平成20年4月12日
享和3年(1803年)〜元治2年2月4日(1865年3月1日)
※生年が享和4年(1804年)の説有り
福井県敦賀市・『武田耕雲斎等の墓』でお会いしました。
水戸藩士・跡部正続まさつぐの長男。
のちに本姓・武田に復す。
名は正生まさなり、通称は彦九郎・修理。
致仕後、耕雲斎と号した。
藩主に徳川斉昭を擁立以来、改革派の重臣として活動。
斉昭の謹慎・復職に応じて致仕・昇進したが、安政3年(1856年)執政となる。
文久2年(1862年)一橋慶喜の上洛に随従する。
元治元年(1864年)1月、伊賀守。
藤田小四郎ら天狗党の筑波山挙兵により、5月に執政を罷免される。
市川三左衛門ら門閥派政権に対抗して10月に筑波勢と合流、天狗党を再編してその首領となり、京都に向けて西上の途についた。
途中、諸藩兵や大雪・寒気と戦う難行に力尽き、金沢藩に降伏し、元治2年(1865年)2月4日、敦賀で斬刑に処せられた。
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武田耕雲斎等の墓 (福井県敦賀市) (平成20年4月12日) |
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武田耕雲斎之像 1978年5月13日 ライオンズクラブ国際協会334−D地区 第24回年次大会記念 (平成20年4月12日) |
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武田耕雲斎等の墓 (福井県敦賀市) 小高い塚の下に眠っています。 (平成20年4月12日) |
松原神社と水戸烈士墳墓
水戸藩の家老武田伊賀守正生の率いる烈士等の一行は、未曾有の国難に対処するために、苦難を忍び妨害を排除しながら、大子(茨城県)を出発し48日目の元治元年(1864)12月11日、漸く敦賀市新保に到着した。
ところが、これを待ち受けていたものは、上京を防止しようとする幕府の大軍13,000名で、葉原から敦賀にかけて縦深陣を構築し布陣していた。
長途の強行軍と、途中での戦いに疲れ果てた烈士たちは、ここで青天の霹靂にも比すべき情報を入手した。
それは烈士たちが上京するにあたって、頼りにしていた一橋慶喜が、討手の大軍の総指揮官だったことである。
このため烈士たちは軍議を重ねた後、一旦降服し他日再挙をはかることとした。
この降服を受けた加賀藩の総帥永原甚七郎は、烈士たちの国を思う心に深く感動し、一同を敦賀の本妙寺、本勝寺、長遠寺の三箇所に収容し、天下の志士、武士の鑑として手厚くもてなしたのである。
間もなく慶喜は京都に引き揚げ、かわって幕府から烈士の処置の全権を取付けてきた田沼玄蕃守意尊が派遣されてきた。
この人物は水戸で武田耕雲斎と対立し、激しい敵意を燃やしていたのである。
悲劇はここから始まった。
このときばかりと元治2年(1865)1月29日から烈士たちを船町(現在の蓬莱町)のニシン倉16棟を獄舎として押しこめ、意識的に劣悪な条件のもとにおき、拷問同様の扱いをしたのである。
2月1日から、形ばかりの裁判で審理らしいこともせず、一方的な報復的即決裁判が行われ、わずか6日間で次のような判決を下した。
死罪353人、遠島137人、水戸藩渡し130人、追放187人、永厳寺預け11人、合計818人。
800人を超える審理が終わった後、2月4日、15日、16日、19日、23日の5日間に渡って353人の斬首を行った。
こうして、日本の前途を憂いつつ来迎寺原頭に無念の涙を呑んで露と消えたが、烈士たちの遺志は回天の大業「明治維新」を実現する原動力となり、近代日本を誕生させた。
いま烈士たちは、周囲「約4.3」四方、高さ「約4メートル」の塚に手厚く葬られ、限りない日本の発展を静かに見守っている。
