田能村竹田像 (平成18年3月21日)

田能村竹田 たのむら・ちくでん

安永6年6月10日(1777年7月14日)〜天保6年8月29日(1835年10月20日)

広島県尾道市・千光寺公園下でお会いしました。


豊後国岡藩・藩医の家に生まれる。
藩校由学館で学び、同館の儒員から頭取にまで進んだ。
この間、『豊後国志』の編纂に従事したり、地元の画家に画を学び、谷文晁の通信教授も受けた。
文化8年(1811年)、文化9年(1812年)に藩内で起きた農民一揆に際しては、改革を要望する建言書を二度提出するが用いられず、翌年辞表を提出。
以後は、郷里と京阪の間を往来しながら、頼山陽ら文人との交流を持ち、詩画に専心する生活に入る。
繊細で清雅な作品『亦復一楽またまたいちらく帖』『船窓小戯冊』や、『山中人饒舌』『竹田荘師友画録』などの著作がある。


田能村竹田像



田能村竹田之像

1992年矢形勇・作

(広島県尾道市・千光寺公園下)


(平成18年3月21日)

三木半左衛門と千光寺公園

千光寺公園は、市民のための憩いの場として、1894年(明治27年)から四国の阿波国生れの三木半左衛門翁により「共楽園」という名称で開発されたのが始まりです。
その後、土地が千光寺から尾道市に寄付され、開発も尾道市が引き継ぎ、1905年(明治38年)に完成しました。
以来今日までの間、施設の充実が図られ、名称も「千光寺公園」と改められ、尾道の観光のシンボルとなっております。
三木半左衛門は千光寺公園発祥の祖であり、その功績により1968年(昭和43年)尾道市の名誉市民となりました。

(説明板より)


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