(別名:尾曳城)
群馬県館林市城町
平成16年9月12日
館林市指定史跡
館林城跡
指定:昭和48年4月1日
所在:館林市城町甲23−1他
時代:戦国時代〜江戸時代
館林城は、「城沼じょうぬま」を自然の要害ようがいとした平城で、別名を「尾曳城おびきじょう」という。
その形態は、城沼を城の東側の外堀とし、この沼に突出する低台地を区切って、城の中心である本丸、二の丸、三の丸、八幡郭はちまんぐるわ、南郭みなみぐるわを置き、これを取り囲むように、稲荷郭いなりぐるわ、外郭そとぐるわ、惣曲輪そうくるわを構え、さらにその西方の台地に「城下町」を配置し、そのすべてを土塁と堀によって囲んでいた。
築城時期や築城者については、江戸時代になって書かれたもののなかに、「赤井照光」によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」と相まって広く知られているが、実際には、築城時期や築城者を明確にした築城当時の記録は現在まで発見されていない。
現在確認されている「館林城」について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471)に上杉軍が「赤井文六・文三」の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
その後、越後の上杉氏や甲斐の武田氏、小田原の北条氏による三つどもえの攻防のなかで、「長尾氏」「北条氏」などが館林城を支配するようになった。
天正18年(1590)の徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となり江戸時代を迎えると、「館林」は、利根川を押さえることができる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が5代将軍になってからは、将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置づけられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
城の建物の大半は明治7年(1874)に焼失したが、現在でも本丸、三の丸、稲荷郭、城下町などの土塁の一部が残されており、三の丸には土橋門が復元されている。
土橋門は、城の中心(三の丸)への出入口の一つで、在城当時は、正門の「千貫門」に対し、通用門として使用されたものである。
この土橋門は、昭和57年に発掘調査の結果をもとに復元したもので、事前の発掘調査により3基の門の基礎と2基の井戸が発見されている。
また、門とあわせて周辺に残る土塁は、三の丸の周りを囲う土塁で、江戸時代からのものである。
特に門からカギの手状に延びる土塁は「蔀土居しとみどい」と呼ばれ、開門時に郭内を見通すことができないよう工夫されたもので、県内に残る唯一の遺構で貴重なものである。
館林教育委員会
(説明板より)
館林城の歴代城主一覧(江戸時代以降)
家名 | 藩主名 | 在任期間 | 石高 | 解説 |
榊原 | 康政やすまさ | 天正18(1590)〜慶長11(1606) | 10万石 | 13歳で徳川家康の家臣となる。 ”徳川四天王”の一人 |
康勝やすかつ | 慶長11(1606)〜元和元(1615) | 10万石 | 康政の子。 大阪夏の陣の帰途病没。 |
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忠次ただつぐ | 元和元(1615)〜寛永20(1643) | 11万石 | 康政の長子・忠政の子。 3万石加増で陸奥国白河 (現:福島県白河市)へ転封。 |
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(番城) | ||||
松平(大給) | 乗寿のりなが | 正保元(1644)〜承応3(1654) | 6万石 | 遠江浜松(現:静岡県浜松市) から転封。 4代将軍家綱の時に老中就任。 |
乗久のりひさ | 承応3(1654)〜寛文元(1661) | 5.5万石 | 乗寿の長子。 五千石を弟へ分領。 下総佐倉(現:千葉県佐倉市) へ転封。 |
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徳川 | 綱吉つなよし | 寛文元(1661)〜延宝8(1680) | 25万石 | 3代将軍家光の第4子。 城の大修築を行う。 5代将軍に就任。 |
徳松とくまつ | 延宝8(1680)〜元和3(1683) | 25万石 | 綱吉の子。 2歳で館林城を継ぐが5歳で没。 廃城となる。 |
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(廃城・代官支配) | ||||
松平(越智) | 清武きよたけ | 宝永4(1707)〜享保9(1724) | 5.4万石 | 徳川綱重の第2子。 6代将軍家宣の実弟。 5代将軍綱吉の甥。 |
武雅たけまさ | 享保9(1724)〜享保13(1728) | 5.4万石 | 尾張徳川家の庶流・高須藩主 松平義行の二男。 清武の養子。4年で没する。 享年27歳。 養子・武元が継ぐと同時に陸奥 国棚倉(現:福島県棚倉町) へ転封。 |
