徳川綱吉 とくがわ・つなよし

正保3年1月8日(1646年2月23日)〜宝永6年1月10日(1709年2月19日)


江戸幕府5代将軍。
在職:延宝8年8月23日(1680年9月15日)〜宝永6年1月10日(1709年2月19日)
3代将軍家光の四男。
母は側室の桂昌院(お玉の方)。
幼名は徳松。
法号は常憲院。
寛文元年(1661年)上野国館林藩主となるが、延宝8年(1680年)5月、4代将軍家綱の後継となり、同年将軍職を継ぐ。
前半は大老・堀田正俊の補佐で文治政治を推進し、賞罰厳明策をとり、儒学を好んで、元禄3年(1690年)江戸忍岡の聖堂を湯島に移す。
翌年、林信篤のぶあつを大学頭に任じて朱子学を官学とした。
正俊の没後は側用人の牧野成貞や柳沢吉保を寵用。
生類憐みの令をとったため犬公方いぬくぼうと呼ばれ、勘定奉行・荻原重秀による貨幣改鋳などで治政は乱れたが、元禄文化が栄えた。


徳川綱吉霊廟勅額門



徳川綱吉霊廟勅額門
(東京都台東区上野桜木1−16)





(平成19年12月28日)

徳川綱吉霊廟勅額門とくがわつなよしれいびょうちょくがくもん (重要文化財)

台東区上野桜木1丁目16番

5代将軍綱吉は、延宝8年(1680)5月に兄・家綱の死に伴って将軍の座につき、宝永6年(1709)1月10日に63才で没した。
法名を常憲院じょうけんいんという。
綱吉ははじめ、善政を行い「天和てんなの治」と讃えられたが、今日では「生類憐みの令」などを施行した将軍として著名。
元禄11年(1698)9月、この綱吉によって竹の台に寛永寺の根本中堂が建立された。
造営の奉行は柳沢吉保、資材の調達は紀之国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門である。
又、それに伴って先聖殿せんせいでん(現湯島聖堂)が上野から湯島に移されている。
綱吉の霊廟は宝永6年の11月に竣工したが、それは歴代将軍の霊廟を通じてみても、もっとも整ったものの一つであった。
ただ、その一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失した。
この勅額門と水盤舎(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。
勅額門の形式は四脚門しきゃくもん、切妻造きりづまづくり、前後軒唐破風付ぜんごのきからはふつき、銅瓦葺どうかわらぶき

平成6年3月
台東区教育委員会

(説明板より)


根津神社拝殿



根津神社拝殿
(東京都文京区根津神社)

宝永3年(1706)建立・重要文化財



(平成20年2月21日)
根津神社



綱吉造営・根津神社
(東京都文京区根津1−28−9)





(平成20年2月21日)

根津神社ねづじんじゃ

国指定建造物
文京区根津1−28−9

日本武尊やまとたけるのみことが千駄木の地に創建したと伝えられている。
現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに6代将軍となる徳川家宣いえのぶの誕生の地であった。
5代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神うぶすながみとして宝永3年(1706)に千駄木にあった社やしろをこの地に移して、社領500石を附し、権現造ごんげんづくりの社殿を造営した。
社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿へいでん(相あいの間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。
拝殿前に唐門からもんを配し、その左右から透塀すかしべいで社殿を囲んでいる。
唐門前方の楼門ろうもんを含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。
祭神は須佐之男命すさのおのみこと、大山咋命おおやまくいのみこと、誉田別命ほんだわけのみこと、大国主命おおくにぬしのみこと菅原道真公である。
境内には「家宣の胞衣塚えなづか」(区指定民俗文化財)、「塞さえの大神碑」などがある。

文京区教育委員会


幼少の頃

歴代将軍の中で綱吉ほど、幼少時より学問に励んだ将軍は少ないといわれる。
父・家光が綱吉の生母である桂昌院に対して「徳松(綱吉の幼名)は生来利発聡明な子であるから善師をつけて学問させよ」と言ったとされている。

