延享4年5月8日(1747年6月15日)〜寛政5年6月28日(1793年8月4日)
群馬県太田市・高山彦九郎記念館でお会いしました。
上野国新田郡の郷士・正教の子。
「太平記」を読み、自分の先祖が新田義貞の家臣であったことに感激して、志をたてて上京。
垂加流の尊王思想を学びました。
のちに南朝の遺跡を訪ね、郷里の天明一揆にも参加。
公卿・学者との交遊を重ね、三十数ヶ国を歴遊しました。
幕府の嫌忌・圧迫を受けて筑後国久留米で自刃。
林子平・蒲生君平がもう・くんぺいとともに寛政の三奇人といわれています。
ロビーにある高山彦九郎像 館内は撮影禁止ですが、このロビーの銅像だけは撮影OKです。 |
年譜 (『常設展示図録』より抜粋)
年号 | 西暦 | 年齢 | できごと |
延享4年 | 1747年 | 1歳 | 5月8日、上野こうずけ国新田郡細谷村(現:太田市細谷町)に生まれる。 父:彦八正教ひこはちまさのり。母:繁しげ |
寛延2年 | 1749年 | 3歳 | このころ祖父貞正、蓮沼家より隠居分家し、高山姓を名乗る。 |
宝暦9年 | 1759年 | 13歳 | 『太平記』を読み、南朝の忠臣が建武の中興の志し、遂げられざるを見て憤り、 尊王の志をおこす。 |
宝暦12年 | 1763年 | 16歳 | 江戸に行き書籍を購入して帰る。 |
宝暦14年 明和元年 |
1764年 | 18歳 | 3月15日、置手紙を残し家を出、京へ上る。 三条橋上に伏して帝城ていじょう(皇居)を拝す。 |
明和2年 | 1765年 | 19歳 | 7月17日、母・繁没する。(40歳) |
明和3年 | 1766年 | 20歳 | 4月22日、祖父・貞正没する。(72歳) |
明和4年 | 1767年 | 21歳 | 山陽道を通り神辺かんなべの菅茶山かんちゃざんを訪ねる。 さらに閑谷しずたに学校を訪れる。 |
明和6年 | 1769年 | 23歳 | 7月20日、父・正教没する。(53歳) |
明和7年 | 1770年 | 24歳 | 江戸に出て細井平洲へいしゅうに入門する。 |
安永3年 | 1774年 | 28歳 | 1月4日、細谷を出て江戸より東海道を通り、伊勢参りをし、京へ行く。 この後大阪より播磨道を通り出雲国へ行く。 |
安永4年 | 1775年 | 29歳 | 2月18日、京を出発、北陸路より北国街道を通り細谷へ帰る。 |
安永5年 | 1776年 | 30歳 | 3月、古河の熊沢蕃山くまざわ・ばんざんの墓を詣でた後、江戸に出て股野玉川 またの・ぎょくせんと交わる。 9月16日、江戸より小田原の柳井左京の墓を詣でる。 |
安永6年 | 1777年 | 31歳 | 3月27日、細谷より江戸に出、祖叔父・石井政重を追い甲州身延山へ行く。 9月27日、細谷より江戸へ出て細井平洲らと対談。 |
安永7年 | 1778年 | 32歳 | 長女・せい生まれる。 |
安永9年 | 1780年 | 34歳 | 次女・さと生まれる。 6月10日、細谷を出、甲州街道から富士道を通り富士山に登る。 11月12日、細谷より江戸へ行く。 菅野輪斎すがの・りんさい宅などに宿り、細井平洲の学塾・嚶鳴館おうめいかん に出入する。 |
安永10年 天明元年 |
1781年 | 35歳 | 4月27日、江戸に出る。多くの儒学者と交わる。 |
天明2年 | 1782年 | 36歳 | 長男・義助生まれる。 11月18日より5ヶ月間京に滞在し、公家・盟友と交流する。 |
天明3年 | 1783年 | 37歳 | 9月3日、江戸を出発し、村井古巌こがんとともに東海道より伊勢神宮へ行く。 途中、明倫堂の細井平洲を訪ねる。 |
天明5年 | 1785年 | 39歳 | 7月13日、細谷村を出て、利根郡大原村の金子重右衛門照泰じゅうえもんてるやす を訪ねる。 途中、天明3年の飢饉の惨状を記録する。 三女・りよ生まれる。 |
天明6年 | 1786年 | 40歳 | 祖母・りん没する。(88歳) 3年間にわたる服喪ふくもを行う。 |
天明9年 寛政元年 |
1789年 | 43歳 | 6月12日、喪屋を出て(喪終わる)、江戸へ行く。 10月3日、江戸に着き前野良沢、簗次正やな・つぐまさと交わる。 これ以降、細谷村へは帰ることなく旅を続ける。 |
