明治37年(1904年)5月9日〜昭和21年(1946年)3月31日
大阪市出身。
東大中退。
『辻馬車』『大学左派』などの同人として編集に携わるとともに、新感覚派的な手法と左派イデオロギーの結合した作品を発表。
昭和7年(1932年)の『日本三文オペラ』など、庶民の中に視点をすえた独特の現実描写による市井しせい物に成功をおさめる。
昭和11年(1936年)には散文精神を掲げて『人民文庫』を創刊し、時代のファッショ化に対抗した。
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文学碑 (大阪市・誓願寺) (平成20年6月16日) |
碑文
誓願寺を出ると 夏祭りを兼ねて遷宮せんぐうの儀式もあるといふ生玉いくたまの方へひとりでに足が向いてゐた
季節の到来に勢ひづいた蓮池の近くの金魚屋も 大きな水槽を十幾つも並べて 郡山こほりやまの金魚銀魚を浮かべ好事家こうずかを待ってゐた
水も紅に染まって目のさめるやうな眺めであった
武田麟太郎
「井原西鶴」より
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誓願寺 (大阪市中央区上本町西4−1−21) (平成20年6月16日) |
【「七生社」の暴力事件】
昭和3年1月、東京帝国大学内で開催された弁論大会で左翼系「新人会」の学生が、右翼系「七生社」の学生から暴行を受けるという事件が起きた。
新人会は大正7年に東京帝大法科学生の有志を中心に結成され、人類解放という風呂敷を広げる綱領を掲げた。
会員は100人を数え、中には武装共産党を指揮する空手3段の猛者、田中清玄たなかきよはる(奥山久太)、のちに作家になる武田麟太郎、評論家の亀井勝一郎らの名もあった(竹内洋『大学という病』)。
一方の七生社は、右翼の思想的支柱、上杉慎吉教授を盟主とする国粋団体であった。
ことの発端は、七生社の学生が演説しているところに、新人会が組織的なヤジで妨害したことに始まる。
これに憤慨した七生社の学生が、演壇から駆け下りて殴り倒した。
混乱の中で、七生社の学生が煉瓦で殴りかかって流血の事態となったのである。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
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