田中光顕像 平成17年2月6日

田中光顕 たなか・みつあき

天保14年9月25日(1843年10月18日)〜昭和14年(1939年)3月28日

茨城県東茨城郡大洗町・幕末と明治の博物館でお会いしました。


土佐国生まれ。
元治元年(1864)脱藩して勤皇運動に参加し。
武市瑞山に師事し勤王党に属す。
のち中岡慎太郎に兄事し陸援隊に加わる。
維新後、明治政府に出仕し、岩倉遣外使節団の理事官として外遊。
以後、陸軍会計監督長、陸軍少将、恩給局長、内閣書記官長、元老院技官、会計検査院長、警視総監、宮中顧問、学習院院長、宮内大臣を歴任。
11年大臣職にあり宮中に大きな影響力を持つ。
退官後は維新烈士の顕彰に余生を捧げ97歳で没する。


田中光顕伯像

田中光顕伯銅像
(茨城県東茨城郡大洗町・幕末と明治の博物館)

昭和5年9月25日建設
常陽明治記念館設立者

(説明板より)

(平成17年2月6日)

【結婚騒動】

華族の結婚に対して認許を与える権限をもっているのが宮内大臣である。
その宮内大臣が結婚をしても構わないが、田中光顕の場合はひどかった。

伯爵で陸軍少将の栄誉に輝く光顕は67歳になる明治42年(1909年)、21歳の女性を後妻に迎えようとしたが、周囲から猛反対され、とうとう断念したばかりか、宮内大臣の役職も棒にふってしまった。
光顕の後妻の候補者になったのは東京神田の小林家の妾の子の孝子たかこであった。
金杉英五郎という医師の紹介で結婚話が持ち上がったものだが、実はこの金杉医師は「医師といわんよりはむしろ幇間ほうかんもしくは結婚媒介業者ともいうべき者」だったといわれる(朝日新聞・明治42年1月20日〜29日)。
小林孝子は平民の子だが、明治4年に「華族から平民にいたるあいだ、たがいに結婚はゆるされる。願い出るにおよばない」との布告が発布され、華族令にもこの精神は継承されているから、問題はない。
だが、田中光顕は孝子をいったん他家の華族の養子にし、しかるのちに妻に迎えるという手を使おうとしたのが華族社会の逆鱗に触れたようだ。
陸軍閥を牛耳る山県有朋が、配下の田中の醜態に知らん顔をしてはいられなくなり、田中を呼びつけて宮内大臣を強制的に辞職させ、一件は落着したのである。

(参考:『歴史読本 2001年3月号』 新人物往来社 発行)

(令和2年9月7日 追記)


蕉雨園


田中光顕旧居

(東京都文京区関口2丁目・蕉雨園)

「催し物関係者以外の方の入園はご遠慮下さい」との札が立っているので、一般の人の立ち入りは禁止されているようです。



(平成18年3月11日)

田中光顕の墓



従一位勲一等 田中光顕之墓
(東京都文京区・護国寺






(平成18年12月23日)

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