田中義一像 平成15年7月26日

田中義一 たなか・ぎいち

元治元年6月22日(1864年7月25日)〜昭和4年(1929年)9月29日

山口県萩市の公園でお会いしました。


萩藩士の子。
代用教員などをへて陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業しました。
日清・日露戦争に出征。
山県有朋寺内正毅まさたけらの庇護のもとで累進、軍務局長・参謀次長などをへて大正7年(1918年)に内閣の陸相になりました。
大正10年(1921年)陸軍大将。
山県らの死後、陸軍長州閥の後継者となり、第二次山本内閣でも陸相を務めました。
大正14年(1925年)立憲政友会総裁に迎えられたが、のちに陸相在任中の機密費流用による総裁就任工作が取り沙汰されました。
昭和2年(1927年)内閣を組織し、外相を兼務、森恪つとむ政務次官らと山東出兵・東方会議開催など対中国積極政策を展開しました。
枢密院などの反対を押し切って不戦条約を調印・批准しましたが、張作霖ちょう・さくりん爆死事件の処理をめぐり昭和天皇の叱責を受けて辞任しました。


公園に建つ田中義一像

この銅像を撮影するなら早朝が良いですよ。
午後には逆光になってしまい銅像は真っ黒に写ってしまいます。
南向きに立っててくれりゃいいのにねぇ〜

台座には略歴や撰文の銘板がはめられていますが、非常に読みづらいのです。
分かりやすく読み下したものが別にあるといいのになぁ〜

(平成15年7月26日)

碑文

元治元年萩に生る
父信祐母美世
明治9年13歳新堀小学校代用教員
同年前原一誠の乱に参加
12年渡支を企て果さず判事笠原半九郎の書生となる
19年陸軍士官学校卒業歩兵少尉
25年陸軍大学校卒業第1師団副官
27年日清戦役従軍
功5級金鵄勲章を賜う
31年露国に差遣え滞留5年具に国情を究む
37年日露戦役従軍満洲軍作戦主任参謀
連戦連勝功に依り功3級金鵄勲章勲3等旭日章を賜う
43年帝国在郷軍人会を発案創立に参画
44年軍務局長
大正2年欧米出張軍人会青年団の組織運営を視察帰朝後青年団再編に努む
4年参謀次長欧州大戦西伯利出兵に■■
7年陸軍大臣に親任
9年勲功に依り華族に列し男爵を授けられ旭日大綬章を賜う
10年陸軍大将
同年比律賓総督に招かる
12年陸軍大臣
14年予備役編入
在郷軍人会副会長を辞し立憲政友会総裁就任
昭和2年内閣総理大臣兼外務大臣に親任財界混乱を救済
3年普選第1回総選挙を施行
同年即位御大典に奉仕■宸■の儀に寿詞を奉上全国民を代表して萬歳を奉唱す
4年2月29日宿痾を発して薨死す
年66
正二位旭日桐花大綬章の御沙汰書を賜う
萩蓮正寺東京多摩墓地に葬る
大覚院殿石心素水火居士と謚す

(※■は文字が良く見えなくて読めなかった字です。)


生誕の地



田中義一閣下生誕地
(山口県萩市)

ほんのわずかなスペースのところに生誕の地の石碑だけが建っています。

(平成15年7月26日)

田中義一

幕末ごろ藩主の御六尺(かごかき)田中家の三男として文久3年(1863)乙熊がここで生まれた。
乙熊は3歳のとき、平安古に移り、成長して義一と名を改めた。
13歳のとき新堀小学校の授業生(代用教員)に登用され、萩の乱にも参加したが、のち陸大に進学した。
大正7年以降陸軍大臣、次いで大将に進み、再び陸軍大臣となる。
大正14年政友会総裁に就任、昭和2年内閣総理大臣となり外務大臣、拓務大臣をも兼任した。

萩市

(説明板より)


田中別邸


田中別邸

山口県萩市平安古ひやこ地区にあります。



(平成15年7月27日)
田中別邸内部 田中別邸内部
大将服 田中義一の大将服

胸には日本の勲章だけではなく、中国・フランス・スペイン・ロシアなどの諸外国から贈られた勲章も飾られています。

旧田中別邸

概要
敷地は藩政時代の毛利筑前下屋敷(石高16,000)に当たります。
明治以降は萩に夏みかんの栽培を広めた小幡高政により、現在の主要建物の骨格が完成されたと考えられています。
その後大正後半からは総理大臣を務めた田中義一の所有となり主屋の増改築が行われ、文部大臣などを歴任した田中龍夫の没後、遺族より平成10年5月23日付けで萩市が土地と建物の寄贈を受けました。

