田山花袋像 平成16年9月12日

田山花袋 たやま・かたい

明治4年12月13日(1872年1月22日)〜昭和5年(1930年)5月13日

群馬県館林市・館林市第二資料館内の田山花袋旧居前でお会いしました。


本名は録弥。
感傷的な恋愛小説や詩・紀行文を書いていましたが、「露骨なる描写」などで自然主義を主張しました。
女弟子に対する愛欲を暴露した「蒲団ふとん」により自然主義文学運動の先頭に立ちました。
以後「生」「妻」「縁」の自伝小説のほか「一兵卒」「田舎教師」などを発表。
技法論として平面描写を唱えました。
晩年は時代に取り残され、「時は過ぎゆく」「百夜ももよ」などには宗教的な諦念が色濃く認められます。


文豪田山花袋像 文豪田山花袋像
(田山花袋旧居前)
田山花袋旧居 田山花袋旧居

館林市指定文化財
田山花袋旧居

市指定:昭和46年5月1日
館林市城町2番3号 館林市第二資料館

木造平屋建、茅葺かやぶき屋根のこの建物は、自然主義文学作家の田山花袋(1871〜1930)から明治19年(1886)までおよそ8年間住んだ家です。
面積は22.5坪(74.25u)あり、玄関の土間に続いて3畳、左手に8畳が二間、裏に4畳半の板の間と土間、東側に4畳と、合わせて5つの部屋からなり、特に玄関東の4畳の部屋は田山花袋が勉強した部屋と伝えられ、花袋の小説『ふる郷さと』(明治32年刊)には「なつかしきこの家」と描かれています。
また、この建物は、江戸時代末期の秋元藩時代は武家屋敷のひとつで、当時の絵図によると、館林城内である総郭そうぐるわ(侍屋敷)の中の「裏宿うらじゅく六番町」(現館林市城町678番地の2)に建てられていました。
館林市の文化財第1号として史跡に指定され、昭和56年度に保存と活用を目的に館林市第二資料館に解体移築されました。
現在、旧居跡地は史跡公園として保存され、記念碑が建てられています。
また、平成10年度には保存修理工事として茅葺屋根の葺き替えが行われました。

(説明板より)

旧居内部 旧居内部

田山花袋略歴(田山花袋記念館図録より抜粋)

年号 西暦 年齢 主な事項 文学史の流れ
明治4年 1871 田山ワ十郎・てつの次男として生まれる。
7年 1874 2歳 父・ワ十郎、上京し警視庁邏卒(のちの巡査)となる。
10年 1877 5歳 父・ワ十郎、西南戦争にて戦死。
館林東学校に入学。
14年 1881 9歳 足利や東京へ丁稚奉公にでる。
15年 1882 10歳 館林東学校に復学。
16年 1883 11歳 この頃から旧館林藩儒者・吉田陋軒に漢学を学びはじめる。
18年 1885 13歳 この頃から文芸雑誌「頴才新誌」に投稿、漢詩が掲載される。 坪内逍遥
『小説真髄』
19年 1886 14歳 小林一意らと漢詩集『城沼四時雑詠』を編む
速成学館に学ぶ。
この頃より、野島金八郎に英語を学びはじめる。
21年 1888 16歳 日本英学館(のちの明治会学館)に入学。
22年 1889 17歳 この頃、松浦辰男に和歌を学びはじめる。
23年 1890 18歳 この頃、太田玉茗、柳田国男に出会う。 森鴎外『舞姫』
24年 1891 19歳 尾崎紅葉を訪ね、江見水蔭から小説の指導を受ける。
『瓜畑』を発表。
この頃、高瀬文淵に出会う。
幸田露伴『五重塔』
25年 1892 20歳 『落花村』を”花袋”の号で発表。
26年 1893 21歳 トルストイ著『コサック兵』の翻訳を発表。
27年 1894 22歳 「文学界」に北村透谷追悼の和歌を投稿。 北村透谷没
28年 1895 23歳 中央新聞社に入社(3ヶ月後退社) 樋口一葉
『たけくらべ』
29年 1896 24歳 この頃、島崎藤村、国木田独歩に出会う。 樋口一葉没
30年 1897 25歳 国木田独歩、柳田国男、太田玉茗らとともに『抒情詩』を発表。 島崎藤村『若菜集』
尾崎紅葉
『金色夜叉』
32年 1899 27歳 太田玉茗の妹・里さと結婚。
博文館編集局に入社。
『日光』『ふるさと』を発表。
33年 1900 28歳 長女・礼生まれる。
34年 1901 29歳 『憶梅記』『野の花』を発表。 国木田独歩
『武蔵野』
35年 1902 30歳 長男・先蔵生まれる。
『重右衛門の最後』を発表。
36年 1903 31歳 岡田美知代が入門する。
『大日本地誌』の編纂に加わる。
尾崎紅葉没
37年 1904 32歳 次男・瑞穂生まれる。
日露戦争に第2軍私設写真班の一員として従軍。
『露骨なる描写』を発表。
38年 1905 33歳 『第二軍従征日記』を発表。 夏目漱石
『吾輩は猫である』
39年 1906 34歳 「文章世界」を主宰し、博文館より創刊。
東京・代々木に移り住む。
島崎藤村『破戒』
40年 1907 35歳 『蒲団』を発表。
41年 1908 36歳 次女・千代子生まれる。
『一兵卒』『生』を発表。
国木田独歩没
42年 1909 37歳 三女・整子生まれる。
『妻』『田舎教師』『インキ壺』を発表。
43年 1910 38歳 『縁』を発表。 二葉亭四迷
45年 1912 40歳 博文館を退社。
大正2年 1913 41歳 島崎藤村の渡仏を見送る。 森鴎外『阿部一族』
3年 1914 42歳 『日本一周』を発表。
5年 1916 44歳 『時は過ぎゆく』を発表。 芥川龍之介『鼻』
夏目漱石没
6年 1917 45歳 『一兵卒の銃殺』『東京の三十年』を発表。 菊池寛『父帰る』
志賀直哉
『城崎にて』
8年 1919 47歳 『再び草の野に』『河ぞひの春』を発表。
12年 1923 51歳 中国、朝鮮を旅行。
『花袋全集』の刊行を開始。
『近代の小説』を発表。
森鴎外没
13年 1924 52歳 『源義朝』を発表。
15年 1926 54歳 『通盛の妻』を発表。
昭和2年 1927 55歳 『百夜』を発表。 川端康成
『伊豆の踊子』
芥川龍之介没
4年 1929 57歳 喉頭癌を病む。 島崎藤村
『夜明け前』
5年 1930 58歳 5月13日没す。東京・多磨墓地に葬られる。