なお、ここに葬られている烈士は、武田耕雲斎以下411名(途上の戦死者、病死者を含む)である。
道路を隔てて、その西側に鎮座まします社が松原神社で、明治29年10月9日に社殿が竣工し、明治11年10月に明治天皇北陸ご巡幸の節、祭祀料を賜った10月10日を祭日としている。
なお耕雲斎の辞世は次のとおりである。
討つもはた討たれるもはた哀れなり
同じ日本の乱れとおもえば
敦賀水戸烈士遺徳顕彰会
(松原公民館配布資料より)
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武田耕雲斎等ゆかりの地 (福井県敦賀市・『武田耕雲斎等の墓』) (平成20年4月12日) |
武田耕雲齋等墓
元治元年10月水戸藩士武田耕雲齋の党は尊攘の大義を唱え西上の途次越前に入り12月敦賀郡新保宿にて大雪に遇い幕府の軍門に降れり
翌年2月幕府は耕雲齋以下353名を斬首せり
今此の墓地は当時の刑場にして遺骸を埋めて土盛り、方12間高さ8尺、西面して15基の墓が建てられている
昭和9年12月28日文部省より著名なる人物の墓として256坪の地域と史蹟に指定され現状の変更樹木の伐採は出来ない様保護されている
敦賀水戸烈士遺徳顕彰会
(説明板より)
武田耕雲斎等の刑死
第1回処刑 元治2年2月4日
武田耕雲斎以下 25名
第2回処刑 同年2月15日
秋山正光以下 134名
第3回処刑 同年2月16日
浜野忠正以下 103名
第4回処刑 同年2月19日
綿引忠保以下 75名
第5回処刑 同年2月23日
朝倉景敏以下 16名
水戸烈士遺徳顕彰会
(説明板より)
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武田耕雲斎以下水戸烈士幽居之寺の碑 (福井県敦賀市・本勝寺) 昭和55年7月建立 (平成20年4月12日) |
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本勝寺 (福井県敦賀市元町19−21) (平成20年4月12日) |
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鰊倉 (福井県敦賀市・松原神社) (平成20年4月12日) |
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鰊倉 (福井県敦賀市・松原神社) (平成20年4月12日) |
水戸烈士記念館
元治2年(1865年)武田耕雲斎等823名は舟町の鯡にしん倉16棟に収容された。
この記念館は築港工事のため鯡倉の大部分を取りこわすことになったので昭和29年の秋90年祭を記念してここにその1棟を移築したものである。
水戸烈士遺徳顕彰会
(説明板より)
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松原神社 (福井県敦賀市松原町) (平成20年4月12日) |
松原神社
祭神 正四位武田伊賀守 以下411柱
例祭 10月10日
由緒
徳川幕府末葉、勤王の大志を抱き尊攘論を唱えて京都に趣き、素志を貫徹せんと意を決した武田伊賀守他同士達は各地に轉戦しつゝ、元治元年11月大雪の中、新保の地にて加賀藩の軍門に降り、敦賀の鰊倉に幽閉され慶應2年2月斬罪により松原の露と消えた。
大政奉還後王政維新明治の聖世となり、命等の勤王の大志が天日を見るに至り、慶應3年敦賀の修験行壽院が神■伯白川家の許可を得て院内に諸士の霊を祀り、明治7年11月水戸の人根本彌七郎が墓地附近に一小祀殿を創建して松原神社と稱し、大正4年11月現在地に御造営竣功し、白砂青松の浄域に御霊代を奉遷、永く英霊の鎮り座すこととなった。
(説明板より)
【武田耕雲斎】
文化元年(1804年)生まれ。
文化12年7月、本家の伯父・跡部正房まさふさの養子となる。
生まれた月日が不明なのはこれがためではないかと思われる。
