谷 豊 たに・ゆたか

明治44年(1911年)11月6日~昭和17年(1942年)3月17日






 谷豊の顕彰碑
 (シンガポール・シンガポール日本人墓地公園)


 (旅日記参照)



(平成26年6月11日)

【説明文】

マレーのハリマオ 谷豊(たに ゆたか)
1911(明治44)年11月6日ー1942(昭和17)年3月17日

福岡県に生まれる。
幼年期に両親とともに英領マレーのクアラ・トレンガヌに移住。
豊が兵隊検査のために福岡に帰国中であった1933(昭和8)、満州事変勃発に怒った華僑暴徒による異母妹静子虐殺事件が発生した。
翌年にこれを知った豊は復讐を誓いトレンガヌに戻る。
生来血気盛んな豊は、次第にハリマオ(虎)という名で知られるようになり盗賊団の頭目となる。
一説では3000人の部下がいたという。
マレー人になりきるため、後にイスラム教に入信する。

1941(昭和16)年、南部タイのハジャイで英軍に拘束されるが、日本軍特務工作員・神本利男の助けで出獄。
同氏の説得により英軍の後方撹乱実行に同意し、日本軍藤原機関の一員となる。
マレー人、タイ人部下を率いて開戦直前の諜報・物資調達に従事。
開戦直後は、英軍による橋梁爆破を阻止するなどの日本軍進路確保、マレー人の日本軍への協力や英軍に同行するマレー義勇軍の中立化などに力を注ぐ。
その間持病のマラリアを悪化させ、1942(昭和17)年3月、陥落直後のシンガポール、タントクセン病院で死去した。

葬儀はイスラム教の教義にのっとり、病院のあるノベナ近くのパジラン・モスクでマレー人によって行われ、その後、当時その近辺にあったイスラム墓地に埋葬されたといわれるが、この墓地は現存せず、正確な墓の位置もわかっていない。
死後、その短い一生を描いた小説・映画などが多数作られ、現在のハリマオ伝説を生むこととなった。

ハリマオ・谷豊は死後「陸軍通譯」として判任官待遇を受けている。
生前の1942(昭和17)年2月1日に遡っての任官であった。

(顕彰碑銘板より)

 シンガポール日本人墓地公園「メモリアル・プラザ」




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