戸定邸

千葉県松戸市松戸714−1


戸定邸 平成18年9月1日

戸定とじょう邸・庭園

徳川昭武の邸宅。
1884年建設、面積728u、木造平屋一部2階建。
大名の下屋敷の面影を色濃く伝える近代和風建築として、全国的にも貴重なものです。
庭園はゆるやかな起伏のある芝生に丸い樹木の刈り込みを配する、和洋折衷せっちゅう式庭園の初期の作例です。
西側眼下には江戸川、大気の状態がよければ富士山を見ることができます。
戸定邸は、水戸徳川家により、昭武専用の邸宅として建設されたようです。
1892年の松戸徳川家成立後は、実質的に同家の本邸となりました。
1986年、千葉県指定名勝になりました。

(リーフレットより)

戸定が丘歴史公園入口



戸定が丘歴史公園(戸定邸)入口

(千葉県松戸市)





(平成18年9月1日)

戸定館由来

当邸は 第15代将軍徳川慶喜公の舎弟である水戸家第11代藩主徳川昭武公(節公)が明治17年に松戸別邸として建てられた近世武家屋敷造りの建物である
公は20数年間を当邸に過ごされ 明治21年には子息武定公をもうけられた
この間明治35年4月22日には大正天皇となられた皇太子の行啓を仰ぐなど 多くの皇族方も長期にわたって滞在された由緒ある屋敷である
なお庭園は 慶応3年パリで開催された万国博覧会に将軍代理として渡欧された昭武公が心をひかれた洋式庭園の長所を取り入れて造園した当時としては画期的な庭園である
昭武公の子息武定公は子爵を賜り工学博士号を得て後に海軍技術中将に累進し潜水艦の最高権威として著名な方で当邸に永く居住されていたが 昭和26年公は当邸を市民の文化施設として利用して欲しいという意向をもって敷地2千百余坪 建物238坪を市に寄贈された
市は地名に因みこの施設を戸定館と命名した
ここに徳川家の御厚意を後世に伝えるためこの碑を建立顕彰するものである

昭和50年2月吉日
第11代松戸市長 宮間満寿雄 撰

(由来碑・碑文より)

使者の間




使者の間






(平成18年9月1日)

使者の間

徳川慶喜等の戸定邸来訪者にはたいてい御供が随行していた。
「使者の間」は、この随行者のための控室である。
客は玄関から、随行者は「使者の間」の内玄関を利用した。
「使者の間」は、昭和21年に撤去移築されたが、平成10年4月28日、移築先の千葉県印西市より半世紀ぶりに現在位置に復原された。

(説明板より)

廊下 内倉
廊下 内倉
秋庭の間



秋庭の間

徳川斉昭側室、万里小路睦子までのこうじちかこ(「秋庭しゅうてい」と号した。天保5年〜大正10年)は、実子昭武とともに明治17年ここに移り住んだ。
秋庭は篳篥ひちりきと和歌を嗜み、華族会員での雅楽同好団体「糸竹会しちくかい」にもはやくから参加し、歌集には『面影』が残されている。
また、万年青を愛好し、昭武のこどもたちの良き教育者でもあった。

(説明板より)


(平成18年9月1日)
八重の間




八重の間






(平成18年9月1日)

八重の間

客室(表座敷)から離れた「奥」に属するこの部屋は、室内意匠などからも本来的には主人の居室、すなわち、江戸時代の大名屋敷でいうと「御居間」と呼ばれた部分に相当すると考えられる。
しかし、昭武の生母秋庭が離座敷(秋庭の間)を使用したため、この部屋は昭武の妻であった八重やえ(明治元年〜昭和12年)が使用していた。

(説明板より)

斉藤八重・写真



斉藤八重

(1868〜1937)

静岡県士族斉藤貫之次女。
昭武の妻瑛子が明治16年2月に亡くなった後、同年10月に昭武と入籍した。
三男三女をもうけた。

(説明板より)



(平成18年9月1日)
衣装の間・化粧の間




衣装の間・化粧の間






(平成18年9月1日)

衣装ノ間・化粧ノ間

客間(表座敷)と八重の間(奥座敷)にはさまれた位置にある衣装の間、化粧の間は、床の間がないので表向きの座敷とは考えにくく、その室名のように、来訪した客の便衣・化粧のために設けられたものと考えられる。
こうした部屋が特に設けられていることは、多彩な来訪者を迎えた旧大名の生活を反映していよう。

(説明板より)

書斎



書斎







(平成18年9月1日)

