高杉晋作像 平成15年7月25日

高杉晋作 たかすぎ・しんさく

天保10年8月20日(1839年9月27日)〜慶応3年4月14日(1867年5月17日)

山口県萩市郊外の萩往還公園(道の駅)でお会いしました。


長州藩士・高杉小忠太こちゅうたの長男として生まれました。
藩校・明倫館めいりんかん吉田松陰の松下村塾、更に江戸に遊学して昌平黌しょうへいこうに学びました。
文久2年(1862年)幕艦・千歳丸せんざいまるで上海に渡る。
この時、西洋列国の圧力で半植民地化した上海居留地を見て強い危機感を抱いて帰国しました。
帰国後、久坂玄瑞伊藤博文井上馨らと品川御殿山のイギリス公使館を焼討ちし、また、藩論の航海遠略策を批判しました。
文久3年、萩藩の下関における攘夷決行に対する英仏艦の反撃に際し、下関の防備を委任され奇兵隊を組織。
これは、吉田松陰に学んだ西洋歩兵制や清国で見聞した太平天国たいへいてんごく軍にならったものといわれています。
この後、脱藩の罪により一時入獄。
翌元治元年(1864年)の四国連合艦隊下関砲撃事件では、出獄して藩の正使として講和に応じました。
幕府の征長軍組織化にともなって藩の保守派が実権を握ると再び脱藩し、同年末から翌慶応元年(1865年)にかけて諸隊を率いて下関で挙兵、保守派を倒しました。
10月に下関で旧知の坂本龍馬に会い、上海行の際に入手した拳銃を贈りました。
この拳銃は、のちに寺田屋の遭難の時に龍馬が発砲したものです。
慶応軍制改革に参与。
慶応2年の第二次長州戦争では海軍総督・馬関海陸軍参謀として活躍しましたが、戦後まもなく下関で病死しました。
享年29歳。

(平成16年8月10日改訂)


久坂玄瑞・吉田松陰・高杉晋作の銅像

萩往還公園に建つ銅像
(山口県萩市)

右:久坂玄瑞
中:吉田松陰
左:高杉晋作


(平成15年7月25日)

高杉晋作誕生の地


高杉晋作誕生の地
(山口県萩市)

ここは入場料100円を取られます。


(平成15年7月25日)
旧宅

高杉晋作略伝

名は春風はるかぜ、字あざは暢夫ちょうふ、晋作は通称でありますが、最も広く知られています。
また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行とうぎょう、西海一狂生、東生一狂生などと号していました。
天保10年(1839)8月20日萩藩士高杉小忠太、室道子(大西氏の出)の長男としてここ萩菊屋横丁の宅で生まれました。
幼少の頃私塾に学を習い、やや長じて明倫館に文武を学び、また松下村塾に入り松陰の指導を受けました。
文久元年(1861)藩主世子の小姓役に抜擢せられ翌2年幕使に随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかみ帰朝後攘夷の急先鋒として活躍しました。
文久3年馬関の外国船攻撃にあたり自ら奇兵隊を組織し、同隊総監を命ぜられました。
奇兵隊は日本では、はじめての士農工商を問わない国民的軍隊で、後これにならうもの続出して長州藩の反幕府勢力軍事的基盤として明治維新戦争に大きな働きをしました。
ついで一時脱藩し罪を得て野山獄に入りましたが元治元年の四国連合艦隊の馬関来襲にあたり許されて再起用され、講和条約の正使となって堂々と交渉して国土の危急を救いました。
禁門変後藩首脳は俗論党により占められたため、晋作は九州に亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長府功山寺に軍を起こし、疾風の勢いで諸地に転戦し俗論党を一掃いたしました。
第2回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し慶応2年第2回征長軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の機略を駆使して連戦連勝しましたが、翌3年4月14日、享年29歳で赤馬関に病死し、下関市吉田清水に葬られました。
明治24年生前の功労に対して正四位を贈られました。

※この旧宅について

この旧宅は、家禄200石を受けていた、父 高杉小忠太宅で、現存する当時の建物は座敷(六畳床間付)次の間(六畳)居間に(六畳、四・五畳)小室に(三畳)のほかに玄関、台所があります。
土蔵納屋もありましたが、現存しておりません。
庭園に鎮守、裏庭には井戸がそのまま残っております。

萩市内の関係史跡

一、高杉暢夫墓(遺髪墓) 椿東椎原東光寺台墓地
一、明倫館跡 江向
一、松下村塾 椿東区松下
一、萩城跡

(備考)
なお萩市以外の主な関係としては、
高杉晋作墓(下関吉田清水山国指定史跡)
奇兵隊挙兵地(下関市長府功山寺)
大田絵堂戦跡(美称郡美東町)などがあります。

