大火に見舞われた高崎の町にあって、大切な社を火災から守るための工夫だったとも考えられる。
平入り・入母屋造いりもやづくりの建物は一見すると二層のように見えるが、実は裳腰もこしをつけた平屋建で、外壁の下半は海鼠壁なまこかべとなっている。
本屋根と裳腰の間には手の込んだ七賢人の漆喰彫刻が施されている他、波しぶき、飛龍、四隅の牡丹ぼたん、正面の鳥居に付けられた躍動感あふれる昇り龍・下り龍など、随所に見事な漆喰彫刻を見ることができる。
この神社は享保14年(1729)、文化4年(1807)の二度に渡って火災に遭っており、近年の修復工事の際にも屋根材や彫刻の骨木の一部に、その痕跡が確認されている。
礎石背面には文化11年(1814)の刻銘があり、建築的な特徴などを考え合わせ、この建物が元の社殿の部材を利用して再建が行われたことが推測される。
高崎城下の名所のひとつでもあったらしく、太田蜀山人しょくさんじんの『壬戌じんじつ紀行』の中でも紹介されるなど、当時から町の人々、往還おうかんを行く旅人たちの目を和ませていたことがわかる。
信州諏訪にゆかりのある御宝石は、重さ約8キロの鶏卵型の石で、宝篋印塔ほうきょういんとうの屋蓋おくがいを裏返しにしたものを使った台座に安置されている。

所在地 高崎市あら町85・1番地
指定 平成2年2月26日
高崎市教育委員会

(説明板より)



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