寛政2年 | 1790年 | 44歳 | 6月7日、蝦夷地踏査のため江戸より津軽へ向け旅をする。 7月1日、水戸城下に入り藤田幽谷ゆうこくと大義を論じる。 その後、米沢城下で莅戸大華のぞき・たいからと面会する。 9月3日、津軽半島宇鉄うてつに着いたが、、渡航を断念する。 帰路各地の飢饉の様子を記録する。 10月22日、林子平と会談する。 その後、光格天皇の新皇居遷宮を拝するため急いで京に向かう。 |
寛政3年 | 1791年 | 45歳 | 京に滞在。 大村彦太郎宅や岩倉具選とものぶ宅などに寄寓し多くの公家・諸友と交流する。 |
寛政4年 | 1792年 | 46歳 | 2月24日、熊本を出、人吉より米良めら街道を通り日向国高鍋へ。 美々津みみつより再び九州を横断し、人吉街道を通り佐敷さしきに出る。 薩摩街道を南下し、3月鹿児島に着く。 5月25日、鹿児島を出、再び熊本、後、豊後、豊前へ行く。 |
寛政5年 | 1793年 | 47歳 | 4月、豊後日田ひたの広瀬淡窓の父・桃秋とうしゅうを訪ねる。 5月、久留米に滞在。 後、大宰府を経て筑前を訪ねる。 6月14日、薩摩藩藩儒・赤崎貞幹と会う。 6月27日、久留米・森嘉膳宅に於いて自刃。 6月28日朝8時過ぎ没する。 |
その後の顛末
彦九郎の自刃の後、安芸あき国竹原の唐崎士愛からさき・ことちかは、彦九郎の遺志を継ぎ同志の糾合に力を尽くしましたが、寛政8年(1796)11月18日竹原庚申堂で自刃の運命をたどりました。
また、肥前国島原の儒医西道俊にし・どうしゅんは彦九郎が久留米に留まっているのを知り、はるばる訪ねてきましたが、彦九郎の自刃を知り享和2年(1802年)5月2日73歳で彦九郎の墓前で割腹しました。
この後も彦九郎を慕う人々が多くでています。
久留米では真木和泉守、木村重任しげとうらの幕末の志士達は彦九郎の行動に強く影響を受け、天保13年(1842)に50年祭を行い、彦九郎を偲んでいます。
水戸藩においても彦九郎の遺品が受け継がれています。
藤田東湖の門人であり、彦九郎の崇拝者でもある桜任蔵じんぞうは天保6年(1835)夏、彦九郎の生家を訪ねましたが、すでに廃屋となっていたと記しています。
また、台村の祠堂しどうを訪ね神霊「伊賀鎮いがし」を拝した時、彦九郎の遺品を発見し蒐集につとめました。
水戸彰考館総裁杉山忠亮は『高山正之伝』を著し彦九郎を高く称えています。
このように彦九郎の旅の足跡と行動は、幕末に至る尊王の志士達に強い影響を与えています。
(『常設展示図録』より)
訪問記
記念館の方(ボランティアガイドさん?)の丁寧なご説明をいただきながら見学させていただきました。
今年は偶然にも彦九郎と縁ある地を旅しているという不思議な縁に感動しながらの訪問でした。
(平成16年9月12日訪問)
邸宅跡は現在畑になっています。 |
邸宅の遺跡としては畑の中に残る「井戸跡」だけです。 (平成16年9月11日) |
国指定史跡 高山彦九郎跡 附つけたり 遺髪塚
所在地:太田市大字細谷字中1324−2ほか
指定年月日:昭和6年(1931)11月26日
高山彦九郎宅跡は現在畑となって、北側の井戸跡にそのおもかげを残すのみである。
面積は四反二畝四歩(約4180u)ある。
遺髪塚は本家である蓮沼家をへだてた西側墓地内にある。
明治25年(1893)の彦九郎百年忌にその玄孫高山守四郎により建てられたものである。
高山彦九郎は延享4年(1747)5月8日新田郡細谷村(現太田市)の郷士ごうし高山彦八正教の次男として生まれ、名を正之、字を仲縄といった。
その遠祖高山遠江守は新田義貞十六騎の一人といわれる。
18歳の時、祖父宛に置手紙を残し京都へ上り、山崎闇斎学派の儒学の門に入った。
以後数度滞在した京都では当時一流の学者・文化人等と交わり、公卿の岩倉具選邸や白木屋大村彦太郎邸などに逗留した。
彦九郎は反幕府的な思想を持ち、尊王を高唱し、全国の学者・諸藩士等と交わり遊説を重ねた。
彦九郎はその生涯の多くを遊歴の内に過ごしたが、その足跡は、北は津軽国(青森県)宇鉄から南は薩摩国(鹿児島県)開聞岳にまで及ぶ。
またその交友関係も広く、前野良沢・頼春水(山陽の父)・藤田幽谷(東湖の父)・林子平・蒲生君平などから贈られた詩文・書簡・和歌等が残っている。
寛政3年(1791)九州に入り、久留米・長崎・熊本などの滞在を経て、苦難の末鎖国政策をとっていた薩摩へ入っている。
寛政5年(1793)6月27日筑後国(福岡県)久留米在住の儒医森嘉膳宅で自刃した。
その志かなわぬ故からの憤死とされる。
