谷干城像 平成12年5月6日

谷干城 たに・たてき

天保8年2月12日(1837年3月18日)〜明治44年(1911年)5月13日

熊本市 熊本城前の高橋公園でお会いしました。


谷干城は天保8年(1837年)土佐藩士・谷万七まんしちの第4子として生まれました。
安政3年(1856年)江戸勤学を命じられ、安井息軒やすい・そくけんの三計塾さんけいじゅくで学びました。
万延元年(1860年)桜田門外の変で藩論が攘夷と開国に二分するや、干城は攘夷を主張。
翌年の文久元年(1861年)、江戸勤学から土佐へ帰る途中、薩長と連携して攘夷を画策する武市瑞山と会い感銘を受け、帰国後、藩の参政・吉田東洋に攘夷の実行を進言しました。
文久2年、藩主の上京の督促と薩長と共に攘夷を行うべきを進言。
翌年、8月18日の政変で京都から攘夷派が一掃され、土佐でも攘夷派の弾圧が開始されました。
長州の赦免を求めた干城は、一時、職を免じられ、まもなく復職しましたが、元治元年(1864年)には久礼浦くれうらの陣屋詰に左遷されました。
約1年後に高知へ召還され、慶応元年(1865年)藩校・致道館ちどうかんの助教となりました。
慶応2年には藩命で長崎へ視察に赴きます。
ここで後藤象二郎坂本龍馬と交わって、攘夷の不可なのを悟り、次第に倒幕へ傾いていったといわれています。
慶応3年、板垣退助とともに京都で西郷隆盛、小松帯刀と会談し、武力倒幕の密約を交わしました。
この直後、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺されましたが、この時、まだ息のある中岡慎太郎のもとに真っ先に駆けつけたのが干城でした。
慶応4年の戊辰戦争では31歳で政府軍の軍鑑として参戦。
北関東・会津を転戦し功績を上げました。
明治3年(1870年)、藩少参事として藩政改革に尽力しました。
翌年の廃藩後、兵部権大丞ひょうぶごんのだいじょうとして新政府に出仕。
明治5年(1872年)陸軍少将になり、翌年から暫くの間熊本鎮台司令官となります。
神風連の変後、再び熊本鎮台司令官となり、西南戦争の時は籠城策を取り52日間にわたる薩軍の猛攻に堪え勇名を馳せます。
その功績により中将に昇進。
陸軍士官学校校長・学習院院長を歴任しました。
その後、政治家に転身。
明治18年(1885年)伊藤内閣の初代農商務相に就任しますが、閣内の国権派として伊藤内閣の欧化政策を批判し、条約改正問題で辞任しました。
後に貴族院議員となり地租増徴に反対するなど独自の政治運動を展開しました。
薩長藩閥とも板垣退助ら自由民権派とも異なる保守的な中正主義で、土佐派の重鎮として重きをなしていました。
明治44年(1911年)に死去しました。

(平成16年8月9日改訂)


 平成23年2月7日再訪問

谷 干城 (たに たてき)

天保8年(1837)土佐藩士の家に生まれ、戊辰戦争に参戦して功績があった。
明治5年(1872)陸軍少将となり、6年から暫く熊本鎮台司令長官となり、神風連の変後、再び熊本鎮台司令長官となり、西南戦争に際しては籠城策をとり、52日間にわたる薩軍の猛攻に耐えて勇名を馳せた。
のち貴族院議員となり、同44年(1911)に没した。
この銅像は、昭和12年(1937)に西南戦争60年を記念して建設されたが、第二次世界大戦中に金属供出され、昭和44年(1969)に明治百年を記念して再建された。
朝倉文夫の作品である。

熊本市

(説明板より)





谷干城像
(熊本県熊本市・高橋公園)





(平成23年2月7日再訪問)



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