田中信平 たなか・しんぺい

(田信 でんしん

寛延元年(1746年)〜文政7年12月9日(1825年1月27日)






田信宅址碑
(大分県中津市・南部公民館)




(平成23年2月11日)

【碑文】

君諱信字子孚田中氏文政■次甲申十二月九日歿享年七十七葬于本傳寺

大正十年十月建
            頼潔書





南部公民館
(大分県中津市京町1468)




(平成23年2月11日)

【田信宅址でんしんたくしの碑】

田信でんしん(本名 田中信平)は寛延元年(1746)中津町の商家に生まれ、長崎で蘭方外科医術を学びました。
また、書画をたしなみ、文政元年(1818)頼山陽が耶馬渓探訪の折、田信宅に立ち寄った記録もあります。
田信は食通としても知られ、中国料理に精通し、「卓子式たくししき」(しっぽく料理)の本を出し、また、今でも郷愁を誘う、ふる里中津の名物「けんちん」も田信が考案したものです。
この「田信宅址碑」は、大正10年10月「中津一品会」により建立され、碑文は頼山陽三世の孫、頼潔らいけつが揮毫きごうしたものです。
医者であり文化人であった田信は数々の業績や逸話を残し文政7年(1824)76歳で亡くなりました。

中津市観光協会
田信顕彰事業実行委員会

(説明板より)


【住居跡碑について】

平成9年(1997年)4月13日に南部公民館で田中信平(通称・田信)の住宅址碑の除幕式が行われた。
もともとこの石碑は大正10年(1921年)10月に田信の舊邸であった中武樓という料亭の敷地に、書画骨董の道に趣味を有する人々の集まりである一品会が主唱して建設された。

【田中信平(田信)について】

田信は、寛延元年(1748年)、中津の商家に生まれた。
姓は田中、名は信平、字は子孚、壮年の頃は以成と称していた。
号は田信であるが、書画には、田子孚と署名したものが多い。
田信は書画、割烹の趣味で知られているが、職業の外科医としての記録が中津藩惣町大帳に見られる。
長崎で蘭法外科を学んだらしく、創傷の処置をしたり蘭法の薬を処方している。
若い頃は、外科医として活躍していたようである。
性格は天衣無縫、風流人としても、奇人としても知られていた。
天明4年(1784年)、長崎に遊学し、中国、朝鮮の料理を研究し、「卓子式たくししき」という料理の本を著した。
中津にカステラや「けんちん」を紹介し、今に伝わっている。

かつて柴野栗山の家に厄介になっていた時代、来客のための鯛を井戸端で料理している際、鼻水を俎板まないたの上にたらし、褌ふんどしで拭いてしまったのを栗山夫人に見つけられ、お払い箱になったという逸話がある。
書画は長崎で唐人(薫元宰)に学んで、独創の山水画を描く。
手先が器用で、鉄瓶や陶器も作り、居室の文房具や酒茶の雑器にいたるまで中国製を用いていたという。
少壮の頃より、しばしば京阪の間を行き来し、頼山陽、池大雅、十時梅崖、県内の山川東林、末廣雲華、田能村竹田とも交遊している。
結婚の時、式を待ちかねた田信は、用意の酒肴を一人で平らげ、座敷の真ん中に彫刻中の墓石を運び、その上に残りの肴が載せてあったという逸話が残っている。
田信は文政2年(1824年)、77歳の天寿を全うし、寺町本傳寺の、自ら刻んだ「隠士田子孚墓」に眠っている。

(参考:川嶌眞人著『中津藩蘭学の光芒〜豊前中津医学史散歩〜』 西日本臨床医学研究所発行 平成13年 第1刷)



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