谷川士清 平成16年2月7日

谷川士清 たにかわ・ことすが

宝永6年2月26日(1709年4月5日)〜安永5年10月10日(1776年11月20日)

三重県津市 国道23号線丸之内商店街(歴史散歩道)でお会いしました。


父は伊勢国安濃郡刑部おしかべ村の医師・谷川順端。
松岡仲良・玉木正英に師事して垂加神道を学び、神道免状を受けました。
本居宣長とも交流がありました。
主著「日本書紀通証」35巻は1751年(宝暦元年)脱稿。
これは鎌倉後期の卜部兼方の「釈日本紀」以降、初の書紀全体の注釈書で、用語活用や神道説などの点に特質があります。
著書は他に国語辞典で名高い「和訓栞わくんのしおり」があります。


谷川士清



谷川士清像
(三重県津市)




(平成16年2月7日)

谷川士清

宝永6年(1709)津の八町はっちょうに町医の長男として生まれた士清は、13歳で京都の松岡玄達まつおか・げんたつに入門し、「本草学ほんそうがく(博物学)」「医道いどう(古医学)」「儒学じゅがく(漢学)」「神学しんがく(国学)」などを学び、享保20年(1735)津へ帰ってきました。
町医の傍ら学問にも打ち込み、洞津谷川塾どうしんたにがわじゅくを開き、多くの門人を育てました。
号を「淡斎たんさい」といい、「古事記伝」の著者である松阪の本居宣長もとおり・のりながとも親交がありました。
有名な「日本書紀通証にほんしょきつうしょう」は、20年をかけて「日本書紀」を分かりやすくしたもので、士清の名を高めました。
さらに、わが国初の五十音訓に並べられた国語辞典として「和訓栞わくんのしおり」もまとめ、日本の国語学に大きな業績を残しました。
藩主も度々士清宅を訪問するなど、学問・健康(環境)の神様として今も市民に尊敬されています。

(説明銘板より)




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