寺内寿一 てらうち・ひさいち

明治12年(1879年)8月8日〜昭和21年(1946年)6月12日


山口県出身。
寺内正毅元帥の長男。
近衛歩兵第3連隊長、朝鮮軍参謀長を経て第4師団長を務める。
2・26事件後、広田内閣の陸相(陸軍大臣)に就任して粛清人事を行なう。
1937年(昭和12年)、”腹切り問答”で政党と衝突し、内閣総辞職の原因を作る。
日中戦争時は北支那方面軍司令官に任ずる。
太平洋戦争では南方軍総司令官。
敗戦後、シンガポールで抑留中に病死する。






 南方軍総司令官寺内元帥之墓 
 (シンガポール・シンガポール日本人墓地公園)

 (旅日記参照)


(平成26年6月11日)

【説明板】 

南方軍総司令官寺内元帥之墓
1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没

山口県出身。明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。台湾軍司令官、軍事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年には南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にたおれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。
その為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀その他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送られ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章が納められている。

(説明板より)

 シンガポール日本人墓地公園


【ニ・二六事件と寺内粛軍】

2・26事件の当時、現役の陸軍大将は10名いた。
このたびの叛乱の責任を取って全員辞職すべきであると、阿部信行(陸士9期)が発言したが、異論があり、陸士10期以下の3名は現役に留まることになった。
西義一(陸士10期)、植田謙吉(陸士10期)、寺内寿一(陸士11期)の3人である。
このうち寺内が一番好運をつかんだ。

寺内は元帥で内閣総理大臣にもなった長州人・寺内正毅の長男で、禿頭童顔のため好人物の印象を人に与えた。
実際、坊ちゃんらしい一面もあった。
原田熊雄述『西園寺公と政局』を見ると、寺内は毛並みの良さに加えて元老・重臣に受けがよく、前年の天皇機関説問題で政局が紛糾し、川島陸相の進退が云々された時、後任に「やはり寺内が一番強い」と杉山参謀次長が言っている。
この書物で見る限り、寺内はしばしば西園寺の坐漁荘へ報告に行っている。
社交にたけた一面が伺える。

こうして、全軍の輿望を荷って寺内は広田弘毅内閣の陸相になった。
広田内閣誕生の際は、陸軍がさんざん横槍を入れ、さすがの硬骨漢の広田も一時、組閣を断念するか、とまで危ぶまれたほどであった。
その陸軍横暴の先頭に立ったのが寺内であり、その寺内を自在に操ったのは省部の中堅幕僚であり、その中堅幕僚の中心的存在は陸軍省軍務局の高級課員・陸軍中佐武藤章(陸士25期)であったことはもはや通説になっている。

2・26事件の蹶起将校たちは、一君万民の理想国家を目指してクーデターを敢行した。
彼らの叫びは尊皇討奸、天皇絶対であり、天皇への叛逆などは夢にも考えていない。
しかし、天皇の激怒のさまは、奉勅命令と共に伝わり、去就の定かでなかった中央幕僚たちの態度を一変させた。
蹶起将校たちは叛徒となり、短時日の形式的な裁判を経て死刑になった。
昭和11年3月からはじまる陸軍の不当な政治介入は、天皇の御立腹の結果として起こった。
天皇の御意志は、いわゆる統制派の幕僚たちに勇気を与えた。

陰湿な謀略の上に、寺内陸相の粛軍人事が遂行された。
いかに国家にとって、須用欠くべからざる人材であっても、2・26事件の同調者、あるいは皇道派と目された人々は、すべて左遷、粛正の対象となった。
台湾軍司令官・陸軍中将柳川平助、陸軍大学校校長・陸軍少将小畑敏四郎は、その尤なるものであった。
内務省警保局が、各県の特高警察を通じて国内の情報を集めた極秘資料が『週報』と名付けられて国立国会図書館に保管されている。
その中に、7月7日頃、刑死を目前にした安田優、高橋太郎、2人の元少尉が、家族に語った聞き書きが報告されている。
「陸軍切ってのロシア通小畑の待命は、軍として大なる損失である。反面ロシアは喜んでいるだろう」(『週報』昭和11年17号)
9年後の昭和20年2月、ヤルタ協定によってソ連は対日参戦を決定する。
アッという間に全満洲を席巻し、北鮮に侵入、日本降伏後も遮二無二千島列島を占領、あげくの果ては北海道をも要求して、マッカーサーに断られている。
小畑はこうしたソ連の強引な侵略的な体質をよく知っていたのだ。
陸軍から寺内粛軍によって小畑敏四郎を失ったことは全国民の不幸であった。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【二・二六事件裁判(日本のドレフュース事件】