指定年月日
主屋は江戸時代末頃、土蔵・表門も明治初〜前期に建設されたと考えられており、重要伝統的建造物郡保存地区(萩市平安古地区)における伝統的建造物として平成11年4月に特定されました。

所在地
山口県萩市大字平安古町字平安古164番地の3

(パンフレットより)

開館時間は午前9時〜午後5時。入館料は無料。


【山県有朋を無視?】

大正時代、陸軍の大御所・山県有朋は、陸軍だけでなく、宮中および政界一般に絶対的権力を維持していた。
ところが、その山県元帥の元帥の寵児といわれた田中義一(当時大佐)は、麻布連隊長の時、山県の終世の政敵であった早稲田大学総長の大隈重信伯を、礼を尽くして歩兵第3連隊(麻布連隊)に招き、将兵の為に一場の講演をさせた。
しかも大隈伯に対して、営内の出入りに元帥の優遇をした。
山県がイヤな顔をしたのもムリはない。
もっとも、大隈伯は、そのころ在郷軍人後援会の会長をしており、時々師団長会議があると、全師団長を広大な大隈邸に招待していた。
田中義一という当時陸軍きっての俊秀であった人は、非常に視野が広く、開放的思想を持っていた軍人で、頑冥な山県など無視していたきらいもあった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

令和元年5月6日 追記)


【田中義一 VS 中野正剛】

(シベリア出兵)
陸軍がシベリア出兵を強行した時(大正7年)、真っ先に反対し、徹頭徹尾、陸軍大臣・田中義一を糾弾し続けたのは、まだ駆け出しの政治家・中野正剛であった。
「世界中の眼がヨーロッパの戦局に集中しているそのスキを狙って、ウラジオをどうの、シベリアをどうのと言うのは、泥棒猫と何の選ぶところぞ。泥棒猫ならまだいい。自分の意志に基いて行動するからだ。だが、シベリア出兵の了解を大国アメリカに求めようとするが如き陋劣ろうれつなやりかたは泥棒猫以下ではないか。ロシア革命は起こるべくして起こっている。明治維新がそうであったように、そして、現在進行している中国の革命がそうであるように、よかれ悪しかれ一つの歴史的必然だ。これを外部から干渉してストップをかけようとするのは、『民族の自然権』を侵害するものだ。だから、日本国としては、『シベリア出兵』という如き邪心を起こすことなく、世界に率先してロシア政府を承認すべし。・・・・」と主張続けたのである。
そして、正剛は、シベリア出兵を動かしている参謀本部の中の中心人物田中義一を鋭く批判している。
「このときにあたり、外務省以外より、ひそかに寺内内閣の外交方針に容喙ようかいするものに参謀本部あり。参謀本部内において最も寺内伯の信用を博する者は、伯の同郷人たる次長田中義一中将なり。(略)田中義一中将の頭脳には軍事行政ありて、国民的外交なし、細工あれども経綸けいりんなし。(略)」
正剛は対露不干渉と撤兵を主張し、寺内、原両内閣の対露政策の失敗を責めたが、とくにに尼港事件の責任を取ろうとせぬ田中陸相の厚顔無恥をなじり、とくに3月31日のシベリア居坐り声明を「時代錯誤の最たる剣付鉄砲」と非難した。

