艦上攻撃機・天山


【艦上攻撃機「天山てんざん」】

九七式艦上攻撃機の後継として、昭和14年(1939)、海軍は中島飛行機に対し、十四試艦上攻撃機の試作を命じた。
海軍側は発動機として既に実績があった三菱製の「火星」を推していたが、中島側は自社で開発した「護」を整備、改修が容易に行えるからと推し、最終的に中島側の意見が通り、発動機は「護」となった。
しかし、実用化実験の段階から問題が頻発し、発動機「護」搭載の「11型」は130機の生産で中止となり、「火星25型」発動機に換装した「12型」が生産の主力となった。
本機は太平洋戦争中盤以降に本格的に登場したため、熟練した搭乗員の減少、日本機動部隊の壊滅的な状況により、その真価を発揮することができず、特攻機として多く使用された。

(「天山」11型)
採用時期:昭和18年(1943)8月
製造:中島飛行機
搭乗員:2名
発動機:護11型(空冷星型14気筒・1800hp)
最大速度:465キロ/時・高度4800m
上昇時間:高度5000mまで11分1秒
上限高度:8650m
飛行距離:1460km
武装:7.7mm機銃×1、7.7mm旋回機銃×1、魚雷800kg×1または爆弾800kg×1または500kg×1または250kg×2または60kg×6

(「天山」12型)
発動機:火星25型(空冷複列星型14気筒・1850hp)
最高速度:481キロ/時・高度4900m
上昇時間:高度6000mまで13分33秒
上限高度:9040m
飛行距離:1730km
武装:13mm旋回機銃×1、7.9mm旋回機銃×1、魚雷800kg×1または爆弾800kg×1または500kg×1または250kg×2または60kg×6

生産機数:1260機(11型・12型合計)

(参考:『歴史読本』 2012年8月号)

(平成29年4月6日 追記)


天山のプロペラ



天山のプロペラ
(鹿児島県鹿屋市・海上自衛隊鹿屋航空基地史料館)





(平成19年3月29日)

天山艦上攻撃機のプロペラ

昭和55年2月荒平菅原小学校角西約5粁沖鹿児島湾で漁船操業中底引網にかかった天山艦上攻撃機のプロペラである
提供者 鹿児島県鹿児島市高須町 山下 清

(説明板より)

海上自衛隊鹿屋航空基地史料館



海上自衛隊鹿屋航空基地史料館
(鹿児島県鹿屋市)





(平成19年3月29日)

天山のプロペラ



天山のプロペラ
(愛媛県宇和郡愛南町・南レク紫電改展示館)





(平成19年11月6日)

旧海軍艦上攻撃機「天山(12型)」

このプロペラは、昭和53年2月西宇和郡三崎町二名津沖で発見され、引き揚げられたものである。
「天山(12型)」は、太平洋戦争後半の旧海軍主力艦上攻撃機であった。
総生産機数は、1268機で、太平洋戦争中期のブーゲンビル島海戦やマリアナ沖海戦から実戦に参加した。

【要目】
乗員 3名
全長 10・78メートル
全幅 14.9メートル
全高 3.8メートル
装備重量 5.2トン
エンジン 三菱「火星」25型1850馬力
時速 492キロメートル
航続距離 1750キロメートル
武装 13ミリ機銃 1
    7.7ミリ機銃 1
    800キログラム魚雷 1 (または60キログラム爆弾 6)

(説明板より)

紫電改展示館




紫電改展示館

(愛媛県南宇和郡愛南町御荘平城・南レク内)




(平成19年11月6日)

【中島艦上攻撃機 天山】 

中島艦上攻撃機「天山」は松村健一技師の設計。
「天山」の特徴は、大直径で頭の大きい胴体に、前のめりの方向舵をつけたところにある。
これは全長が空母のエレベーターによって制限されるから、極度まで全長を利用しようとする意欲の表現で、方向舵のヒンジ線は機体が静止したとき甲板に直角である。
重い機体を空母に着艦させるため、陸軍戦闘機で成功した中島独特のチョウ形(チョウの羽根に似ている)ファウラーフラップ(滑って下がる)を海軍機として初めて使った。
武装として後上方の旋回機銃のほかに、後下方に引き込み式の銃座を設け、魚雷を投下した後に相手艦に向かって突撃し、ゆきがけの駄賃に敵艦上を掃射しようという殴り込みスタイルの表現だった。

昭和14年(1939年)に仕様書が出され、原型初飛行は昭和16年(1941年)3月14日である。
社内試験に時間がかかり、海軍の領収公式飛行は7月19日になった。
それから1年以上かかって性能試験が進み、さらに昭和17年から昭和18年(1943年)にかけての艦上試験でまた時間をとられた。
実用試験では、低空高速飛行中に魚雷を投下すると、海面で跳ねて、同時に魚雷が左右に首を振ってしまい命中精度が低下した。
これを防止するため、魚雷を2度だけ下に向け、かつ魚雷に特別な尾部安定板を装置して解決した。

生産第1号機完成は昭和18年(1943年)2月。
初出撃は昭和18年11月、ブーゲンビル島沖海戦となった。
「天山」は試作機2機を含んで合計1268機が生産されて日本空母の主力艦上攻撃機となった。
しかし、昭和17年から18年にかけての海空戦に参加できなかったことは大きい。
「天山」の実戦参加を遅らせたものは、試験飛行と実用試験の遅れで、このような舞台で裏方となって働く技術者とその組織の不備が原因であった。

(参考:佐貫亦男 著 『飛べヒコーキ』 光人社NF文庫 2000年3月発行)

(平成27年7月30日 追記)


【事故】 

重量の大きな「天山」艦攻(艦上攻撃機)は、空母への配備初期には、従来の九七式艦攻を基準にした強度の着艦制動索を、度々切断する事故を起こしている。
搭乗員はこのような機体で、充分な訓練の機会を与えられないまま、決戦場へ向かわされることになったのである。

(参考:戸高一成 著 『海戦からみた太平洋戦争』 角川書店 2011年11月初版発行)

(平成29年7月29日 追記)


【ブースター・ロケット】 

新型艦上機の設計に並行して、軽空母の短い飛行甲板からの発艦対策が昭和17年にはじまり、約1年で発艦促進のブースター・ロケットが完成した。
「天山」「彗星」などの新型機の主翼下面両胴体に1本づつのブースター・ロケットを装備し、発進と同時にロケットに着火し発進後にこれを投棄した。
「大鷹」などでは合成風速12メートルでも、飛行甲板が短いため3機しか「天山」を甲板上に準備できなかったものが、ブースター・ロケットの併用により発進距離が70%に短縮されたので、空いた甲板を利用し追加9機、合計12機の「天山」を同時発艦用に準備できるようになった。
しかし、艦上機用射出機(カタパルト)の開発に代わる日本海軍の知恵だったが、実用のチャンスはなかった。

(参考:遠藤昭 著 『空母機動部隊』 朝日ソノラマ 1994年8月第4刷発行)

(平成29年7月27日 追記)


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