将軍継承

3代将軍・徳川家光には5人の男子があった。
長子は4代将軍となった家綱。
次子は甲府宰相といわれた綱重。
第3子の亀松と第5子の鶴松は共に幼死。
そして、第4子が綱吉である。
甲府宰相綱重は家綱の死去の2年前に35歳でこの世を去っており、家綱には嫡子がいなかったため必然的に綱吉に将軍の座がまわってきた。

将軍親政

新将軍・綱吉の示した政治姿勢は明らかに“将軍親政”であった。
つまり政治的決済、裁決のすべてを将軍自らが行うというものである。
これは初祖徳川家康がその初期に示した政治姿勢でもあったが、3代将軍家光あたりから幕府による諸国の大名支配体制も整い、幕府の政治機構も確立され、すでに直接の政治は老中たちによる合議制へと移行しつつあった。
4代将軍家綱時代では、ほぼこの体制が固定化され、幕政は老中任せで最終的決定もすべて大老が裁決するようになっていた。
綱吉は幕府内部の政治機構の改革、幕領人事の交替と矢継ぎ早に改革を断行した。
まず前将軍時代の大老酒井忠清を罷免、下馬将軍の異名のもとになっていた江戸城大手門前の屋敷を没収して、これを堀田正俊に与えた。

城中刃傷事件

貞享元年(1684)8月28日、大老の堀田正俊が遠縁関係にあった若年寄の稲葉正休に刺殺されるという前代未聞の衝撃的事件は、江戸城中、しかも将軍の居間近くの老中執務室で突如として起った。
稲葉正休もその場で居合わせた老中たちに殺害されてしまうが、なぜこのような事件が起ったのか、いまだ諸説あって確かなことは不明であるが、この事件を大きなきっかけとして綱吉将軍の本来の目標であった“将軍の独裁政治実現”が加速されるようになった。

綱吉は将軍の出座する部屋近くにあった老中らの御用部屋は、危害が及ぶことを恐れて他へ移すことにした。
このため将軍と老中たちとの直接の連絡が不十分となり、御側用人が仲介役となったので、必然的に将軍の近くに仕える御側用人や御側役が力を振るうようになっていった。

生類憐みの令

5代将軍綱吉治世下、後世に悪政の最たるものとしてヤリ玉に挙げられている“奇法”。
貞享4年(1687)正月28日の公布では「重病の生類であっても、これを死なないうちにうち捨ててはならない」とあり、これを最初の発布とする説が一般には定説化されているが、それより2年前の貞享2年(1685)2月12日に出された「みだりに鳥獣を放つことを禁じ、犯人を逮捕した者、訴えた者には賞金を与える」というものが初発とする学説もある。
「生類憐れみの令」の発令の発端となったといわれるこの貞享2年の法令は、表向きの目的は鳥獣の保護ということになるが、本音の狙いは“鉄砲という武器の取り締まり”にあり、鉄砲の個人使用を厳しく規制するすることにあったと考えられる。
また、「死んだ犬、猫はもとより、重病のものをみだりに捨ててはならない」というものも、人口密集地における環境衛生、公衆衛生などの見地から考えれば当然だが、これが一向に守られなかったため罰則を付けた。
しかし、刑罰を重くしても違反者が後を絶たないため、町役、村役、代官にも監督・連帯責任を取らせようとしたので、類が自分に及ぶことを恐れ、法令を過大解釈して運用したため、犬・猫を殴っても処罰の対象になると取り締まったり、大名・旗本などは家臣から違反者が出ても責任を取らされるので、鳥類はもとより魚介類は屋敷内に持ち込ませず、外でもいっさい食べてはならないということにまで発展した。
つまり、幕府機関の末端における法の過大解釈、運用に問題があったといえる。

