文政12年9月27日(1829年10月24日)〜慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)
土佐国高知藩郷士。
幼名は半平太。
剣道に優れ、江戸桃井道場の塾頭を勤めました。
萩(長州)・鹿児島(薩摩)両藩の尊穣派と連合を画策。
土佐に帰って下士・郷士・村役人を主体にした土佐勤王党を結成し首領となりました。
吉田東洋を中心とする公武合体派と対立し、藩政改革を企画。
文久2年(1862年)東洋を暗殺して藩政を掌握しました。
翌年の8月には藩論が再び公武合体論に傾き、捕らえられて、慶応元年(1865年)切腹を命じられ自刃しました。
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武市瑞山先生寓居之跡 (京都市中京区木屋町通三条上る) 現:京料理旅館 金茶寮きんちゃりょう 維新の志士・武市半平太(瑞山)が上洛中に滞在した料亭「丹虎」の建物が残っており、ゆかりの部屋が保存されているそうです。 (平成16年4月2日) |
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翠紅館跡 (京都市東山区高台寺南門通) 京都霊山護国神社に向かう道の右側が翠紅館跡です。 (平成19年3月17日) |
翠紅館すいこうかん跡
ここに、幕末の頃、西本願寺の別邸で、翠紅館と呼ばれる屋敷があり、たびたび志士たちの会合の場所となっていた。
文久3年(1863)正月27日には、土佐藩武市半平太、長州藩井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年6月17日にも、長州藩桂小五郎、久留米藩真木和泉守らが集まった。
この数年前から攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩志士代表者の会議で、攘夷の具体的な方法が検討された。
世にこれを翠紅館会議という。
同年8月13日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
しかし8月18日に政変が起こって攘夷派は失脚、代って公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を加えていった。
京都市
(説明板より)
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