(説明板より)


訪問記

高杉晋作旧宅を訪れたのは萩に到着した直後の夕方のこと。
表に「入場料100円」の表示を見て敷地内に入ったのですが、受付場所が見当たらない。
庭を覗いて、写真を撮っていたら・・・・
「あんた!100円払ってないでしょ!」と後からいきなりオバサンの声。
(いきなり、そういう言い方はないでしょ?)
「すみません、どこで払ったらいいのかわからなかったので・・・」と謝る。
ムッとしているオバサンに100円渡したら門の横の小箱にチャリン!(こんなところにあったとは・・・わかるわけないだろ!)
100円渡した途端に「さぁ、出てください!」とのこと。
まだ、庭から見た建物の写真と説明板を撮影しただけ・・・・
敷地内に入って3分もたっていませんよ!
しかも、閉館時間まではまだ20分もあるじゃない!
しかし・・・何を言っても無駄。強制的に追い立てられて追い出されてしまいました!
オバサン曰く「あたしは今から買い物に行くんだから!」
あっという間に門を閉めて自転車に乗って去っていきました。
(唖然・・・・まだ何も見ていないのに・・・100円取られた!)
萩には2泊しましたが、ここには二度と来るもんか!と心に誓ったのでありました。(笑)

(平成15年7月25日訪問)


練兵館跡



神道無念流 練兵館跡
(東京都・靖国神社内)





(平成19年1月11日)

幕末志士ゆかりの練兵館跡

この練兵館れんぺいかんは、神道無念流しんどうむねんりゅうの剣客 斉藤弥九郎さいとうやくろうにより、それまで俎まないた橋付近にあった練兵館が天保9年(1838年)の火事で類焼したため、この地に再建され、その後約30年間隆盛を誇った。
練兵館には高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代もつとめている。
また、伊藤俊輔(伊藤博文)も出入りしていたといわれる。
なお、この練兵館は千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに、幕末三道場といわれている。

(説明板より)


 平成23年9月15日

山口県下関市・日和山公園でお会いしました。






高杉晋作像
(山口県下関市・日和山公園)




(平成23年9月15日)

贈正四位高杉晋作君銅像碑

天下ヲシテ長州男児ノ腸ヲ知ラシムルハ今日ニ在リトハ是レ高杉晋作君カ喝破セル擧義ノ第一聲ナラスヤ君諱ハ春風字ハ暢夫通稱ハ晋作東行ト號ス天保十年萩菊屋横町ニ生ル人ト為リ卓■豪快識見超群夙ニ國事ニ奔走ス元治元年征長令ノ下ルヤ藩政府恐懼震■忽チ奸黨ノ乗スル所ト為リ藩公ヲ閉居セシノ三大夫四参謀七執政ヲ殺シ一意幕府ニ恭順セントス當時君ハ難ヲ避ケ筑前ニ在リ報ニ接シテ憤然蹶起舸ヲ飛ハシテ歸關シ諸隊ニ諮ルニ奸黨撃滅藩論回復ノ事ヲ以テス諸隊躊躇未タ決セス君時機ヲ失センコトヲ恐レ同志■提ケ馳セテ伊崎會所ヲ襲ヒ討奸檄ヲ發ス藩政府大ニ驚キ鎮壓軍ヲ派遣ス此ノ時諸隊モ亦君ノ義擧ヲ賛シ政府軍ヲ美禰郡ニ邀撃シ連戰皆勝ツ是ニ於テ藩政府ノ大改革ハ断行セラレ君カ正義ノ主張ハ防長二州一致ノ藩是ト為レリ既ニシテ第二次征長軍ノ四境ニ逼ルヤ君ハ海陸両方面ニ活躍シ著々敵兵ヲ撃破シ幕威ヲシテ全ク地ニ堕チシム嗚呼誰カ圖■ン君ハ皇政ノ春風ヲ回ヘシシモ一身ノ春風ヲ回ヘス能ハサラントハ慶應三年四月十四日病歿ス享年二十有九今茲君ノ歿後七十年偉勲ヲ追懐シ英風ヲ景慕スルモノ遠近相謀リ資ヲ醵シテ君ノ銅像ヲ此ノ地ニ建ツ此ノ地ハ關門ノ風光ヲ下瞰シ君カ義擧ノ舊蹟歴々眼下ニ在リ銅像ノ意匠ハ君カ筑前ヲ辭スルニ當リ野村望東尼ヨリ餞贈セル新衣服ヲ著ケ奸黨撃滅ノ大決心ヲ抱キ歸關セシ際ノ風■ヲ模擬セルモノナリ後年來リ此ノ像ヲ仰觀スルモノ意気軒昂タル不世出ノ奇傑ヲ回想シテ誰カ感奮興起セサルヲ得ンヤ

