高山右近像 平成20年6月16日

高山右近 たかやま・うこん

天文21年(1552年)〜1615年2月5日

大阪府大阪市・大阪カテドラル聖マリア大聖堂でお会いしました。


天正元年(1573年)摂津国高槻城主となる。
天正6年(1578年)荒木村重の乱で織田信長に背きましたが、オルガンティーノの勧告で降伏。
高槻4万石は安堵されました。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、播磨国明石城主(6万石)となりました。
天正15年(1587年)バテレン追放令で改易。
その後、小西行長・前田利家・前田利長らの保護を受け、小田原攻めや関ヶ原の合戦に参加。
慶長19年(1614年)禁教令によりマニラへ追放されました。
翌年、同地で病没。


高山右近像



高山右近像
(大阪カテドラル聖マリア大聖堂)





(平成20年6月16日)
大阪カテドラル聖マリア大聖堂



大阪カテドラル聖マリア大聖堂
(大阪市中央区玉造2−24−22)





(平成20年6月16日)

高山右近 平成16年5月9日

フィリピン共和国ルソン島・マニラ近郊パコ駅前でお会いしました。

パコ駅前 パコ駅前の公園

碑文1(日本文)

ユスト高山右近大夫長房
(1552〜1615)

フィリピンへ追放された最初の日本キリシタンたちの指導者高山右近は、1552年摂津の国に生まれ、1564年頃キリシタンに改宗、ユストと命名される。
1573年高槻城城主、1579年に摂津の国の領主、さらに1585年には播磨の国の領主となり明石に居城を置く。
しかし、1587年に発布された伴天連追放令の一年後に金沢へ身を引き、キリシタンの教えに専心する。
1614年2月、禁教令のため長崎行きを余儀なくされ、同年11月、他の百数十名のキリシタンたちと共に、信仰ゆえにマニラへ追放の身となる。
その翌年、1615年2月4日夜半、マニラ市民に惜しまれつつ、イントラムルスで帰天。
享年64歳。

この記念碑はユスト高山右近や、共にこの地に追放されたジョアン内藤、その妹ジュリア内藤やその他のキリシタンたちが築き上げた日比友好の絆を永久に残すべく、ここ日本人町跡、ディラオ(現在のパコ)にフィリピン歴史学会が建立したものである。

碑文2(日本文)

ユスト高山右近
日本のキリシタンの指導者高山右近はこの地プラザデラオに最初の日本人居留地を定めた
彼はキリシタン信仰の故に追放をうけ1614年11月8日各修道会の神父と宣教師たち並びに約百名の日本人キリシタンと共にルソンに向け長崎を出帆した
12月21日マニラに到着した一行は貴国民から友愛にみちた歓迎をうけ同信の愛の絆のもとに日々を過ごした
かくして彼は比日両国民の深い友情の基を築いた
右近は1615年2月3日マニラでその生涯を閉じた
(行年63歳)

碑文3(日本文)

プラザデラオ比日友好公園
このモニュメントは比日両国民の友好と協力のシンボルとして建立されたものである。
この計画はマニラ市長ラモンロバガチン氏の創設になるマニラ市美化婦人委員会が提唱しマニラ市並びに日本の東南アジア文化友好協会 高槻市建立支援実行委員会 経済同友会 日本のカトリックプロテスタント両教会の共同の業として完成した

高山右近の墓



銅像の後に『高山右近の墓』があります。





(平成16年5月9日)

【銅像建立の経緯】

1974年3月、高山右近が亡くなったゆかりの地、マニラ市に設置されているカトリック系団体の環境美化婦人会(会長・ベネディクト駐日大使夫人)は、高山右近と往時の在留日本人の遺跡を記念するため、旧日本人居留地であるパコ駅前のディラオ広場に高山右近の像を建立することをバガチン・マニラ市長に提案した。

この提案を受け、マニラ市が600坪の用地を無償提供するなど積極的な姿勢を示し、日本国内においても、マニラ市と姉妹都市関係にある大阪の高槻市、高槻商工会議所、高槻ロータリークラブなど高槻市内の諸団体を糾合して高山右近像建立支援高槻市実行委員会が設立された。
同委員会は、財団法人東南アジア文化友好協会、マニラ市と姉妹都市関係にある横浜市、およびカトリック系団体などの協力を得つつ、各方面に働きかけて建立費用の調達に努力した。

この間、フィリピンの一部に対日警戒心からこの計画に反対する向きもあり、フィリピン政府も消極的姿勢を示したこともあったが、最終的にはこの問題も片付き、資金調達の目途も立った。
この結果、1977年4月に高山右近像がプラザ・ディラオに据え付けられ、同年11月にフィリピン側に引き渡された。

高さ3メートルの大理石製の台座と2.2メートルの銅像よりなる高山右近像は、高槻市出身の彫刻家・西森政昭氏の制作によるものである。
右近の銅像が建立されている庭園には、デザイン的には右近が千利休の高弟であったことを考慮して「おりべ灯籠」と「つくばい」を配置した茶道風な味わいが取り入れられるとともに、日比親善にも考慮してフィリピンの草、花、木が植えられている。