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太田 | 資晴すけはる | 享保13(1728)〜享保19(1734) | 5万石 | 陸奥国棚倉から転封。 大坂城代に転じ、城番を置く。 |
(番城) | ||||
太田 | 資俊すけとし | 天文5(1740)〜延享3(1746) | 5万石 | 資晴の子。 城郭の一部を修築する。 遠江国掛川(現:静岡県掛川市) へ転封。 |
松平(越智) | 武元たけちか | 延享3(1746)〜安永8(1779) | 6.1万石 | 水戸徳川家の庶流・石岡藩主 松平頼明の三男。 武雅の養子。 棚倉から帰封。 延享4年から没するまで老中とし て吉宗・家重の2代に仕える。 享年67歳。 |
武寛たけひろ | 安永8(1779)〜天明4(1784) | 6.1万石 | 武元の嫡子。 享年31歳。 |
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斉厚なりあつ | 天明4(1784)〜天保7(1836) | 6.1万石 | 武寛の嫡子。 2歳で家督相続。 石見国浜田(現:島根県浜田) へ転封。 |
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井上 | 正春まさはる | 天保7(1836)〜弘化2(1845) | 6万石 | 棚倉より転封。 天保9年より大坂城代を兼任。 老中になるが、病気のため辞職。 浜松へ転封。 |
秋元 | 志朝ゆきとも | 弘化2(1845)〜元治元(1864) | 6万石 | 出羽国山形(現:山形県山形市) から転封。 安政2年・藩政改革。 |
礼朝ひろとも | 元治元(1864)〜明治2(1869) | 6万石 | 志朝の養子。 戊辰戦争では官軍に属し、会津・ 仙台方面を攻撃。 明治2年・藩知事に就任。 明治4年・廃藩。 |
石高はその藩主の時の最高石高で示した。
土橋門(復元) 三の丸跡に建っています。 |
千貫門跡 (市役所駐車場の角) |
『館林城千貫門跡』の碑 (市役所駐車場の角) (平成16年9月12日) |
碑文
千貫門は館林城の牙城部 三の丸の北面中央に位置し 城の正門である大手門と同様 城内にある重要な門の一つであった
その形態は渡櫓門で 三の丸北面部の土橋門(通用門)に対して武士の正門とされていた
千貫門の内側には 城内を敵に見透かされぬように築かれた鉤の手状の蔀土居が絵図等により確認されている
また その名は三の丸と外郭を結ぶ千貫橋から由来するといわれるが 当時の面影は失われ 現在は隣接する土橋門周辺の土塁等にその姿をとどめるにすぎない
碑面のレリーフは 館林を代表する芸術家藤牧義夫(1911〜1935?)の作品『三岳画集』に所収されているものであり 尾曳稲荷神社に奉納されている館林城絵馬を参考に描いたものともいわれる
此所に碑を建設し 城下町館林を後世に伝えるとともに 文化の発展に寄与するものである
昭和59年3月31日
館林教育委員会
碑面のレリーフ
八幡宮 (田山花袋記念文学館脇) 本丸跡に建っています。 (平成16年9月12日) |
館林市指定史跡
館林城本丸土塁及び八幡宮
指定年月日:昭和62年8月7日
所在:館林市城町1番地の3他
時代:江戸時代
ここは「館林城」の本丸があった場所です。
八幡宮
「八幡神はちまんしん」は源氏の氏神で、広く武家の間で信仰され、各地に「八幡宮はちまんぐう」として勧進かんじんされています。
この八幡宮は、江戸時代には、武家の守り神として、また、城の守護神として館林城の「八幡郭はちまんぐるわ」に奉られ、歴代城主の厚い崇拝を受けてきたものです。
明治になって、廃藩とともに尾曳おびき稲荷神社に合祀されましたが、明治の終わり頃に城跡に進出してきた、「上毛モスリン株式会社」によって現在の地に移され、再び八幡宮として奉斎ほうさいされました。
館林市教育委員会
(説明板より)
本丸南側土塁 (向井千秋記念子ども科学館脇) (平成16年9月12日) |
館林城本丸土塁
館林城は、館林・邑楽地方の代表的地形である低台地と低湿地をたくみに利用して造られた平城で、別名を尾曳城という。
館林城の中心は、現在の文化会館敷地の三の丸から東に現市役所敷地の二の丸、その東に本丸、南に南郭みなみぐるわ、本丸の東へ八幡郭と並び、城沼に突出した舌状台地を堀と土塁で区画して作られていた。
ここは本丸にあたり、この土塁は、本丸の南側土塁の一部である。
各郭の大きさや、施設などは、城主の入れ替えなどにより変化はあるが、「館林城地目録」という資料によれば、延享年間(江戸時代の中頃)の本丸は、南西約75間(約135メートル)南北約25間(約45メートル)の長方形の郭で、周囲を長さ約224間(約403メートル)、高さ約2間(約3.6メートル)の土塁が囲んでおり、その上に瓦を載せた塀が走り、北東隅には天守閣にあたる二重の櫓があったと伝えられている。
(説明板より)
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