所郁太郎像 平成19年4月3日

所郁太郎 ところ・いくたろう

天保9年2月16日(1838年3月11日)〜慶応元年3月12日(1865年4月7日)

岐阜県大垣市赤坂町・赤坂宿本陣跡でお会いしました。


美濃国赤坂で生まれ、医者の所伊織の養子となる。
梁川星巌と親交を結ぶ。
万延元年(1860年)大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学ぶ。
京都で医師として開業。
この頃から、長州藩士と交わり尊王思想の大義を説く。
文久3年(1863年)長州藩邸内の医院総督となる。
元治元年(1864年)長州藩領の吉敷郡で開業、刺客に襲われた井上多聞を治療する。
翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦、吉敷村の陣営で病没。
享年28歳。


所郁太郎像



所郁太郎像
(大垣市・赤坂宿本陣跡)





(平成19年4月3日)

碑文

所郁太郎は我が赤坂町の生める幕末の志士にして至誠奉公、赤心事に当たり終に身を以って国事に仆る
本年■■の年に当たり市制七十周年記念事業として当地赤坂町にその像と詩碑を建立する

(銘板より)

幕末憂国の青年志士 所郁太郎

天保9年(1838)中山道赤坂宿醸造家矢橋亦一の四男として誕生
11歳のとき西方村(大野町)医師所伊織の養子となり厳しく育てられた郁太郎は 初め横山三川に漢学を習い 次に美濃加納藩医青木養軒に医学 三宅樅台に文学・歴史を学び 18歳で京都に出て安藤桂州塾で蘭学を また21歳 越前大野藩校洋学館で洋学を修め塾頭伊藤慎蔵にすすめられ 万延元年23歳で大阪の適塾(緒方洪庵)に入門 福沢諭吉大村益次郎ら多くの交友を得て 国事を論じた
25歳 養家に帰り結婚 再び上洛し町医を開業
たまたま旧友長野昌英に逢い桂小五郎(後の木戸孝允)の推挙をうけ長州藩の医院総督となり 高杉晋作ら志士たちと親交を深め 国政に参画
文久3年の政変に三条実美ら七卿落ちに従い長州に入り 寺社組支配 米銀方奉行 遊撃隊参謀など要職を歴任 「辛苦 忠を思い身を思わず 医は人の病を医し 大医は国の病を治す」と幕末騒乱の中を東奔西走し 国のために尽した
慶応元年(1865)3月12日 吉敷の軍営で病死 享年28歳 墓は山口市東三舞と赤坂妙法寺にある
明治2年京都霊山に祭られ 同31年従四位を追贈し生前の功労を称えられた
尚 元治元年俗論党に襲われ瀕死の重傷をうけた井上聞多(後の明治の元勲井上馨)を手術し畳針で縫いその一命を救った話は小・中学校の教科書や伝記・小説にも紹介されている

1995年(平成7年)3月12日
百三十年記念に建立する
所郁太郎奉賛会

(副碑・碑文より)

赤坂宿本陣跡



赤坂宿本陣跡
(赤坂公園)
(岐阜県大垣市赤坂町)





(平成19年4月3日)

中山道赤坂宿 本陣跡

当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。
間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十六歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。
寛永以後、馬渕太郎左ヱ門に次いで平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫らく谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
文久元年10月25日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

昭和60年8月
大垣市赤坂商工会観光部会

(説明板より)


所郁太郎生誕の地碑



憂国の青年志士 所郁太郎生誕地』の碑

(岐阜県大垣市赤坂町・子安神社入口)





(平成19年4月3日)

所郁太郎の墓



『贈従四位所郁太郎直則神霊』
(大垣市赤坂町・妙法寺)





(平成19年4月3日)

大垣市指定史跡 所郁太郎の墓

所郁太郎は天保9年(1838)に中山道赤坂宿の酒造家矢橋亦一の四男として生まれ、幼少にして揖斐郡大野町西方の医師所伊織の養嗣子となった。
その後、勤王の志を胸に国事に奔走し、長州藩遊撃軍参謀となった。
井上聞多(後の元老井上馨)が刺客に襲われ、重傷を負うと外科手術を施し一命を救った。
元治2年(1865)山口市吉敷の陣営において28歳の若さで病没した。