墓は久留米市寺町の遍照院にある。
幕末の尊王運動に大きく影響を与えた先駆的存在である。
彦九郎は尊王運動家であっただけでなく、社会運動家であり、また旅人であった。
彦九郎の思想と旅の記録は克明な日記に残されており、大名・公家・豪商・学者・武士・農民・博徒など、あらゆる階層の人々との交流の様子から、高い教養と暖かく情熱的な人間性をうかがい知ることができる。
また日記は当時の人物・社会・民俗などに関する地方史解明の貴重な資料となっている。
明治12年(1879)金山南麓の天神山(太田市本町)に高山神社が創建され、彦九郎は祭神として祀られた。
平成2年(1990)3月31日
太田市教育委員会
(説明板より)
「高山彦九郎像の碑」 (蓮沼家墓所内) 「忠魂髣髴還家山」の書は徳富蘇峰によるものです。 昭和20年建碑 建設者:東京中野・佐藤樹可 彫刻者:山形市・松田駒蔵 (平成16年9月12日) |
本殿 |
高山神社の由来を記したと思われる碑。 文字の判読はほとんど出来ませんでした。 |
京都府京都市東山区三条大橋でお会いしました。
高山彦九郎 皇居望拝之像 (京都市三条大橋) (平成16年4月2日) |
高山彦九郎 皇居望拝之像
江戸時代、ここ三条大橋は東海道五十三次の起終点にあたり、往時の都の出入口であった。
今ここにある銅像は、高山彦九郎正之(1747年〜1793年)の姿を写したものである。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
18歳の時以来、前後5回、上洛したが、京都に出入する折には、この銅像の姿のように、京都御所に向かって拝礼した。
その姿は
大御門おおみかどその方かた向きて橋の上に
頂根うなね突きけむ真心たふと
橘たちばな 曙覧あけみ
と和歌に詠まれた。
明治維新を成就した勤皇の志士達は、彦九郎を心の鑑と仰いだと言われる。
後、明治の中頃の俚謡、サノサ節には、
人は武士
気概は高山彦九郎
京の三条の橋の上
遥かに皇居をネ伏し拝み
落つる涙は鴨の水アサノサ
と謡いつがれた。
京都市観光部振興課
高山彦九郎大人顕彰会寄贈
(説明板より)
『高山彦九郎先生終焉の地』 (福岡県久留米市東櫛原町1408−4) ちょっと目立たない場所にあります。 細い道路脇にあるのですが、目の前に行って初めて気がつくという感じです。 捜すのに苦労しました。 大きな看板でも立ててくれるとわかりやすいのですが・・・ (平成16年6月13日) |
碑文
嗚呼此地ハ高山彦九郎先生終焉ノ處ナリ先生寛政五年六月二十七日森嘉膳ノ邸ニ於テ屠腹シ翌暁ニ至リテ瞑ス夫レ維新中興ノ皇運啓成ノ功實ニ先生を魁首トス其遺阯長ク傅ヘザルベケンヤ嚮ニ三井郡教育支會其保存ヲ企テ土地ヲ買収シ外柵ヲ設ケタリ市村合併ノ後久留米教育支會ノ管理ニ移シ各学校職員生徒児童ノ醵金ニ依リ茲ニ銕柵ヲ設ケ管理者ヲ置キ以テ之ヲ保管ス
昭和五年五月 久留米教育支會
(説明石碑より)
福岡県久留米市寺町56・遍照院でお会いしました。
『贈正四位 高山正之先生』の像 (福岡県久留米市・遍照院境内) |
史跡 高山彦九郎墓
所在 久留米市寺町56
国指定 昭和17年7月21日
高山彦九郎正之(字仲縄)は、延享4年(1747)、上野国新田郡細谷村(現群馬県)に生れました。
寛政の三奇人(高山彦九郎、林子平、蒲生君平)として有名な彦九郎は、全国各地を遊歴し、当時の徳川幕府を批判し、王政復古を唱えました。
尊皇運動の先覚者である彦九郎は三度、久留米を訪れており、寛政5年(1793)6月27日、友人である森嘉膳宅の離れで割腹して憤死しました。
この墓は封建政治から中央集権の近代国家に移ろうとする胎動期の歴史を語るものとして貴重なものです。
なお、終焉の地(東櫛原町1408番地の4)には碑が建っています。
久留米市・久留米市観光協会
(説明板より)
高山彦九郎の墓 |
記 |
勤皇志士高山彦九郎正之先生は、徳川倒幕ならず業半にして寛政5年6月27日午前2時むなしく久留米 の地友人森嘉膳氏宅に於て自刃されました今年は211年の年であります 高山先生は群馬県新田郡細谷村出身にして18才の春徳川封建制度打破運動を起し爾来30年間日本国中遊歴なされし寛政時代の大偉人であります。 香花を供え御霊をお慰め下さい。 真言宗 光明山 遍照院 |
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