明治4年1月10日(1871年2月28日)〜明治35年(1902年)12月24日
本名は斉藤林次郎。
山形県出身。東大卒。
東大在学中に『滝口入道』が「読売新聞」の懸賞2等に当選。
二高教授を経て博文館に入社し『太陽』の編集を担当。
実行道徳の原理である日本主義を雑誌『太陽』に発表し、旺盛な評論活動を開始したが、結核が悪化するとともに次第に国家主義から個人主義に変わった。
「美的生活を論ず」を雑誌『太陽』に発表し、浪漫的本能満足主義を提唱、これをめぐる論争が生じた。
晩年はニーチェに傾倒し、個人主義から天才主義に傾いた。
明治35年、肺結核で平塚で没す。32歳。
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「高山樗牛假寓之處」碑 (静岡県静岡市清水区興津清見寺町) (平成18年4月14日) |
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「高山樗牛假寓之處」碑 (静岡県静岡市清水区興津清見寺町) 碑文 樗牛は清見潟の風景をこよなく愛し明治33年秋当処の三清館に假寓して清見寺の鐘音を聞いた 三清館の所在は茲より南方20米附近に在った 昭和44年10月 旧三清館経営者嗣子 山梨 陽 建之 (平成18年4月14日) |
高山樗牛碑
樗牛高山林次郎は1871年山形県鶴岡に生誕
文明批評は一世に聞こえた
1901年秋より当地在住
1902年12月24日平塚杏雲堂病院にて逝く
享年31歳
長谷寺にて葬儀
「鎌倉の話」など作品あり
(説明板より)
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長谷寺 (神奈川県鎌倉市長谷3−11−2) (平成18年9月24日) |
由緒
当山は正式な名称を「海光山慈照院長谷寺」と号し、伝来する縁起に曰く、その開創は聖武天皇の御代にあたる天平8年(736)という鎌倉でも有数の古刹であります。
開山徳道上人。
開基は藤原鎌足の孫にあたる藤原房前。
本尊である十一面観世音菩薩は、養老5年(721)に徳道上人の本願によって、1本の楠の霊木から刻出された2体の観音像のうちの一つといわれ(残る1体は大和の長谷寺の本尊となる)、開眼供養の導師を務めた行基菩薩によって衆生済度の願が込められ海中に投じられたといいます。
その後、相州長井浦に流れ着いた尊像は鎌倉に遷座され、当山創建の礎となったということです。
古来より坂東三十三観音の第4番霊場として民衆の信仰をあつめ、「長谷観音」の通称で親しまれる尊像は総高9.18米あり、本邦でも最大級の木造観音といわれます。
■開門時間
夏時間(3月〜9月) 午前8時〜午後5時半
冬時間(10月〜2月) 午前8時〜午後4時半
■宝物館
月曜休館(祝祭日は開館)
■交通案内
江ノ電・長谷駅下車、徒歩5分
■駐車場あり
■入山料:大人 300円
(入山券の説明文より)
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