文化14年(1817年)8月、家督を継ぎ300石、寄合組。
江戸詰め小姓のあと、水戸表勤務、使番つかいばんとなる。
この後、水戸藩は9代藩主相続問題で家臣たちが二派に分かれて対立、正生まさなり(=耕雲斎)は始めから斉昭派として尽力し、生涯を徳川斉昭の思想を受けて行動した。
斉昭の信は篤く、跡部あとべ姓を高祖の武田姓に改めさせるなどは、その姿勢が知れる。
天保元年2月、京都へ藩の使者として派遣されるが、帰国後、前年の斉昭擁立運動の責めを負って、形式的であったが免職する。
その後、斉昭の勢力伸張によって、その権威が確立すると再び使番に復した。
天保3年7月、目付めつけを経て寄合差引よりあいさしひきとなり、9月には小姓頭こしょうがしらとなる。
同10年11月には若年寄わかどしよりに就任。(600石)
12月には郷村掛、鷹方・馬方支配を兼ね、郷村民とのつながりが始まった。
同11年2月には藩校・弘道館の造営掛となる。
弘化元年(1844年)、水戸藩保守門閥派の働きかけで幕府が斉昭を隠居・謹慎に処したとき、耕雲斎も物頭に召預けとなり、水戸へ移され、同2年に逼塞ひっそくとなる。
9月には逼塞は免ぜられるが、役禄は召し上げ、致仕ちしを命じられる。
嘉永2年11月、謹慎は免じられたが、この時から耕雲斎の号を使用し始めるが、藩政にかかわることはなかった。
外国船の度々の来航により、幕府が斉昭の政界復帰を認めると、再び耕雲斎も藩政に復帰し、順調に出世する。
嘉永6年、十人扶持ぶち、武館掛。
安政2年2月、大番頭・学校奉行兼務。
同年10月、江戸詰め若年寄に再勤となり、旧に復した。
安政5年を頂点に、斉昭と井伊直弼の対立は激化し、斉昭派の敗退を見たが、耕雲斎の活躍は続いた。
しかし、「戊午ぼごの密勅みっちょく」降下、「安政の大獄」など大きな事件に関係し、同年9月7日、致仕し隠居する。
やがて水戸領は勅諚ちょくじょうの返納問題で揺れ、耕雲斎は返納反対の立場で行動、尊攘派の中でも激派の指導者として重きをなしていった。
「桜田門外の変」後に再び藩政に参与。
万延元年7月に学校掛になるが、8月に斉昭が急逝する。
以後、耕雲斎は斉昭の意志と信じる道を歩み始める。
長州藩士と水戸藩の間で結ばれた「成破せいはの盟約」に反対し、領内の取り鎮めをもくろみ、12月には政務参与となって対応した。
翌年の「東禅寺とうぜんじ事件」で政務参与を一旦免じられるが、文久2年の「坂下さかした事件」後、幕府を含めた攘夷実行の気運により、11月には執政に返り咲いた。
12月、一橋慶喜に従って上京。
耕雲斎は慶喜を信頼したが、幕政の中心に置かれていく慶喜は、立場上、「禁門の変」以降、水戸藩士として攘夷実行を主張し強烈に行動する藩士・領民らを規制する。
5月に江戸に帰った耕雲斎は攘夷を願ったが、8月18日の政変後、幕府から関東鎮撫を依頼され、水戸へ帰着した。
元治元年2月、伊賀守に任じられ、従五位下に任官。
領内の過激な行動を抑えていくが、抑えきれない急進派の一部が3月に筑波山で「天狗党」と称し挙兵。
幕府はこの動きを危険な行為として抑え始め、これに応じた保守門閥派(諸生党しょせいとうと総称)は、江戸に上り主導権を握る。
尊攘派はそれぞれ役職を解かれ、耕雲斎は隠居・謹慎の処分を受けた。
しかし、諸生党たちが天狗党の追討を始めると、水戸にあった尊攘派たちは一斉に江戸に上がり始める。
この動きに耕雲斎も一族を率いて上府し、同志と共に藩内の反対勢力に対抗した。
やがて圧倒的な追討側の兵力に負けて尊攘派は降伏した。
ただ、耕雲斎の勢力と筑波勢の一行は、最後まで降伏することなく、朝廷に窮状を訴えんと京都を目指した。
この西上軍の総大将が耕雲斎であった。
しかし、彼らの思いに反して、この時に禁裏守衛総督きんりしゅえいそうとくにあった慶喜に抑えられて一行は降伏。