この裁判が、軍司法権の独立を抑圧した徹頭徹尾、軍法会議長官である、陸軍大臣の指揮権発動にもとづく政治裁判であったことはあきらかである。
各法廷の審理が進められ、そろそろ判決を下そうというころ、突然、寺内陸相から各裁判長に対し集合命令が下った。
各裁判長が指定された陸相官邸に集合すると、まず寺内陸相は各裁判長に対し審理の進行状況と各被告に対する処断の見解を質問する。

民間人を受け持っていた吉田裁判長(吉田恵・少将)が『北一輝と西田税は、2・26事件に直接の責任はない』という見解のもとに、不起訴、ないしは執行猶予の軽い禁錮刑を言い渡すべきことを主張した。
ところが寺内陸相は、『両人は極刑に処すべきである。両人は、証拠の有無にかかわらず黒幕である』と、極刑の判決を示唆した。
良心的な吉田裁判長は梅津陸軍次官ならびに阿南兵務局長に上申書をもって、同趣旨のことを意見具申している。

また、昭和29年2月7日号の『週刊読売』の追跡調査によると、匂坂家にある2・26調書によれば、軍首脳部では初めから事件に参加した将校は全員死刑の方針だったようで、予め死刑と刷り込んだ判決予定書を法廷関係者に配布した。
その押し付けられた判決予定に良心的な裁判官は苦慮した。
匂坂検察官も苦慮しながらも、結局、良心に恥じながら死刑の判決に同意した。

2・26事件の後、真崎甚三郎大将を投獄した統制派軍人の真崎弾圧は、単に真崎の社会的生命を葬るというだけのものにとどまらず、その肉体的生命までも奪ってしまうという凄まじいものであった。
これは2・26事件後に広田内閣の陸軍大臣になった寺内の強硬なる意図であった。
寺内が真崎を銃殺するんだと言っていたことは単なる憶測や風説ではない。
真崎の実弟、真崎勝次海軍少将の著書によれば「終戦の時の陸軍大臣であった阿南大将が語ったところによると、寺内大将は2・26事件のとき参内して、天皇陛下に、この事件の黒幕は真崎大将であると上奏してあるため、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目におち入ったのである」と言ったという。

また、真崎と特別の関係にあって私淑している山口富永の著書によれば「磯村年大将は真崎大将より先輩である。寺内大将より更に先輩の筈であるが、この磯村大将を真崎裁判の判士長にするとき、寺内は『何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ』と言ったというが、磯村大将は『そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長を、自分は引き受けられん』と強く断ったということである。

(参考:田崎末松 著 『評伝 真崎甚三郎』 芙蓉書房 昭和52年12月 第1刷発行)

(平成30年12月28日 追記)


陸軍大臣 寺内寿一の「衛生省」設置の提唱

寺内寿一が陸軍大臣時代、兵力の根源である壮丁(兵士)の体格は年々低下し、また結核死亡率は年々増加の傾向にあった。
満洲事変で、陸軍2個師団(約2万名)の兵隊を満洲に送ったところ、1個大隊に相当する約500名が結核を発病して帰還してしまった。
これらの現象は、英米による経済圧迫、浜口内閣の金輸出解禁の失敗、アメリカの恐慌の余波による生糸の暴落などによって、都市、農村ともに失業者が増加し、日常生活にもこと欠く家庭が続出したことによるものである。
よって、昭和11年7月の閣議に陸軍大臣寺内寿一は保健国策樹立の必要性を提唱し、健兵健民政策の必要上、強力な衛生行政を行なう主務官庁として「衛生省」を作ることを提唱した。
しかし、この案は内務省をはじめ各省が、機構の不備な点を突いて反対したので撤回された。
翌年6月、第一次近衛内閣が成立すると、「保健社会省」と名前が変わって提出され、日中戦争の開始がこれに拍車をかけて、昭和13年1月、「厚生省」という名称の下に、日の目を見るに至った。

参考文献:関亮著「軍医サンよもやま物語」

(平成17年7月23日追記)


