徳川頼房像 平成20年10月12日

徳川頼房 とくがわ・よりふさ

慶長8年8月10日(1603年9月15日)〜寛文元年7月29日(1661年8月23日)

茨城県水戸市三の丸・大手橋近くでお会いしました。


徳川家康の11男。
母は側室の養珠院(お万の方)。
慶長10年(1605年)3歳で常陸国下妻10万石に封じられる。
慶長14年(1609年)常陸国水戸25万石の藩主となる。
元和5年(1619年)に入国。
この間は付家老つけがろうの中山信吉らが藩政を行った。
元和8年(1622年)3万石を加増されて28万石を領す。
入国後は水戸城下町の建設、領内総検地の実施、鉱山開発など藩政の整備に努めた。


徳川頼房公像



徳川頼房公像
(水戸市三の丸・大手橋)





(平成20年10月12日)

碑文

徳川頼房公は、徳川幕府創始者である家康公の11男として慶長8年(1603)京都の伏見城で生まれた。
7歳の時に、徳川御三家の一つである水戸藩初代藩主となった。
その後、頼房公の治世は53年に及び、水戸城の大修築、下町の造成、城下町の拡張や全領検地をはじめ、水利事業や藩職制の整備など、水戸藩の基礎を確立し、現在の水戸市の街づくりに生かされている。
寛文元年(1661)水戸城中で59歳の生涯を閉じた。
諡は威公と称されている。

平成16年3月 水戸市
銅像制作 篠原洋

徳川頼房公



徳川頼房公像
(水戸市三の丸・大手橋)





(平成20年10月12日)

【徳川頼房】

慶長14年、7歳で水戸藩主となる。
慶長16年(1611年)、9歳で元服。
頼房は、大坂の陣や将軍の上洛などの際にも、留守を守ることが多く、家光の時代になると、とくに江戸を離れることが少なくなった。
そのため、水戸に来たのは、元和5年(1619年)、16歳の時が最初で、53年に及ぶ藩主在任中に水戸に来たのは11回にとどまっている。
しかし、武田氏や北条氏の遺臣をはじめとする寄せ集めの家臣団をよくまとめ、水戸城の大修築、下町の造成などの城下町の拡張、「寛永検地」として知られる全領検地の実施、江堰建設などの水利事業の実施、藩職制の整備など、藩の基礎を築いた功績には大きなものがある。

頼房は正室は持たなかったが、多くの側室との間に11男15女をもうけた。
二代藩主となった光圀以外にも、頼重よりしげ(讃岐高松藩主)、頼元よりもと(磐城守山藩主)、頼隆よりたか(常陸府中藩主)、頼雄よりかつ(常陸宍戸藩主)などがおり、彼らの子孫は「御連枝ごれんし」として後々水戸藩を支える存在となった。
また、娘の大姫は家光の養女として、加賀藩主・前田光高みつたかに嫁ぎ、五代藩主・綱紀つなのりを生んでいる。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月31日発行)

(平成25年7月3日・追記)


【水戸徳川家】

水戸徳川家は徳川御三家の一つだが、家格は中納言で尾張や紀州の大納言には及ばない。
しかし、昔から天下の副将軍と言われた。
実は江戸幕府の職制表を見ても、大老・老中はあるが副将軍は無い。
正式な職としては存在しないのである。
しかし副将軍と言われるようになったのには理由があって、あらゆる大名の中で、水戸徳川家だけは参勤交代をする必要がなかった。
水戸家の当主だけは江戸に常駐する義務があったからである。
しかも本国常陸国水戸は御三家の中で一番江戸に近い。
つまり水戸藩主は、万一の場合に備えて江戸に常駐している形だったのである。
これは明らかに将軍家に不測の事態が起こった場合の用心のためだろう。
もっとも、そうのように明記した史料は無いのだが、他に全国の大名の中で水戸藩主だけ参勤交代を免除する理由が見当たらない。

また江戸時代、水戸家は初代徳川頼房の頃から勤皇の家柄だった。
二代目水戸藩主は徳川光圀、すなわち有名な水戸黄門であるが、彼の「将軍家は親族頭、本当の主君は天皇である」という言葉が伝わっている。
家康は「世の中に絶対のものは無い」という、ほとんどの人間が悟り切れない真理を悟っていた。
だからこそ関ヶ原、そして大坂の陣で築き上げた盤石の天下も、将来崩れる可能性もあると思った。
それゆえに家康は「薩長連合が成立し朝廷の権威をバックに官軍となり徳川家が賊軍とされる」という、徳川家にとって最悪の事態にも対処できるように保険をかけていた。
それが水戸徳川家である。
とにかく何があろうと、水戸家は天皇家に忠誠を尽くす勤皇の家柄としておく。
そうすれば万一、前記のような事態となっても、水戸家は総本家である徳川将軍家ではなく天皇家に味方することで、徳川家の血筋は必ず残るわけである。
しかし、歴史学者はこういう考え方を否定するか、素直に認めようとはしない。
その理由は「そんなことを明記した史料はどこにも無い」からである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)



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