書斎

客間と対をなす小書院であるが、実際には主人昭武の書斎として用いられた。
ここは戸定邸の中でもっとも見晴らしがよい部屋でもあり、昭武はこの部屋で日常過ごすことが多かった。
床の間には三幅対を掛けながら、フランス語学習に励むという、正に明治の華族には典型的な生活を過したのであった。

(説明板より)

書斎から見た庭園 客間から見た庭園
書斎から見た庭園 客間から見た庭園

客間古写真 客間
客間古写真 客間

客間

この写真は戸定邸を撮ったもっとも古いもので、芝生に燉とん(陶製の椅子)が配され、青桐が植えられていたことが分る。
樹木越しに、江戸川と田園が写し取られている。
当時は斜面の樹高が低く、この方角に遠く両国、箱根、富士が広々と見渡せた。
江崎礼二えさきれいじは隅田川での水雷火実験の早撮りで名をあげた浅草在住の写真家で、写真を通じて徳川昭武とながく交遊があった。

(説明板より)

中庭




中庭





(平成18年9月1日)
会計応接室


会計応接室

(現:休憩室)

この部屋は、かつての戸定邸の会計、人事、他家との交際、庶務などを担当していた職員が使用していた応接室です。

(説明板より)

(平成18年9月1日)

戸定邸(旧徳川昭武松戸別邸)の概要

木造平屋一部二階建 延床面積728u

戸定邸は、水戸藩最後の藩主徳川昭武(1853〜1910)によって明治17年に建設されました。
意図的に華美な装飾を排した簡素な構成の中にも、最高級の杉の柾目材をふんだんに使うなど、旧大名の住まいに相応しい重厚さと気品を備えています。
間取りは、客間を中心として接客空間の「表向き」の部分と主人や家族のための生活空間(八重の間・秋庭の間など)の「奥向き」の部分に区分されます。
これに使用人(会計など)のための部屋が加わっています。
同時期に造園された庭園と一体となった、純和風の旧大名の邸宅として、明治の雰囲気を良く伝える全国的にも貴重な建物です。

(説明板より)


戸定歴史館



戸定歴史館
(千葉県松戸市・戸定が丘歴史公園)





(平成18年9月1日)
戸定歴史館

戸定邸に隣接して建つ、徳川昭武と徳川慶喜についての専門博物館。
昭武の遺品を中心とする松戸徳川家伝来品や、昭武と交流の深かった慶喜の遺品が収蔵されています。
展示は、数ヶ月に一度変更されます。
これまで1867年パリ万博、幕末から明治にかけての古写真、かつての戸定邸の姿や徳川慶喜の事跡など、テーマを決めて展示を行っています。

徳川慶喜
(1837〜1913)

江戸幕府最後の将軍。
徳川斉昭なりあき7男で、昭武の16才上の異母兄。
将軍家の身内である御三卿ごさんきょう(田安・一橋・清水の各徳川家)の一つ、一橋家を相続後、29才で将軍となりました。
当時、子供のいなかった慶喜は、昭武に清水家を相続させ、将来の後継者とします。
明治維新により、慶喜と昭武は多くのものを失う一方で、私人としての自由な時間を得ました。
しばしば訪れた戸定邸で、二人は写真や銃猟など共通の趣味に没頭しました。
慶喜が撮影した戸定邸や松戸市内の写真は、たいへん貴重な記録です。
1902年には公爵を授爵。
1913年没。

徳川昭武
(1853〜1910)

最後の水戸藩主。
第9代水戸藩主・徳川斉昭の18男で、徳川慶喜の実弟。
13才の時、1867年パリ万国博覧会に将軍の名代みょうだいとして派遣され、ヨーロッパ各国を歴訪。
その後パリで留学生活を送りました。
明治維新によって帰国し、最後の水戸藩主になります。
1883年には29才の若さで水戸徳川家当主の座を退き、翌年戸定邸を建設しました。
1892年、3才の嫡男武定たけさだが父の勲功により子爵を与えられ、松戸徳川家が成立しますが、実質的には昭武が同家の創設者となったと言えるでしょう。
自然に恵まれた戸定邸で、狩猟、写真撮影、作陶などにいそしみました。
1910年没。

利用案内
入館時間:AM9:30〜PM4:30(PM5:00閉館)
休館日:月曜日(祝日・休日の場合は翌日)・年末年始(12月28日〜1月4日)・展示替期間
入館料:歴史館・戸定邸共通入館料 一般240円
駐車場:普通車28台
交通:JR常磐線松戸駅東口下車徒歩10分

(リーフレットより)


 (関連商品のご紹介)

武家屋敷  大名屋敷



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