(機密費問題)
大正7年から11年にかけてのシベリア出兵で、陸軍は2400万円の機密費を消費した。
この機密費がいかに膨大であるかは、日清戦争の陸軍機密費36万9千円、日露戦争の陸軍機密費320万円と比較すれば明白である。
この機密費のうち、寺内内閣時代に使ったのは、340万円、あとの2000万円余はほとんど原内閣のときであり、陸相は田中義一、次官は山梨半造(後半、田中に代わって陸相となる)であったから、この二人に疑惑がかかったのは当然である。
中野正剛は、大正15年3月4日、加藤高明首相が急逝し、内相の若槻礼次郎が後継内閣の首相となった直後の衆議院本会議で壇上に立ち、田中、山梨両人の背任横領を告発した元陸軍省大臣官房付陸軍二等主計・三瓶俊治や元陸軍第1師団長・石光真臣中将の手記を読み上げ、さらに田中義一陸相、山梨半造次官、松本直亮高級副官らの在職中の罪状を徹底的に暴いたのである。
当時の陸軍大臣は宇垣一成で、かねてから長州軍閥の悪しき遺産を一掃して陸軍を近代化し、すっきりしたものにしようと念願していたが、その肝心の彼が大道を踏み誤った。
正剛の演説の次の日、宇垣は首相、閣僚たちの前で「陸軍全体の面目、威信」を強調して威圧したのである。
この陸軍を代表する立場の宇垣の態度に、閣僚たちはひたすら恐縮し、若槻首相は陳謝して善処を約束した。
正剛が暴露した「機密費」問題について、政友会の秋田清が3月6日の予算総会で宇垣陸相に質問した。
宇垣は、陸軍の軍紀は決して緩んではおらず、「軍事機密費」は会計上不審の点がなく、正剛が査問を要求した事件は、「私にはどうも荒唐無稽のように思われます」と答弁した。
その後、国会は中野問題で荒れに荒れたが、結局、陸軍大将・政友会総裁田中義一を救うために、宇垣陸軍大臣は「陸軍の威信」で問題を糊塗し、政友会は「陸軍の威信」のかげに隠れ、軍部を批判する者は国体を破壊する共産主義者であるという大前提で、議会の権限を縮小・制限して、政党を人畜無害な存在にまで無力化して、軍部専制、軍閥横暴に至る転落の道を進むこととなる。
その後、中野正剛は「機密事件の顛末」という一文を草し天下に訴えたが、中野や尾崎行雄などの奮闘もむなしく、機密費事件は闇から闇に葬られた。

(参考:鳥巣建之助 著 『日本海軍失敗の研究』 文春文庫 1993年2月 第1刷)

(平成29年10月16日 追記)


【西園寺公望の田中義一評】

「機密費問題」がまだ裏面でくすぶっているころの大正14年3月3日、西園寺公望は、情報屋の松本某に次のように洩らしたという。
「陸軍大将の田中が軍服を脱いで政界入りすることはよほど考えものだ。万一、彼が総理大臣にでもなってみようというような野心を起こしたとすれば、よほど気をつけんといかんかも知れん。何しろ、田中の周囲には素性の良くない悪い虫がたくさんつきまとうているようだからな」

【宇垣一成の田中義一評】

加藤高明内閣の陸軍大臣であった宇垣一成は、軍人として先輩である田中を次のように見ていた。
「一見豪快なようで実は大変小心で軽率な人格の持ち主であり、その取り巻き連中がやがては田中の進退を誤るであろう」

(参考:鳥巣建之助 著 『日本海軍失敗の研究』 文春文庫 1993年2月 第1刷)

(平成29年10月16日 追記)


田中義一内閣

【昭和2年(1927年)4月20日〜昭和4年(1929年)7月2日】

山東出兵

大正15年1月30日に成立した民政党の若槻礼次郎内閣は中国の内戦に関して「不介入」を宣言し「日支親善」」を推進しようとしていた。
昭和2年(1927)1月20日、英国大使が上海への共同出兵を提議してきたが、日本はこれも拒否している。
ところが、事態は予期せぬ方向へ進む。
間もなく上海総領事より「騒乱が拡大し、在留邦人の安全が極めて危険な状況にある」との至急電が海軍省に入った。
1月24日、第1遣外艦隊司令官より、南支方面を警備範囲とする第24駆逐隊に対し、「在留邦人保護のため同地に急行せよ」の至急電が発せられた。
3月になると、北伐の途次南京に入城した国民政府軍の兵士が列国領事館に乱入し、居留民に暴行をはたらき、婦女子を陵辱した。
このため列国海軍は暴徒を制圧するために城内に向けて2時間にわたって艦砲射撃を行なった。
この時、現地にいた日本艦隊だけは訓令に従い共同行動を拒否して発砲しなかった。
しかも、国民政府軍の陸上砲台よりわが艦隊が砲撃を受けていたにもかかわらずである。
現地指揮官は不満であったが訓令を順守していた。
こうした中、南京事件が起こる。
3月24日、暴徒が日本領事館に乱入し、避難中の邦人婦女子を陵辱した。
しかし、この時、同館護衛の指揮を執っていた第24駆逐隊司令駆逐艦「檜」先任将校・荒木亀雄大尉(海兵48期)は、政府の訓令を墨守して無抵抗に徹した。
第1遣外艦隊司令部はこの直後、荒木を召還し、「武を汚した」として拳銃を渡し自決を強要する。
荒木は自殺未遂に終わったが、国民は、この荒木に大きく同情し、若槻内閣を激しく批判したのである。
こうした民政党の政策に国民は「軟弱外交」と批判を加え、マスコミは「暴支膺懲ようちょう」を叫んだ。