昭和十一年三月
正四位勲二等功五級陸軍中将藤田鴻輔撰
                    佐間久吉書

(碑文より)






日和山公園
(山口県下関市丸山町5丁目)




(平成23年9月15日)

 平成23年9月14日

山口県下関市・功山寺でお会いしました。





高杉晋作回天義擧像
(山口県下関市・功山寺)

岸 信介 書



(平成23年9月14日)

高杉晋作回天義挙銅像
解説碑

嘉永6年(1853)米艦四隻浦賀に来航して徳川三百年鎖国の夢破れ 国論は支離滅裂 我長州藩もまたその帰結を知りません。
国外では欧米諸国が競って全アジアを征圧し 最後の塁である我国に迫って来つゝあります。
時は元治元年(1864)12月15日夜半 高杉先生は遂に意を決して四面の楚歌を排し この地この処に義挙の一鞭を奮い 藩内の俗論党を倒して藩論を尊皇倒幕に統一し 薩・長・土の盟約を結び 第二征長幕軍を長州藩の四境に迎え討って皆これを敗退させ 遂に内は王政を復古して明朗闊達な大和民族本然の姿に返し 外は四海を圧する明治維新(1868)の基を作られました。
明治維新発祥の地 こゝ功山寺境内に この度回天義挙像の建設成り 高杉先生当時の姿そのまゝに只今眼前にあります。
この誇りを吾等永久に語り伝え 言い伝えて 子〃孫〃訓育の糧と致さんと切に願うものであります。

昭和47年(1972)12月15日
長府博物館友の会々長  続 渉

(説明碑・碑文より)






「高杉晋作回天義挙之所」碑

(山口県下関市・功山寺)




(平成23年9月14日)

碑の解説

高杉晋作回天義挙之所 明治維新の策源地 正にこの地この所である
回天とは何の意か 天皇親政の古に復えすの意であろう
義挙とは何ぞ
義は正義の義であり忠義の義である
この碑は高杉が明治の昭代をつくり出した地点を示す
否少なくもその主なる一人である
由来歴史は人を造るが 人また歴史を造りもする
高杉は歴史を造る人か
高杉のこの挙は 直ちに近代国家への進展をみなかったが たしかにその一道程を進めたものと言えよう

(説明碑・碑文より) 

横山健堂

大正9年(1920)12月建立の「高杉晋作回天義挙之所」碑と格調高い解説を施した副碑には揮毫・撰文の署名が見られないがどちらも論客「黒頭巾」こと横山健堂の筆による
明治5年(1872)萩に生まれた彼は 東京帝国大学卒業後 読売・毎日両新聞記者として活躍 殊に人物評論のジャンルに新境地を開いたことで知られる
ふるさとのためには国宝功山寺仏殿の天井にシャクナゲの絵を丸山晩霞に描かせたり 東行庵高杉晋作墓の史跡指定に奔走 自ら海上アルプスと命名した青海島を全国に広めるなどの功績も多い
昭和18年(1943)12月24日病没

平成8年3月31日
城下町長府まちづくり協議会
長府観光協会

(説明石碑・碑文より)





山門

(山口県下関市・功山寺)




(平成23年9月14日)

下関市指定文化財(建造物)
功山寺山門

指定年月日 昭和45年3月4日

この壮大な二重櫓造り功山寺山門は、安永2年(1773)長府藩主 十代 毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。
山門(三門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門さんげだつもん(空くう・無相むそう・無作むさ)にたとえ、その略からといわれています。
禅宗の門にみられる三間三戸さんけんさんこ二重門。
二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。
建築様式の特色として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱4本と控柱8本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。
また櫓を支えている太い12本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削り込み、その下部先端は急に細めた、粽ちまき型となっています。
山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅けやきの素木を用いて建てられています。
木鼻きばな等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財です。

下関市教育委員会

(説明板より)





仏殿
(山口県下関市・功山寺)




(平成23年9月14日)

国宝(建造物)
功山寺仏殿

桁行三間けたゆきさんけん 梁間三間はりまさんけん 一重ひとえもこし入母屋造いりもやづくり 檜皮葺ひわだぶき
指定年月日 昭和28年11月14日

鎌倉時代末期の唐様からよう(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。
床は四半瓦敷しはんかわらしき、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽ちまき型になっています。
見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧?けしょうたるきは天井中央より放射状に配置され、扇?おうぎたるきとも呼ばれています。
また、二重屋根の内部の組み上がり高さが異なった箇所を補うために海老虹梁えびこうりょう(梁はりと同意)が用いられています。
さらに前面両角には釣鐘つりがね型の特徴をもった花頭窓かとうまどを有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺えんかくじ舎利殿しゃりでん同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。
この仏殿は、内陣ないじん柱上部に「此堂元應げんおう二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。
功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年(1650)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています。

