徳川家光 とくがわ・いえみつ

慶長9年7月17日(1604年8月12日)〜慶安4年4月20日(1651年6月8日)


江戸幕府第3代将軍。
(在職:元和9年7月27日〜慶安4年4月20日)
第2代将軍・徳川秀忠の二男(兄・長丸は早世)。
母は正室の崇源院(お江与の方)。
幼名は竹千代。
乳母・春日局に養育される。
元和6年(1620年)元服。
元和9年(1623年)将軍職を継ぐ。
寛永9年(1632年)秀忠の死後に将軍政治を本格化し、評定所寄合の定例化や老中月番制など江戸幕府の諸制度を整備した。
朝幕関係では、寛永11年(1634年)、30万の大部隊による上洛で朝廷を威圧し、幕藩関係では諸国巡見使の派遣、参勤交代の制度化、改易・転封策による大名統制策をとる。
キリシタン禁圧と島原の乱の鎮圧、沿海防備体制の構築を推進する一方で、琉球国王・オランダ商館長の江戸参府、朝鮮通信使来聘を3回実現するなど、幕府の権威を高めた。






お鷹の松

(東京都・明治神宮外苑)




(平成22年11月10日)

お鷹の松

大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買い上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。
昔、徳川三代将軍家光(1603〜1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女ゆうじょ」と名づけた愛鷹が富んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。
後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。
碑文にある二代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和39年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。

昭和54年10月  明治神宮外苑

(説明板より)







御成門
(東京都練馬区石神井台・三宝寺)




(平成23年7月17日)

御成門

寛永2年(1625)及び正保元年(1644)に、徳川家光が狩猟の際、當山が休憩所とされたので、この山門を御成門と称するようになった。
江戸時代には、平常は門扉を閉ざして庶民の通行を禁じていたといわれている。
棟札に記されたところによれば、當山第23世宥泉和尚が、布施物を蓄積して再建したものである、という。
文政10年(1827)7月26日に成り、二度の火災にもその難を免れ、當山第一の古建築であるばかりでなく、當地方稀に見る傑れた山門である。
昭和28年(1953)本堂完成と共に修覆の工を終えた。

(説明板より)


殉死者の墓



殉死者の墓
(東京都台東区上野公園・現龍院墓地)





(平成20年11月6日)
殉死者の墓



殉死者の墓
(東京都台東区上野公園・現龍院墓地)





(平成20年11月6日)

殉死者の墓
台東区上野公園18番 現龍院墓地

慶安4年(1651)4月20日、3代将軍徳川家光が死去した。
その後を追って家光の家臣5名が殉死、さらにその家臣や家族が殉死した。
ここには家光の家臣4名と、その家臣8名の墓がある。
 堀田正盛(元老中。下総国佐倉藩主)。
 阿部重次(老中。武蔵国岩槻藩主)。
   家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。
 内田正信(小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)。
   家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。
 三枝守恵(元書院番頭)。
   家臣の秋葉又右衛門
殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが自殺することで、とくに武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹おいばらの風習があった。
江戸時代になってもこの風習は残り、将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになった。
家光への殉死から12年後、寛文3年(1663)に幕府は殉死を禁止。
その後、この風習はほぼ絶えた。

平成16年3月
台東区教育委員会

(説明板より)


【不安神経症】

三代将軍には不安神経症の気があった。
(大名が謀叛をおこす。弟が自分の地位をおびやかす。紅毛人こうもうじんが九州を侵してくる・・・・・)
そういう不安にとりつかれては、しばしば胸が苦しくなり、動悸や息切れを訴えた、と、諸々の記録にはある。

(参考:磯田道史 著 『殿様の通信簿』 朝日新聞社 2006年第6版発行)

(平成29年2月1日 追記)


【鎖国の断行】

1622年に病死した徳川秀忠の跡を継いだ家光は禁教令が成果をあげないため、禁教令を徹底させて成果をあげるため、1633年(寛永10年)、日本人、御朱印船以外の日本船の海外渡航を禁止するとともに、フィリピンを含む外国から帰国する日本人を死罪に処するよう命じた。
さらに1635年、ルソンなどよりの船舶の日本への寄港を禁じたが、それでもキリスト教を根絶できないとみて、1636年、御朱印船も全廃することにした。
これにより日本人は外国を見ることが出来なくなった。
なお、家光による1639年(寛永16年)の鎖国の断行とともに、海外との関係は完全に断たれることとなった。

(参考・引用: 佐藤虎男・著 『フィリピンと日本』 サイマル出版会 1994年9月初版)

(平成25年5月31日追記)


【側室・お夏の方】

元々は京の町人娘。
御台所・中の丸殿の実家、鷹司たかつかさ家に奉公していた縁で大奥に入り「御末」という職につく。
「御末」は風呂や御膳所ごぜんしょの水汲みや掃除などの雑用を行う役職で、上様(将軍)が入浴の際には肌襦袢1枚になって背中を流す役目もあったという。
湯殿ゆどの(風呂)では上様と2人だけの密室となるため御手おてがつきやすく、お夏の方は、そこで懐妊。
家光の二男・長松ちょうまつ(のちの甲府宰相さいしょう綱重つなしげ)を産んだ。

(参考:『歴史街道 2013年1月号』)

(平成25年9月29日 追記)




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