大垣市教育委員会

(説明板より)

妙法寺



妙法寺
(岐阜県大垣市赤坂町3381)





(平成19年4月3日)

所郁太郎顕彰碑



所郁太郎 顕彰碑

(山口県山口市湯田温泉2丁目・高田公園内)



(平成15年7月27日)

所郁太郎顕彰碑

所郁太郎は天保9年 美濃国赤坂に生まれた
長じて京都に出 医学を学び さらに大阪の適塾で西洋医学・洋学を修め 学・術ともに精進した
京都で医院を開いたが 長州藩の京都邸の近くであったので 藩の邸内医員を委嘱された
尊皇の志が篤く 長州藩士と深く交わって時勢を通観し 医業をやめて国事に尽くそうとし長州に来住した
下関の攘夷戦にも参加し 七卿西下に降してはその医員を命ぜられた
元治元年9月 井上馨の袖解橋の遭難には ただちに馳せつけ 数か所の刀傷を五十数針縫い合わせる大手術をなし 瀕死の井上を奇跡的に救った
後年の井上の偉業を思うとき この所の治療を忘れてはならない
慶応元年正月 高杉晋作が兵を挙げ 藩の俗論党と戦った時 所は迎えられて遊撃隊の参謀となり 高杉に協力した
その後幕府の長州征伐に備えて 軍を進めようとした時 にわかに病んで 吉敷の陣中で歿した
27歳であった
明治になり特旨をもって従四位を贈られた
(大垣市赤坂町本陣公園内の銅像を元に彫刻)

(顕彰碑 碑文より)

所太郎顕彰碑と井上馨像


所郁太郎顕彰碑と井上馨像
(山口県山口市湯田温泉2丁目・高田公園)

銅像の側には袖解橋の遭難の時に治療に当たった所郁太郎の顕彰碑が建っています。



(平成15年7月27日)

高田公園

この公園は、明治維新の大業推進に功があった井上馨候の生誕地で、井上公園と呼ばれ親しまれていましたが、後に区域が広がり、地名をとって高田公園となりました。
園内には、井上馨候の銅像や、文久3年(1863年)の政変で、京都から長州に落ちのびた三条実美ら七卿が寄宿した何遠亭かえんてい跡や、かん難辛苦のなかに国事につくした功績を記念して建てられた七卿の碑があります。
このほか、「日本のランボウ」といわれた中原中也の詩碑や、防府市出身の漂泊の俳人、種田山頭火の句碑が建っています。

(説明板より)


井上馨遭難の地


井上馨候遭難の地
(山口県山口市湯田温泉1丁目・袖解橋の近く)

この前の道を真っ直ぐ進むと高田公園に着きます。




(平成15年7月27日)

井上馨候遭難の地

元治元年(1864)幕府は京都蛤御門の変を理由に長州征伐の軍を進めたが、長州藩ではこれに対して恭順の意を表すべきだとする保守派が、少壮有意の正義派をしりぞけ責任者を処罰した。
9月25日藩主の前で開かれた会議で井上馨(聞多)は恭順派と争い武備を整えて幕府に対すべきだと主張したため、湯田の自宅への帰路、この地において反対派の壮士に重傷を負わされた。
しかし名医所郁太郎の手当てにより一命をとりとめた。
その後明治政府に仕えた井上馨は外務、農商務大臣を経て明治25年内務大臣となり、更に大蔵大臣となって条約改正、行政整理、日清戦争後の運営などに当った。
晩年は実業に入ったが政界にも大きな力をもち各種の事業を育成した。

(説明板より)


所郁太郎の墓碑



贈従四位 所郁太郎直則神霊

(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)
岐阜県招魂場



岐阜県招魂場
(京都市・京都霊山護国神社)





(平成19年3月17日)

岐阜県招魂場

明治3年(1870)梁川星巌の碑が門人により建てられ、また戊辰戦争で戦死した徴兵七番隊の川田敬蔵・家村半三郎(加納藩)中川源八郎・水野定吉(岩手藩)らの碑が建ててある。(北、20m)
平成2年秋、所郁太郎の碑を建立すると共に岐阜県招魂場を整備、毎年碑前祭を行う。

平成8年5月
霊山顕彰会岐阜県支部
―創立15周年記念建立―

(説明板より)


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