滝廉太郎像 平成15年6月26日

滝廉太郎 たき・れんたろう

明治12年(1879年)8月24日〜明治36年(1903年)6月29日

東京都台東区 上野公園内「旧東京音楽学校奏楽堂」でお会いしました。


東京都出身ですが、少年期は父親の任地の大分県竹田で過ごしています。
明治27年(1894年)東京音楽学校に入学、のちに研究科に進んで、ピアノ授業の嘱託となりました。
同校編集の「中学唱歌」に「荒城の月」「豊太閤」「箱根八里」を発表しました。
文部省からドイツ留学の命を受けて1901年ライプチヒ王立音楽院に留学しましたが、2ヶ月足らずで病に倒れ、翌年の7月に帰国。
1年後に没しました。


旧東京音楽学校奏楽堂

旧東京音楽学校奏楽堂

東京都台東区上野公園内

滝廉太郎はこの学校から音楽家として世に出ました。


(平成15年6月26日訪問)

居住地跡の碑



『滝廉太郎居住地跡』の碑

(東京都千代田区一番町6番地)





(平成18年7月14日)

(都旧跡)
滝廉太郎居住地跡

滝廉太郎は、この交差点から西に100メートル程の所(一番町6番地ライオンズマンション一番町第2)に、明治27(1894)年ごろから34(1901)年4月まで居住していました。
今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。
滝廉太郎は明治12(1879)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同27年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。
優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。
明治34年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。
しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、同36(1903)年6月29日死去しました。
日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。
滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年9月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。

平成17年8月
千代田区教育委員会

(説明板より)

レリーフ



レリーフ
(滝廉太郎居住地跡)





(平成18年7月14日)

趣旨

滝廉太郎先生は東京音楽学校卒業後文部省より音楽研究の為独乙留学を命ぜられた
作曲の才能は益々その輝きを加えこゝに日本管絃楽の始祖となった
世界的名曲「荒城の月」は此地即ち千代田区一番町六番地在住中の作である
依て東京芸術大学教授山本豊市先生に依嘱し此■に曲碑を建て永くその榮光をたゝえるものである

昭和39年4月10日
曲碑建立委員会

(碑文より)

ライオンズマンション一番町第2


ライオンズマンション一番町第2

(東京都千代田区一番町6−4)

居住地跡の碑から約100m西の地点
この場所に滝廉太郎宅があった。



(平成18年7月14日)

滝廉太郎像 平成20年11月18日

大分県大分市・遊歩公園でお会いしました。

瀧廉太郎君像



瀧 廉太郎君像
(大分県大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)
終焉の地



史蹟 瀧廉太郎終焉之地
(大分県大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)
終焉の地



史蹟 瀧廉太郎終焉之地
(大分県大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)

標柱・文

大分の生んだ天才音楽家瀧廉太郎は、「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」「鳩ポッポ」など、矢つぎ早に不朽の名曲をのこして23才と10ヶ月の若さで、慧星の如く逝った。
この地は、彼が明治35年12月、ドイツ留学から帰朝し、病を養った稲荷町の自宅の跡である。
ここで養病半歳、明治36年6月29日遂に永眠した。

※ 「慧星」は「彗星」の誤字?

瀧 廉太郎 年譜
年月日 年才
明治12年8月24日 0才 東京市芝区南佐久馬町2丁目18番地に生れる
明治19年5月 6才 神奈川県小学校に入学
明治19年9月 7才 富山県尋常師範学校付属小学校に転校
明治21年5月 8才 東京都麹町区小学校に転校
明治23年5月 10才 大分県尋常師範学校付属小学校に転校
明治27年4月 14才 直入郡高等小学校卒業
明治27年5月 14才 芝唱歌会に入学 傍英語、数学、国漢学習
明治27年9月 15才 東京音楽学校に入学
明治29年12月 17才 学友会音楽会に初めてピアノ弾奏
明治30年2月 17才 「砧」を作曲し、音楽雑誌66号に発表
明治30年3月 17才 「日本男子」の作曲を同誌67号に発表
明治30年7月 17才 「春の海」作曲、学友会誌5号に発表
明治30年8月 17才 「散歩」の作曲を同誌72号に発表
明治30年12月 18才 「枯野の夕景」を同誌75号に発表
明治31年7月9日 18才 東京音楽学校卒、同年9月同研究科に入る
明治32年9月 20才 音楽学校教授嘱託
明治33年 20才 「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」作曲 入選
明治33年10月 21才 ピアノ独奏曲「メヌエット」発表
明治33年11月 21才 作曲集「四季」出版
明治34年3月 21才 中学唱歌、音楽学校より発表
明治34年4月6日 21才 中学唱歌披露音楽会を上野音楽堂で開催
明治34年7月 21才 「鳩ポッポ」等幼稚園唱歌出版
明治34年10月1日 22才 ドイツ国立音楽学校に入学
明治34年12月 22才 感冒に罹り、大学病院に入院
明治35年10月17日 23才 横浜港帰省
明治35年11月末 23才 郷里大分に帰る
明治36年2月 23才 ピアノ独奏曲「憾」作曲
明治36年6月29日 23才 大分市稲荷の自宅で逝去
23年と10ヶ月の短かい生涯をとじたのである

(説明板より)


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