耕雲斎は追いついた追討軍により敦賀つるがの地で多くの同志と共に処刑された。(63歳)
水戸にあった天狗党の家族も厳しく追討され、武田一族は水戸にあった家族を含め、同行した長男・正勝、二男・魁介などほぼ全員が犠牲となった。
(9歳の六男、3歳の七男を含めほとんどの者が斬首となる)
(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)
(平成29年7月6日 追記)
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回天館 (茨城県水戸市・回天神社) (平成20年6月30日) |
回天館の由来
元治元年(1864)3月27日、尊王攘夷そんのうじょういの旗をひるがえして、筑波山つくばさんに挙兵した藤田小四郎・田丸稲之衛門たまるいなのえもん等のいわゆる天狗党てんぐとうの志士達(当初72名)は、幕府討伐軍や水戸の佐幕派と、各地で激戦を展開した。
やがて小四郎達は、武田耕雲斎(元水戸藩執政しっせい)を総大将にあおぎ、その尽忠報国じんちゅうほうこくの至誠を、禁裏守衛総督きんりしゅえいそうとくとして京都に滞在してた一橋慶喜(のちの15代将軍徳川慶喜)を通して朝廷に歎訴のため、常陸大子ひたちだいごに結集し、同年11月1日京都へ向けて出発した。
総勢1千余名の志士達は、下野しもづけ、上野こうづけ(下仁田しもにた)、信濃しなの(和田峠)、などにおいて、幕命を受けた諸藩兵と戦い、厳寒の中を飛騨ひだから越前えちぜんへと深い厳しい雪道の難行軍が続いた。
12月初旬、越前国(福井県)に到着したところで、頼みとする慶喜公が一行に対する討伐を命じたとの報を得て、軍議の結果12月17日加賀藩に降伏した。
志士達823名は越前敦賀つるがの三寺院に分散収容され、加賀藩の永原甚七郎ながはらじんしちろうらの手厚い保護を受けたが、翌慶応元年(1865)正月29日、幕府討伐軍々監田沼玄蕃頭意尊たぬまげんばのかみおきたかによって、敦賀にあった16棟の鰊(鯡)にしん倉に押し込められ、残酷きわまりない処遇をうけた。
同年2月4日から23日の間、総大将の武田耕雲斎や藤田小四郎達353名が、この鰊倉から引き出され、敦賀の松原において斬首された。
斬首をまぬがれたその他の志士達も流罪・追放などの刑を受け、大半の志士達は故郷に帰ることなく無念の死を遂げた。
以来90余年の時を移した昭和32年、維新回天いしんかいてんの大業に殉じた天狗党の忠誠の魂と無念の血涙とがしみ込んだ16棟の鰊倉のうち1棟が、敦賀市の厚意によって水戸市に寄贈され、常磐ときわ神社の境内に移築復元されて「回天館」と名付けられました。
同館は往時を偲ぶ展示館として、拝観者に深い歴史的感銘を与えてきた。
しかし、復元後30数年を経て建物も老朽化し、危険な状態になったところから、この歴史的建物を保存し後世に残すため、水戸の有志が集い、平成元年2月「回天館移築保存会」が設立され、広く浄財を募って、志士達を祀る回天神社の境内に移築再建の事業が進められたのが、この「回天館」である。
「回天」とは混乱、衰微した時勢や国勢を正しい状態に盛り返すことを意味する言葉で、藤田東湖の「回天詩史」の書名も同じ趣旨からつけられたものである。
辞世
武田耕雲斎
咲く梅の花ははかなく散るとても
馨かおり君が袖にうつらん
山国兵部
行くさきは冥土めいどの鬼と一勝負ひとしょうぶ
藤田小四郎
かねてより思い染めにし言ことの葉を
今日の大君おおきみに告げて嬉しき
平成元年10月吉日
回天館移築保存会
冥々の裡に記す
(説明板より)
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回天神社 (茨城県水戸市松本町13−33) (平成20年6月30日) |
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