高島秋帆 たかしま・しゅうはん

寛政10年(1798年)〜慶応2年1月14日(1866年2月28日)


通称、四郎太夫。
長崎町年寄・出島台場受持として荻野流砲術を修め、のち西洋砲術を学び、高島流を創始する。
天保11年(1840年)アヘン戦争の情報が伝わると、上書を幕府に提出し、洋式砲術の採用を説いた。
幕命により、翌年武蔵国徳丸ヶ原とくまるがはらで洋式銃陣演練を披露し、洋式砲が採用された。
流儀は幕臣の下曾根金三郎・江川太郎左衛門英竜などに伝授され、高島流隆盛と洋式砲普及の基となった。
しかし秋帆自身は鳥居耀蔵ようぞうらに嫌疑をかけられ、翌年逮捕され、弘化3年(1846年)武蔵国岡部藩に預けられた。
嘉永6年(1853年)ペリー来航を迎えると江川の尽力で赦免され、安政2年(1855年)講武所教授方頭取、2年後には講武所砲術師範役に任じられた。


高島流和砲



高島流和砲

(長崎県長崎市・長崎グラバー園)





(平成19年3月26日)

高島流和砲

長崎に生まれた幕末の兵学者、砲術の高島流の祖である高島秋帆の指導により、鉄砲鍛治の野川清造が製造した大砲といわれています。

(株)野川鉄工所社長 野川雅生氏提供

長崎市

(説明板より)


【無実の罪】

江戸松奉行の鳥居耀蔵とりいようぞうは日本に於ける朱子学の本家である林家の出身。
林羅山の子孫である。
蘭学(洋学)は野蛮人のやる学問で、百害あって一利なしと固く信じていた鳥居耀蔵は、陰謀をもって渡辺崋山高野長英といった優れた蘭学者を無実の罪で陥れた。(蛮社の獄)
「蛮社」とは鳥居の目から見た表現で「野蛮な学問をするグループ」という意味だ。
しかし、鳥居の本当のターゲットは、同じ蘭学者の江川太郎左衛門英龍ひでたつであった。
幼い頃から叩き込まれた朱子学は、江川のような人間を決して許してはならぬと教えていた。
とにかく江川を陥れようと鳥居は徹底的に江川の周辺を洗ったが、どうしても陥れるネタは掴めない。
そこで鳥居が目を付けたのは江川の盟友である高島秋帆であった。

高島は西洋流砲術の専門家だが、長崎の生まれの町年寄の息子で、どちらかといえば商人階級の出身である。
阿片戦争で清国がイギリスに惨敗したことを知ると、このままでは日本も危険だとオランダ人に師事して西洋式砲術を学んだ。
それに彼独自の工夫を加え、高島流砲術として日本人が習得しやすいスタイルにした。
彼は幕府に火砲の近代化を訴える建白書を提出するとともに、自ら工夫した砲術を武蔵国徳丸ヶ原で披露した。
日本初の洋式砲術の公開演習である。
東京都板橋区に今も高島平たかしまだいらという地名があるが、実はこの時の訓練が見事であったために徳丸ヶ原がこう呼ばれるようになったのだ。

コチコチの朱子学徒である鳥居にとって、高島は商人という「賤業せんぎょう」を行う階級の出身である。
それだけでも気に食わない。
ところが高島は生まれは商人のくせに砲術などという武士の専門分野に進出し、しかも大きな功績を上げて幕府から褒められている。
幕府が評価したのは、砲術家として優れていたからだが、鳥居にとってはそれ以前にオランダ流を取り入れたところで、その砲術は「野蛮」で劣ったものであり、将軍家が採用するなどあってはならないことなのである。

鳥居は縁戚でもある長崎奉行・井沢政義と組んで、高島は密貿易をしていたという無実の罪をでっち上げた。
鳥居はでっち上げの罪で告訴し、井沢はそれを正当なものとして受理し、なんと高島家は断絶に追い込まれてしまった。
関係者の尽力でなんとか切腹は免れたが、高島は武蔵国岡部藩にお預けとなり、高野長英と同じく永牢、つまり終身禁固刑を受けることになった。
なんと判決が下った天保13年(1842)から嘉永6年(1853)まで、足かけ12年にもわたって牢屋に閉じ込められていたのである。
出獄が許されたのは、鳥居の悪事がバレて失脚し、その後にペリーがやって来たからである。
ペリーの黒船がやってきて初めて幕府も高島の必要性を再認識し、江川の嘆願を受け入れる形で彼を釈放したのである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


【中追放】

鳥居耀蔵に陥れられた砲術家・高島秋帆は、入獄中に三度の失火(天保15年6月30日、弘化2年3月27日、弘化3年1月19日)に遭っている。
獄舎が火事になった時は、慣例に従って囚人は切放きりはなしになった。
切放後、3日間のうちに定めの場所(南町・北町奉行所のいずれか、または本所回向院)に来れば、定めにより囚人の刑を一等減じる事になっていた。
秋帆は、再び帰ったために罪一等を減ぜられ、中追放となっている。
中追放とは、武蔵、山城、摂津、和泉、大和、肥前、東海道筋、木曽路筋、下野、日光道中、甲斐、駿河には立ち入れないということである。
この判決を受けるまでに、秋帆は4年間辛抱したのである。

(参考:鶴見俊輔著 『評伝 高野長英 1804−50』 藤原書店 2007年発行)

(平成23年5月2日追記)




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