田中丘隅 たなか・きゅうぐ

寛文2年(1662)〜享保14年12月22日(1730年2月9日)


諱は喜古よしひさ
自ら休愚・丘愚右衛門と称し、冠帯老人・武陽散民などとも号した。
武蔵国多摩郡平沢村(現:東京都あきる野市)の農家に生まれ、同国川崎宿の本陣・田中兵庫の養子となり、跡を継いで名主も兼任する。
農政や治水に通じ、享保6年(1721年)自分自身の体験や見聞をもとに『民間省要』を著し、師の成島道筑を介して幕府に献上した。
8年後、支配勘定並に登用され、武蔵国多摩・埼玉二郡で3万石を支配したが、同年病死する。


手洗石



手洗石
(神奈川県川崎市・稲毛神社)





(平成19年12月18日)

手洗石

本手洗石ちょうずいしは、田中休愚たなかきゅうぐが勘定支配格かんじょうしはいかくに就任した享保14年(1729)に、彼の一族と手代衆てだいしゅうらによって、川崎宿の鎮守ちんじゅであった山王社さんのうしゃ(現在の稲毛いなげ神社)へ奉納されたものです。
田中休愚(1662〜1729)は、江戸時代中頃の人で、大著『民間省要みんかんせいよう』を著し、民政に大きな業績をあげたことで知られています。
また、彼は川崎宿の本陣職ほんじんしょくを務め、衰退していた川崎宿の立て直しや二ケ領にかりょう用水の改修などの大事業を成し遂げたことでも有名です。
本手洗石は、田中休愚と彼の活躍の舞台であった川崎宿との係わりを物語る資料であり川崎宿に残された数少ない資料として貴重な価値をもっています。
なお、本手洗石の正面には、これを奉納した5人の名前が、力強い文字で刻み込まれています。
田中仙五郎は休愚の次男で、田中団助も休愚の縁者であったと思われます。
森田重郎衛門・富永軍治・門田半四郎の3人は、休愚の土木治水事業を補佐した技術者で、現場をまわって土木工事を指導した監督者として、当時の文献にもしばしば登場しています。
川崎市教育委員会は、昭和63年11月29日、本手洗石を川崎市重要歴史記念物に指定しました。

平成6年3月
川崎市教育委員会

(説明板より)

稲毛神社



稲毛神社
(神奈川県川崎市川崎区宮本町7−7)





(平成19年12月18日)



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