昭和2年4月20日、世論に応えて政友会総裁・陸軍大将の田中義一が組閣する。
田中は、満州軍閥の巨頭・張作霖を傀儡にして、満州と内蒙古を間接統治しようという構想を持っていた。
昭和2年5月28日、田中義一首相は対支那強硬外交を開始、在留邦人保護を名目に、山東省に出兵する(第一次山東出兵)。
これによって、南京事件で激昂していた国民感情も沈静化し、英米もこれを支持した。
しかし蒋介石は間もなくクーデターを起こし、共産党勢力を一掃、反共ナショナリストであることを内外に表明した。
これによって英米は、蒋介石を支持することになる。
ところが田中義一は、蒋介石の北進に同意しなかった。
これに対し、蒋介石が独断で北進を開始すると、昭和3年4月20日、再び山東に出兵し、その軍事行動を妨害する。
今度は英米両国が対日姿勢を転換し、日本批判を開始した。

(参考:惠 龍之介著『敵兵を救助せよ』 草思社 2006年 第1刷)

(平成22年1月17日・記)

モラトリアム

田中首相は、もともとは長州閥の陸軍軍人であり、陸軍大将までのぼりつめている。
従来、政友会は原敬にみられるように海軍との共同歩調をとってきたが、ここにきて陸軍寄りの一大方向転換を行う。
田中内閣は治安維持法の改定、選挙干渉などを行い、対中国外交の強硬路線をとり、結果的に、昭和のファシズム路線を導くことになる。
金融恐慌は、若槻内閣の崩壊により、いよいよ深刻化したため、高橋是清を蔵相に就けた田中内閣は、4月22日、3週間のモラトリアム(支払猶予令)を公布し、国内はパニック状態となった。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月7日 追記)

西田税の田中内閣糾弾 

昭和3年4月13日、米国は日英仏伊独の各国にいわゆる多辺的不戦条約の締結を提案した。
日本政府は不戦条約は自衛の権利を損なわないとして賛成し、8月になると15ヶ国間において不戦条約が成立した。
その第1条は次のとおりである。
「締結国は国際紛争解決の為戦争に訴うることを非とし、且、其の相互関係において、国家の政策の手段としての戦争を拠棄することを、其の人民の名に於て厳粛に宣言す」
この人民の名においてが、わが国では9月になって政治問題化したのである。
人民の名によって条約を締結するのは、天皇の大権を侵すものとする非難攻撃である。
西田税は黒竜会、大化会、明徳会、政教社、愛国社の有力右翼団体と結束して、田中義一内閣の糾弾運動を開始した。
こうして西田税は昭和初期の右翼勢力の中で、次第に注目される存在となってきた。

(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令〜安藤大尉とその死〜』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)

(平成29年9月7日 追記)


蒋介石・田中会談

蒋介石が日本を訪ねたのは昭和2年10月から11月にかけてである。
上海クーデターのあと国民党内の混乱が続き、北伐が休止状態に入っていた空白の時間があり、その間に蒋介石は船で長崎に上がり、雲仙から有馬温泉、箱根など日本各地を遊んだ。

昭和2年11月5日午後1時半から2時間ほど、蒋介石は田中義一首相兼外相と、青山の田中私邸で密談を交わした。
この会談は実に微妙なタイミングで行なわれたといっていい。
蒋介石は北伐をいったん休止し下野、北伐再開への戦略を練り直したい時期だった。
田中も満州経営安定のための秘策を蒋介石と交わしたかった。
最終的に二人が合意したのは、国民党が勝利して中国統一が成功したあかつきには、日本はこれを承認すること。
対して国民党は、満州における日本の地位と権益を認めるということだとされている(『評伝 田中義一』)。
外交資料の原文を読みくだいてみると蒋介石の言葉の奥には、張作霖さえ排除できれば満州問題は日本の思い通りになりますよ、との謎めいた意味が読み取れる。

支那で排日運動が起きるのは、日本が張作霖を助けていると国民が思うからです。自分は日本を理解しているが、作霖を嫌う支那国民は作霖ら軍閥が日本に依拠していると誤解しています。だから、日本は革命を早く完成させるよう我々を助けてくれれば国民の誤解は一掃されます。ロシアだって支那に干渉を加えています。なんで日本が我々に干渉や援助を与えてはいけないのですか。(『日本外交年表並主要文書1840−1945』)