元禄改鋳

窮乏する幕府財政の立て直しの、窮余の策として断行された「元禄改鋳」は、良質だった慶長金銀を鋳潰して、金・銀の含有量を落とし、その分の増量が行われたため品質の悪い貨幣として、その評判はきわめて悪いものだった。
この幕府財政の逼迫は、一般的には綱吉時代の放漫経営による弊害がもたらした結果とされている。
しかし、幕府財政が破綻寸前の危機を招いた直接的な要因は、前将軍・家綱時代に発生した「明暦の大火」にあったと多くの歴史家が指摘している。
この大火は明暦3年(1657)1月18日に起った「振袖火事」で有名な大火事で、江戸の市街地中心を焼き尽くし、死者は10万人を超える大惨事となった大火で、江戸城も天守閣・本丸・三の丸という主要部が被害を受けた。
この復興のため幕府の金蔵から非常用金銀が支出された。
この復興も未完成な状況下で、綱吉が将軍になった延宝8年(1680)から宝永6年(1709)までの30年間は、なぜか天災・人災が多く起った。
主なものでも、元禄16年の関東大震災、宝永4年の富士山噴火、さらに京都に大火が起り禁裏や院御所に被害が出た。
このため幕府はその威信にかけても復旧・復興を行わなければならなかったのである。
幕府財政の立て直しとはいえ、悪貨鋳造は江戸の経済に大きなインフレ現象を引き起こし、物価は極度に高騰、庶民経済に混乱が生じたことは事実である。
加えて、綱吉の信仰心のせいか、この時代だけでも伊勢神宮・石清水八幡宮・春日大社・六孫王神社、さらに比叡山・高野山などに対して寄進・修復費用を支出している。
また、江戸に新しく護国寺や護持院を造営したことも財政を極度に圧迫させた要因ともなった。

赤穂浪士の処分

殿中松の廊下での浅野内匠頭の刃傷事件は、勅使を迎える寸前での殿中を血で汚したということで、何事にも潔癖症な綱吉は、おそらく報告を受けるや即座に浅野内匠頭の処分を決定したものであろう。
「血を極端に嫌う性格」であったことは、さきの「生類憐れみの令」の公布をもっても、うかがい知れるところであり、これが、当時の「喧嘩両成敗」という慣習に反していたことから、幕府の不公平な裁きに江戸庶民も大いに不満だったことは事実のようである。
続いて亡き主人の仇を討った四十七士に対する処分をめぐっては老中たちの意見が大きく二分した。
阿部正武を筆頭とする義士の行為を擁護する助命顕彰派と、小笠原長重たちの法令違反に重点をおいた処分を考える法律論派とが対立した。
綱吉自身は何とか助命したい意向だったとされ、上野・寛永寺の輪王寺宮法親王に処分についての苦衷くちゅうをもらしたが、親王からは何の答えも示されなかったという。
幕閣内には折衷案として、公儀の威信を守るため、深夜徒党を組んでの狼藉は法を犯す大罪であるとの見地から、首謀者だけを処分して幕府の面目を保つという意見もあったとされている。
しかし、裁断に躊躇する綱吉の苦衷を察して、柳沢吉保が密かに荻生徂徠、志村貞幹らに意見を求めた。
その結果、〈「義士の義士たる大義」を重んじて処分を決定すべきであり、いたずらに世論に迎合するべきではなく、人情論に振り回されては天下のご正道を誤ることになる〉との意見具申があったことを綱吉に伝え、その結果、武士としての体面を重んじ全員切腹という綱吉の裁断が下されたのである。
天下泰平の世、武士道すら忘れられかけている時に、亡き主人の恩を忘れず、健気にも仇討ちをしたということで、国民的英雄になっている義士たちも所詮は人間、特に若い義士の中には義士としてその終わりを全うすることができない者も出るかもしれない。
もしそうなった時、庶民の頭の中に描き続けられた義士に対する美しいイメージは崩れ去ってしまう。
これを国民的英雄として、いつまでもその行為を大義として生かしておくためには、武士としての“死に場所”を与えることこそが、武士の情けというものである、と荻生徂徠たちは考えたのである。

(参考:野澤公次郎著『みよしほたる文庫3・柳沢吉保の実像』)

(平成20年8月27日追記)


【儒学】

徳川家康が取り入れた儒学をさらに強固なものにしたのは綱吉である。
彼は『論語』を好み、荻生徂徠などの漢学者の意見を聞き、自ら家来を集めて漢籍の講義をした。

綱吉をとことん苦しめたのが1703年に起きた赤穂浪士の討ち入りである。
大石内蔵助らは儒学の視点から見ると、我が身を省みず主君の仇を討った義士である。
これを顕彰すると、浅野内匠頭たくみのかみの切腹を命じた幕府の判断が誤りということになる。
結局、「この仇討ちは仲間内の私事に過ぎない」という荻生徂徠の意見を取り、全員を切腹させた結果、綱吉の人気は低迷したままとなった。