(年齢は明治5年の暦法改正を考慮し、満年齢に換算)


田山花袋記念文学館


田山花袋記念文学館
(群馬県館林市城町1−3)

田山花袋旧居(館林市第二資料館)のすぐ近くにあります。



(平成16年9月12日)

開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:月曜日(休日を除く)、休日の翌日(土・日・休日を除く)、年末年始
入館料:一般200円(小・中学生は無料)
※毎月第一日曜日(家庭の日)、5月13日(花袋忌)、10月28日(群馬県民の日)は無料。

田山花袋記念館
館林市教育委員会文化振興課発行 平成10年(第2版)
田山花袋没後70年記念特別展「時は過ぎゆく」をめぐって〜明治維新と田山家の50年〜
館林市教育委員会文化振興課発行 平成12年
(目次)
「時は過ぎゆく」あらすじ
「時は過ぎゆく」に描かれた人々
田山家と館林藩
戊辰戦争と明治維新
廃藩と士族の没落
寒香園の開墾
岡谷繁実と実弥登
近代化の波
花袋にとっての「時は過ぎゆく」
「時は過ぎゆく」関連地図
花袋の「時は過ぎゆく」のこと 田山瑞穂
「時は過ぎゆく」関連年譜
展示資料一覧
参考文献
協力者・協力機関







 文学碑 
 (山形県酒田市・日和山ひよりやま公園)





(平成26年11月23日)

【碑文】 

飛島の風情に富めるは われこれを耳にすること久し (中略)
我は車上遥かに其島の狭長なる翠色を望みつつ
頻りにさまざまなる空想に耽りぬ (中略)
われは車夫よりこの島の趣味ある物語を聞きつつ
海上十数里を隔てたらんと覚しきその小さき島を幾度となく
打見やりぬ (中略)
酒田にやどりし夜は月明かにして積水千里 転た旅情の寂寞た
るに堪へず 則ち歩して日和山に登り 遥かに過ぎ来し方を顧
るに 金波閃々として山影微茫 宛然夢中の景に似たり
     田山花袋「羽後の海岸」より

田山花袋 

群馬県館林に生まれ、明治文学に大きな足跡を残した自然主義作家。
明治36年(1903)の夏、秋田から人力車に乗って羽後の海岸を南下し、酒田に一泊、翌日最上川沿いにさかのぼって行った。
「羽後の海岸」はその時の紀行文である。

(説明板より)


昭和3年、脳出血で倒れ、その後、喉頭癌と診断され、見舞いに来た友人の島崎藤村に「この世を辞していくとなると、どんな気持ちがするものかね?」と尋ねられた時、「何しろ、誰も知らない暗い所へ行くのだから、なかなか単純な気持ちのものじゃない」と答えたという。

(平成17年10月19日追記)


田山花袋



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