具体的に張作霖の固有名詞を挙げ、我々を援助してくれれば問題は解決するのだ、と蒋介石は田中に迫っている。
田中が果たしてこの問答を理解し得たか否かは不明だが、田中は「あなたの腹蔵なきお話をうかがい、さらに大いに語りたいが時間がなくなった。他日を期したい」と応じ、蒋介石は、「自分が東京を去っても、連れてきた張群を残しておくので彼にでも、また(通訳の)佐藤安之助少将を経てでもご意見をお聞かせ下さい」と返して微妙な内容の会談は終った。

蒋介石は日本の手で張作霖を処理してくれ、と頼んだのか、あるいは、自分の側で張作霖を処分するから、側面からあと始末をして欲しいという意味を込めたのか。
判断は難しいが注目すべき箇所である。

(参考:加藤康男 著 『謎解き「張作霖爆殺事件」』 PHP新書 2011年5月第一版第一刷)

(平成27年3月7日追記)


田中義一は自らのことを方言丸出しで「おらが」と言うことから「おらが大将」とあだ名されていた。

彼は、相手が気に入らぬことを話すと、それに対して一言も発せず、ただ庭の方へ視線を投げているという癖があった。
また、ある時、東欧の公使が訪ねて、ほとんど日本に関係のない問題を繰返して長々と話し込んだ時、通訳を務める吉田茂に対して「こいつ馬鹿じゃなかろうか」と言って、吉田を一瞬ヒヤリとさせたこともあるという、大雑把で構えのない人物だった。

参考文献:塩澤実信著「人間 吉田茂」

(平成17年7月5日追記)


【死因】

男爵・陸軍大将田中義一は、長州閥の総帥で政友会総裁となり、昭和2年4月、内閣総理大臣になったが、昭和3年6月の張作霖爆殺事件の責任を取らされ、翌4年7月、総辞職をした。
ところが2ヶ月後に田中を引き立ててくれた恩人、桂太郎(公爵、陸軍大将)の二女の娘婿、天野直嘉(田中義一内閣の賞勲局総裁)が在任中の?職事件が発覚、9月11日、起訴収監された。
田中がその直後、料亭で急逝したのは、そのショックであったといわれた。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【田中義一の長男・龍夫と朝鮮戦争】

田中義一元首相の長男、龍夫は昭和22年、36歳で山口県の民選知事になると、県庁内に「朝鮮情報室」をつくった。
山口県は、対馬のある長崎県と並んで朝鮮半島からの密航者の多い土地であった。
直線で217キロほどだから、半島とは指呼の距離にある。
半島からの中波や短波を傍受して県庁内だけでなく、日本政府にまで分析内容を送っていた。
山口県には、朝鮮語を話す朝鮮総督府時代の官吏や朝鮮の内情に通じた県警察部の担当者が少なからずいた。
田中龍夫は単なる傍聴を指示するだけでなく、半島内に「情報員までも派遣していた」(庄司潤一郎「朝鮮半島と日本」『MAMOR』所収)という周到さである。
国内の地方自治体が、半島に限っては政府をしのぐ情報力を持っていた。

その朝鮮情報室が昭和25年に入って、半島情勢に異変があることを察知した。
庄司によると、田中は6月21日に上京して、大磯の別邸にいた首相の吉田茂に「北朝鮮が侵攻する可能性が高いから、何とかしてほしい」と訴えた。
事変が起きれば、無数の難民が山口県に押し寄せ、亡命政府が出来る可能性すらあった。
しかし、吉田はわずか3日前に38度線を視察したジョン・F・ダレス特使(のちの国務長官)が日本に立ち寄り、「米軍の士気は旺盛で装備も充実しており、決して心配ない」と言ったとニベもなかった。
一地方自治体に、それほどの情報収集能力があろうとは考えられなかったからである。

ことは緊急を要する。
田中はただちに、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官に面会を求めたが、これもあっさり断られた。
しかし、山口県のインテリジェンス能力の高さは侮れない。
まもなく田中の心配が現実になった。
1950年6月25日午前4時、朝鮮半島の北緯38度線で、北朝鮮軍が怒涛の南進を開始したのだ。
3年1ヵ月に及ぶ朝鮮戦争の幕開けであった。

(参考:湯浅博 著 『吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』 文春文庫 2013年7月 第1刷)

(令和2年5月3日 追記)


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