(参考:佐藤虎男・著 『フィリピンと日本』 サイマル出版社 1994年9月初版)

(平成25年5月30日追記)


【マニラの高山右近】

有名なキリシタン大名の高山右近(摂津高槻城主)および内藤忠俊(丹波亀山城主)は、信教を最後まで守り通した代表的な人物である。
高山右近は1564年(永禄7年)、大和(現在の奈良県)宇陀郡の沢城において洗礼を受けた。
高山右近が沢城から移った摂津国(現・大阪府)の高槻城下では、領民2万5千人のうち、1万8千人がキリシタンであったといわれる。
これは右近自身が自らも熱心な信者として、人々にキリスト教信仰を勧誘したためとみられる。

高山右近と内藤忠俊の両大名はともに豊臣秀吉の旧家臣で朝鮮出兵にも参加した武将であるが、信仰を理由にその妻子および孫を含む家族、大名の大友宗麟の娘、旧上野藩主の娘、および京都、大阪出身のキリスト教徒ら日本人キリスト教徒とともに、幕府当局に捕らえられて長崎に送られ、1614年(慶長19年)11月8日、長崎よりマニラに追放の身となった。

同年11月21日にマニラに到着した高山右近一行は、デ・シルバ・スペイン総督、デ・メルカド大司教らの丁寧な出迎えともてなしを受け、その後は快適な住居と十分な生活費を与えられ、王侯貴族的生活を送った。
サンミゲル地区に居住した高山右近は、1615年2月、63歳で病死したが、王侯の礼をもってマニラ市内のイントラムロスのイエズス会墓地に葬られた。
葬儀に出席した日本人は3千人にのぼったといわれる。

また、内藤忠俊(如安)は外科医として名をはせ、右近より長生きしたが、1626年に死亡し、右近の墓の近くに葬られた。

日本人町サンミゲルは、1614年、日本よりマニラに渡来してきた亡命キリスト教徒のために、1615年につくられたもので、高山右近や内藤如安ら100名以上のキリスト教徒が住んでいた。
この日本人町は、元来、パシグ河の南岸、いまのサンタ・テレサ大学、サン・マルセリノ教会が建っているところにあった。

(参考:佐藤虎男・著 『フィリピンと日本』 サイマル出版社 1994年9月初版)

(平成25年5月30日追記)


【日本人キリスト教徒の渡比】

国内におけるキリシタン勢力の台頭を押さえようと懸命になった徳川家康は、1614年(慶長19年)キリスト教非合法化の布告を発し、違反者は追放もしくは死罪に処すとしてキリスト教信仰を捨てるよう命じた。
処罰を恐れた日本人キリスト教徒の中には信仰を捨てる者もいたが、大部分の者は勇敢にもこれを拒んだ。
有名なキリシタン大名・高山右近と内藤徳庵(如安)は、ともに秀吉の旧家臣で朝鮮征伐にも参加した武将であるが、信仰を捨てず追放の道を選んだ。
そのためこの二人は家族および日本人キリスト教徒とともに当局に捕らえられてマニラ、マカオへ追放のため長崎に送られ、1614年11月8日、3隻のジャンク船(2隻はマカオ、1隻はマニラ行き)に乗せられて国外に追放された。
マニラ行きのジャンクには次の者が乗せられた。
高山右近とその妻子および孫
内藤如庵とその妻子および孫
内藤ジュリア(如安の妹で旧仏教尼僧)
中島マグダレナ(内藤ジュリアの従姉妹)
大友メンシア(大友宗麟の娘)
パク・マリア(朝鮮貴族)
筒井マリア(旧上野藩主の娘)
各宗派の宣教師30人
京都・大阪出身のキリスト教徒(男女子供)
11月8日に長崎を出た高山右近、内藤如安らを乗せたジャンクは11月21日にマニラに到着した。
総督ファン・デ・シルヴァ、大司教ディエゴ・ヴァスケス・デ・メルカドは一行を丁重にもてなし、多額の扶助料を与えてサン・ミゲル地区の快適な住居に住まわせた。
サン・ミゲルに住居が定まると間もなく、高山右近は不幸病に倒れ、翌1615年2月3日に没した。
遺体は悲しみのうちにも盛大な儀式をもってマニラのイントラ・ムロスのイエズス会墓地に葬られた。
内藤如安は外科医・学者として名を馳せ、右近より長生きして1626年(寛永3年)に没し、遺体は右近の墓の近くに葬られた。
一方、サン・ミゲル日本人修道院長となった内藤ジュリアも1627年(寛永4年)に没してマニラのサン・マルセリーノ通りの現在のセント・テレサ大学が建っている場所に葬られた。
なお、高山右近および内藤如安の遺族は、後に日本に帰ったが、その消息はまったくわかっていない。

(参考:グレゴリオ・F・サイデ 著・松橋達良 訳 『フィリピンの歴史』 時事通信社 昭和48年9月初版)

(平成28年12月10日 追記)


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