平成5年7月

山口県教育委員会
下関市教育委員会

(説明板より)





功山寺
(山口県下関市長府川端1−2−3)




(平成23年9月14日)

功山寺(長府川端)

曹洞宗。
嘉暦2年(1327)の創建。
当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治3年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の荒廃をみた。
その後、慶長7年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗した。
2代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応2年(1320)の建立で典型的な鎌倉禅宗様式として国宝に指定、10代藩主匡芳の時、当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩薩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる宝篋印塔、五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、境内地(付、伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。

(説明板より)


【政治力】

高杉晋作は、能力はあるが放浪癖があり、遊び好きの、ちょっと困った男だと思っている人は結構いる。
しかし、高杉ほど政治的センスのある男はいない。
彼も最初はバリバリの攘夷主義者だったが、中国の上海に渡航してみて現実に目覚めた。
それ以後の高杉は開国近代化論者である。
しかしそのことを決して公言はしない。
公言すれば命はないからだ。

そして彼は、私に言わせれば故意に罪を犯して馬関戦争の時に牢屋に入っていた。
バカ戦争に参加して命を落とすほど愚かなことはないからだ。
そして下関が焦土となって、開国近代化路線しかないという考え方がようやく認められるに及んで、同志井上馨の推薦で牢屋から出てきて和平交渉に当たった。
もっともこの時も和平反対などという強硬派もおり、せっかく高杉が和平交渉を軌道に乗せたのに、その命を狙おうという連中もいたのである。

しかし高杉は先輩の桂小五郎と組んで、徐々にではあるが藩の考え方を変えていく。
そして桂小五郎は、軍事の天才・大村益次郎を長州軍全体の司令官に抜擢する。
井上馨はイギリスに渡航することによって開国近代化路線に目覚めたのだが、実は彼もメッタ斬りにあうが、九死に一生を得ている。
のちのことだが、大村益次郎は、長州を叩き潰そうと攻めてきた幕府の大軍を撃退し、維新政府の軍制の近代化を推進するという大功績を上げながら暗殺されている。
それも元攘夷派の長州藩士による犯行であった。

いずれにせよ高杉も桂も大村も、「身内からの攻撃」に備えなければならなかったのだ。
他の藩ではまったく必要のない用心に、多くのエネルギーを割かねばならなかったことを考えれば、彼らが最終的に開国近代化路線を実現したのは凄いことではないか。
政治力とはそういう意味である。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月13日 追記)







「維新発祥之地」碑 
(山口県下関市長府中浜町)




(平成23年9月14日)





「維新発祥之地」碑
(山口県下関市長府中浜町)




(平成23年9月14日)

維新発祥の地記念碑について

城下町長府には、西暦193年、仲哀天皇、神功皇后により豊浦の宮が築かれた由来から、忌宮神社が創建され、数々の神事が継承されている。
大化2年(646)には、長門の国府として長府と呼ばれるようになり、その後長門鋳銭司や国分寺が設置され繁栄を続けてきたが、中世には長門守護所、長門探題も設けられ、政治的、軍事的拠点として重要な役割を果たしてきた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の役後、毛利秀元が長府5万石の城主として入府以来、武家屋敷の町として平和な藩制時代を過ごしてきたが、幕末に至り俄然、倒幕拠点の地として目覚め脚光を浴びてくる。
文久、元治の馬関攘夷戦、七卿の来府、蛤御門の変、長州征伐と長州藩は激動と苦難の道を辿ることになるが、元治元年(1864)12月15日、功山寺における高杉晋作、回天の挙兵により歴史は大きく転回し、やがて明治維新を迎える事になる。
思うに長府は、古来から西日本における枢要の地として、広く維新の偉業を繰り返してきたが、特に高杉晋作の回天義挙により、明治維新発祥の地として世に高く評価され伝承されてきた。
また付言するならば、世界的名声を博した狩野芳崖乃木大将の出身地でもある。
昭和60年の初春にあたり、今ここに地元の有志相集い、史跡、文化財を伝えるため、維新発祥の記念碑を建立し、城下町長府の未来への発展を切に願うものである。

昭和60年3月
長府観光協会
長府自治連合会
下関長府ライオンズクラブ
題字 泉田芳次
本文 中原郁生

(説明碑文より


東行暢夫之墓


東行暢夫之墓

(山口県萩市東光寺墓所)

高杉晋作の遺髪墓です。



(平成15年7月26日)

高杉晋作の墓



高杉晋作源暢夫之墓
(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)

 (関連商品のご紹介)

高杉晋作  奇兵隊



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