綱吉は未来に対する魔よけ、お祓いは神社に任せ、教育は儒学、過去の供養は仏教に任せるという方式を取り入れ、儒学の役割をより限定させた。

(参考:『一個人 2013年1月号』 KKベストセラーズ)

(平成26年5月6日 追記)


捨て子に関する法律

5代将軍徳川綱吉の出した生類憐みの令は、綱吉の死後すぐに撤回されたが、一つだけ撤回されなかったことがある。
それは、捨て子に関する法律である。
生類憐みの令は、動物など弱いものに対する保護令だったから、捨て子も保護するよう命じられた。
そのため、捨て子を見つけた者は養育する義務を負わされていた。
これは、捨て子や捨てた親にとってはありがたい法律であった。
ところが、門前などに捨てられた者にとっては、迷惑な話である。
大名屋敷では、捨て子があると乳母を雇い、なにがしかの金をつけて里親を探した。
町人の場合は、その家で育てざるを得ない。
『よしの冊子』によれば・・・・
〜現在まで、捨子があれば15歳になるまでは公儀(幕府)から町方へ御預けになったので、その捨子の様子が少しでもおかしければ、今朝熱気がありましただの、頭痛が強いですだのと、そのたびに名主や五人組、大家、月行事などが付き添って町奉行所に出頭したので、そのたびごとに弁当をはじめいろいろと大変な物入りだということです。〜
・・・とある。
幕府から預けられた者だから、死んだりしたら大変で、それこそ実の子供以上に大切にされたのである。
また、捨て子があった時、町奉行所から遣わされる検使に御礼として200疋ぴき(100疋は金1分)を出し、ひとかどの料理で饗応したので、その当日だけで3両の物入りがあり、捨て子を養子に出すまでに10両ほどの金がかかったという。

(参考:山本博文著 『旗本たちの昇進競争』 角川ソフィア文庫 平成20年再版)

(平成22年1月12日追記)


「宇治の間」の亡霊

江戸城大奥には“開かずの間”とされていた「宇治の間」に亡霊が出るという噂が伝えられていた。
12代将軍・徳川家慶いえよしが廊下を歩いていたとき、「宇治の間」近くで黒紋付姿の老婆が平伏へいふくしているのを見た。
「あれはどこの者か」と不審を抱いて尋ねたが、供ともをしていた御中おちゅうろうたちには何も見えない。
家慶はそれからまもなくして発病し、嘉永6年(1853)6月22日にあっけなく亡くなった。
「上様うえさまは、宇治の間の亡霊に取り憑かれて死んだ」と女中たちは噂した。
この亡霊というのは約150年前、5代将軍・徳川綱吉の御台所みだいどころ信子のぶこに仕えた御年寄おとしよりだった。

当時、綱吉の色好みは常軌を逸していた。
寵臣ちょうしんの牧野成貞まきのなりさだの妻・阿久里あぐり、娘の安子やすこ、柳沢吉保やなぎさわよしやすの側室・染子そめこなど、次から次へと食指を伸ばして留まることを知らない。
信子は再三、綱吉を諫めたが綱吉は聞く耳を持たない。
遂に堪忍袋の尾が切れ、宝永6年(1709)1月10日、綱吉を大奥の「宇治の間」に呼び、御年寄に手伝わせて、懐剣かいけんで綱吉の胸を突き殺害した。
その直後、信子と御年寄は自害したが、御年寄だけが亡霊になって現れるのだという。

それからまもなくして「御台所が将軍を刺し殺して自害した」という噂が江戸中に流れた。
その頃、江戸には麻疹はしかが流行しており、幕府は、綱吉は麻疹に罹って病死、御台所の信子は2月9日に同じように麻疹に疱瘡ほうそう(天然痘)を併発して死亡したと発表した。

その後、「宇治の間」に女の亡霊が出るという噂は長く語り継がれたが、12代将軍・家慶が亡霊を目撃したという話の真偽はわからない。

(参考:『歴史街道 2008年7月号』)

(平成23年10月21日追記)




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