滝沢馬琴 たきざ・わばきん

(曲亭馬琴 きょくてい・ばきん

明和4年6月9日(1767年7月4日)〜嘉永元年11月6日(1848年12月1日)


本名は滝沢興邦。
旗本の用人の五男として生まれる。
山東京伝や蔦屋つたや方に寄宿。
黄表紙『尽用而つかいはたして二分狂言』以後、戯作者の道を歩む。
32歳で滝沢家の当主となり、京阪旅行を契機に作者として開眼。
『月氷げっぴょう奇縁』や『椿説ちんせつ弓張月』で読本よみほんの第一人者となった。
子の宗伯の出世を祝って家譜の『吾仏あがほとけの記』を書き上げた。
宗伯は38歳で死去したが、馬琴は天保の改革などの弾圧や眼疾の逆境のなかでも著述を続け、稗史はいし七法則という小説理論に基づき、優れた構築性を示す『南総里見八犬伝』を28年かけて完成させた。


滝沢馬琴宅跡の井戸



都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸
(東京都千代田区九段北・東建ニューハイツ九段)





(平成20年12月16日)
滝沢馬琴宅跡



滝沢馬琴宅跡
(東京都千代田区九段北1−5−5・東建ニューハイツ九段)





(平成20年12月16日)

滝沢馬琴硯の井戸跡

ここは、滝沢馬琴が寛政5年から文政7年の31年間住まい、名高い里見八犬伝などの書を著述したところで、この奥に当時の井戸があった。

千代田区

(説明板より)


滝沢馬琴住居跡



滝沢馬琴住居跡
(東京都千代田区外神田3−5−18・芳林公園)





(平成20年6月13日)
滝沢馬琴住居跡

『南総里見八犬伝なんそうさとみはっけんでん』・『椿説弓張月ちんせつゆみはりづき』などを著わした滝沢馬琴は、江戸時代の戯作者げさくしゃとして有名です。
彼は、千代田区内に2ヶ所の足跡を残しています。
旗本松平信成の家臣の子として生まれた馬琴は、元飯田町中坂下(千代田区九段北1丁目5)の下駄屋会田家の養子となり、戯作者としての道を歩み始めます。
文政元年(1818)になると、息子宗伯が母と妹を連れて、当時、神田明神石坂下の同胞町東新道どうほうちょうひがしじんみちと呼ばれていたこの地に転居してきます。
ここは、西丸書院番士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する50坪の土地で、16坪の家屋が建っており、そこで暮らしました。
のち、文政7年(1824)には、飯田町の下駄屋を婿養子に継がせ、馬琴もここに引っ越してきます。
隣家を買収し、80坪の敷地として、書斎や庭園を設けています。
外神田に住んだ時期の作品としては、大内・陶すえ・毛利の物語をまとめた『近世説美少年録きんせいせつびしょうねんろく』や、楠・新田氏による南朝再興の物語をまとめた『開巻驚奇侠客伝かいかんきょうききょうかくでん』などがあります。
馬琴は、天保7年(1836)70歳の時四谷信濃坂に転居するまでの12年間を、ここで暮らしました。

平成17年3月
千代田区教育委員会

(説明板より)



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