【幕僚ファショ】

昭和13年秋、私は上海、北支方面の情況視察の旅に出た。
私は軍司令部に寺内元帥を訪問した。
いつもの通り極めてほがらかであり、童顔を輝かしていた。
参謀長は山下中将であり、参謀副長が武藤(章)大佐であった。
山下と武藤のコンビ、これは彼らの立場においては名コンビであり、我らの立場においては悪コンビであった。
それは、両人共に鼻っ柱が人並外れて強く、いわゆる積極論者であり、全然幕僚型ではないのである。
幕僚型とは必ずしも御殿女中であるべきではないが、主人を尻に敷くのでは困るのである。
それを幕僚ファショとも言う。
寺内将軍は「政子」と「淀君」とを同時に持ったのであり、彼が堂々たるロボットとなり終ったことは当然であり、中央部人事の不明を物語るものである。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)

(令和元年12月14日 追記)


【フィリピンの寺内】

昭和19年の夏に入り、いよいよ戦局は不利になり、ルソン島にも危険が迫ったことは誰の目にも明らかとなったある日、私たちの部隊の兵隊が、自動車で街を通行中の寺内総軍司令官に停止敬礼を怠ったかどで、重営倉にぶちこまれるという事件が起こった。
停止敬礼というのは、中隊長以上の直属上官、つまり、自分の所属する連隊長、師団長、軍司令官などに出会ったときは、事の如何を問わず、不動の姿勢をとって敬礼しなければならないのである。
寺内元帥は南方総軍の司令官であるから、この人に行き会ったら、ルソン島の全軍人は一人残らず立ち止まって敬礼しなければならないわけだ。
もちろん、その兵隊は、寺内元帥の自動車と知れば停止敬礼をしたであろうが、暑さ加減やその他でぼんやりしていたらしい。
総司令官を乗せた自動車が、彼をふんづかまえるために目の前で停車するまで気が付かなかった。
そこで彼は、寺内元帥から、直接激しい叱責を受けた。
部隊へは、厳重に処罰せよという命令がきた。
そこには、弛んだ軍紀を引き締めるという意図があったには違いない。
しかし、私は4年間の軍隊生活を通じて、故意にではなく敬礼し損ねたという理由だけで、重営倉にぶち込まれた兵隊を見たのは、後にも先にもこの時だけである。
南方海域に散らばる全日本軍を指揮する司令官が、不注意から自分に敬礼しなかった一兵卒を処罰することで、戦意昂揚を果たそうと考える頭脳の哀れさが身に染みた。

(江崎誠致 著 『ルソンの挽歌』 光人社NF文庫 1996年発行)

(令和元年10月29日 追記)


フィリピン戦線を離脱した許しがたい倫理観

南方総軍総司令官・寺内寿一(大将・昭和18年元帥)は、サイゴンに司令部をおき、旧フランス総督の大邸宅で優雅に生活し、フィリピン戦線が緊張するとマニラに移動した。
だが、彼は、あくまでも(マニラは)前線指揮所であるとしてサイゴンの総司令部をマニラに移そうとはしなかった。
そして、フィリピンに火がつきはじめるとすぐマニラの「前線指揮所」を去った。
行き先はもちろん、「東洋のパリ」といわれたサイゴンである。
依然、贅沢な公館での優雅な生活を続けていた。
その彼の指揮のもと、牟田口廉也は、数万の兵士を(インパールで)全滅させ、山下奉文は部下たちとともに空腹でフラフラしながらフィリピンの山中の複郭陣地でアメリカ軍と戦ったのである。

その寺内が、驚くなかれ、自分の愛人(お妾さん)の芸妓を、陸軍軍属として、輸送機で自分の総司令部の官舎に連れ込んでいたのだ。
もちろん、日本軍の上級幹部には、現地の敵性国人(たとえばオランダ)の女性を“現地妻”ないしは愛人として囲った人間はいただろう。
だが、本土から赤坂の美貌の芸妓を軍用機に搭乗させて呼びよせたという人間は、寺内以外にまずいなかったのではあるまいか?

彼はまた、現地人に対して温情的だった今村均大将を非難している。
また、250マイルのビルマ・ロードの開発(ふつうなら5ヶ年かかる)を18ヶ月で完成させることによって、連合軍の捕虜5万のうち3分の1を死亡させている。
おそらく終戦の年の9月、脳溢血で倒れなかったら、戦犯として絞首刑はまちがいなかっただろう。

(参考:佐治芳彦 著 『太平洋戦争・封印された真実』 日本文芸社 平成9年4月10日第4刷発行) 

(平成27年3月3日追記)


寺内家墓所


寺内家墓所


山口県護国神社から200メートルくらい離れた山の斜面に寺内家の墓所があります。



(平成15年7月27日)
寺内寿一の墓



元帥陸軍大将寺内寿一墓





(平成15年7月27日)



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