寺内正毅 てらうち・まさたけ

嘉永5年閏2月5日(1852年2月24日)〜大正8年(1919年)11月3日


長門国生まれ。
第二次長州戦争の防衛戦、戊辰戦争に従軍。
維新後、陸軍に入り西南戦争に出征。
フランスに留学後、日清戦争では運輸通信を担当。
第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣の三内閣で陸相(陸軍大臣)を務める。
陸軍省の強化、軍事参議院の設置にあたる。
1910年、初代朝鮮総督。
1916年(大正5年)、元帥に就任。
桂太郎歿後、山県有朋の後継者と目され、1916年に内閣を組織する。
ロシア革命に際してシベリア出兵を行なったが、米騒動が起こり、既に健康を害していたので辞任する。


寺内正毅生誕地の碑


「元帥伯爵寺内正毅君誕生地」の碑


生誕地は山口県山口市平井にあります。



(平成15年7月27日)
寺内正毅生誕の地跡



”誕生の地”はゲートボール場になっていました。
敷地の端にポツンと石碑が建っているだけです。
何らかの説明板が欲しいところです。



(平成15年7月27日)

寺内家墓所


寺内家墓所


山口県護国神社から200メートルくらい離れた山の斜面に寺内家の墓所があります。



(平成15年7月27日)
寺内正毅の墓




元帥陸軍大将伯爵寺内正毅の墓





(平成15年7月27日)

寺内正毅の墓
(1852〜1919)

寺内正毅は市内平川に生まれ、幼名を寿三郎といい、寺内家の養子となり、幕末維新の戦役に従軍した。
その後も軍人として身をたて、日清の役にも大功があり、明治35年陸軍大臣となった。
明治39年陸軍大将に任じられ、43年日韓合邦により最初の朝鮮総督となり、大正5年元帥に列し、同年10月に内閣総理大臣に任じられた。
大正7年に辞職、翌8年11月3日67才で病死した。
郷里の宮野の地に墓をつくり葬った。

正毅の墓と並んで長男寿一ひさいちの墓がある。
寿一は、父の後を継ぎ陸軍に入り大将、大臣を歴任したが、太平洋戦争の勃発とともに南方方面軍最高司令官となり、昭和18年元帥府に列せられ、終戦後、同21年マレーのレンガムで病死した。
正毅、寿一と親子で元帥となった例は世界でも珍しい。

(墓所入り口にある説明板より)


シベリア出兵

シベリア出兵を決めた内閣
内閣総理大臣 寺内正毅 外務大臣 後藤新平
内務大臣 水野錬太郎 大蔵大臣 勝田主計
陸軍大臣 大島健一 海軍大臣 加藤友三郎
司法大臣 松室致 文部大臣 岡田良平
農商務大臣 仲小路廉 逓信大臣 田健治郎

大正7年8月2日、、米国の勧めによってロシア革命の内乱に乗じてシベリアに出兵。
その後、日本独自の対外政策に基づき大正11年までの4年間、大兵をシベリアに置く。
戦費9億円、軍司令官の交替3回、師団の派遣数は前後10個師団、出兵目的を変更すること3回。
この間、尼港虐殺事件田中大隊全滅、石川大隊全滅の悲惨時が起こる。
参加兵力24万人、戦死者4600名、戦傷者約2600名。
このシベリア出兵では陸軍参謀次長の田中義一が暗躍。
大阪朝日新聞は『日本に内閣あるか?外務省あるか?一国の対外関係はどこから指導され、誰に蹂躙されつつあるか?寺内首相は非常なケンマクで政権を握ったが、国家の中枢は、チョコ才な参謀次長にあるか?』と痛罵している。
結局、シベリアの全面的な軍事占領による支配権の確立という目的は達せられず、国民の軍に対する憎悪と、シベリア人民の日本軍に対する怨嗟のみが残った。

(参考:生出寿著『反戦大将 井上成美』・『歴史群像2007年2月号』)

(平成19年1月18日追記)




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