尊良親王 たかよししんのう

延慶3年(1310年)?〜延元2年/建武4年3月6日(1337年4月7日)


「たかなが」ともいう。
後醍醐天皇の第一皇子。
嘉暦元年(1326年)元服。
元弘の乱が起きると天皇と笠置かさぎ城へ向かい、落城以前に河内へ移ったが捕らえられ、元弘2年(1332年)土佐国へ流された。
翌年、3月、肥前国彼杵そのぎ郡に姿を現し、5月、大宰府に入って九州を鎮め、8月に京に戻った。
建武2年(1335年)足利尊氏が鎌倉で離反すると、上将軍に任じられ新田義貞らを率いて東下したが、箱根竹ノ下で敗退。
翌、建武3年(=延元元年)(1336年)九州から上洛した尊氏に後醍醐天皇方が敗れると、皇太子恒良つねよし親王とともに新田義貞に奉じられ北陸へ下向。
越前金ヶ崎かねがさき城によったが、翌年3月6日落城し、自害した。


尊良親王御陵墓見込地の碑



尊良親王御陵墓見込地の碑

(福井県敦賀市・金ヶ崎城跡)

明治9年10月建立



(平成20年4月12日)
尊良親王御陵墓見込地



尊良親王御陵墓見込地

(福井県敦賀市・金ヶ崎城跡)





(平成20年4月12日)

尊良親王御墓所見込地

安政年間(江戸時代末期)この地付近より経塚が発見され、石室からいずれも銅製の経筒、円鏡、椀(3点とも敦賀市指定文化財・金崎宮所蔵)が出土した。
当時は殆ど話題にならず、遺物は埋め戻されたという。
明治維新後、建武中興に関する史実の全国的な見直しが行なわれ、湊川神社や鎌倉宮、藤島神社などが創建された。
当地においても、金崎城合戦より550余年を経た明治23年、金崎宮が官幣中社に列せられ、同26年に社殿が竣工、鎮座祭が斎行されたが、それに先立つ、同9年経塚出土品からこの地を尊良親王墓所と解し「墓所見込地」の碑が建てられた。
しかし、他に立証する史料に乏しく、また京都市内(左京区南禅寺下河原町・永観堂そば)に同親王の御墓所が指定されていることもあって、現在では親王御台臨、自刃の地として大切に保存されている。

(説明板より)



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