徳川慶喜 平成16年1月12日

徳川慶喜 とくがわ・よしのぶ

天保8年9月29日(1837年10月28日)〜大正2年(1913年)11月22日

茨城県水戸市 千波湖でお会いしました。


父は水戸藩主の斉昭。母は貞芳院。斉昭の七男として小石川上屋敷で生まれる。幼名は七郎麿。
弘化4年(1847年)第12代将軍家慶いえよしの寵愛を受けて御三卿の一橋家を相続。
嘉永6年(1853年)将軍に就任した13代家定は病弱で、将軍継嗣が重大な政治問題に発展し、慶喜を擁立する一橋家と和歌山藩主の徳川慶福よしとみを擁立する南紀派との対立が激化しました。
また日米修好通商条約の勅許問題も絡んで複雑な政治状況を呈しました。
安政5年(1858年)南紀派の井伊直弼が大老に就任。
無勅許の条約調印を断行し、慶福を第14代将軍家茂いえもちとしました。
慶喜は斉昭らと条約調印に異を唱え直弼を譴責けんせきしましたが、逆に隠居・謹慎を命じられてしまいました。
和宮かずのみやが14代将軍家茂に降嫁することとなり、万延元年(1860年)罪を許されました。
文久2年(1862年)一橋家再相続。将軍後見に任命されました。
翌年、孝明天皇に拝謁。
この頃、前福井藩主・松平春嶽に大政奉還を提案されますが拒絶。
元治元年(1864年)禁裏守衛総督きんりしゅえいそうとく・摂海防御指揮せっかいぼうぎょしきに任命され、大坂湾の巡検を行いました。
また禁門の変では、長州藩の激派を退け、水戸天狗党鎮圧の一翼も担いました。
以後、京都では一橋慶喜、松平容保まつだいら・かたもり(京都守護職・会津藩主)、松平定敬まつだいら・さだあき(京都所司代・桑名藩主)の『一会桑いっかいそう政権』が政局を運営して対長州戦争を指導しました。
慶應2年(1866年)家茂が第二次長州戦争で陣没したため、慶喜が15代将軍となりました。
フランス公使・ロッシュを重用して薩長に接近するイギリスを牽制。
新しい政治状況の醸成のため翌年には大政奉還を行ないましたが、王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦いで政治的・軍事的に敗北し、朝廷に対して恭順しました。
明治元年(1868年)静岡に移住して30年間閑居。

(平成16年8月8日改訂)


徳川慶喜と七郎麿の銅像
徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)銅像」

茨城県水戸市 千波湖




(平成16年1月12日)

碑文

水戸藩第9代藩主斉昭公(烈公)は、弘道館、偕楽園を建設するなど、第2代藩主光圀(義公)とともに義烈両公と称され、その事績は枚挙にいとまのない藩主として知られております。
その斉昭公の七男、七郎麻呂様(慶喜公)は、水戸の地において父斉昭公の薫陶を受け、後に徳川幕府第15代将軍として、自ら近代日本の幕を開けた近世と近代の架け橋ともなった方であります。
『徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像』の建立は、21世紀に向けて、家族の原点、やさしさと厳しさを併せ持つ親子の絆を、水戸の歴史から全国に発信するものです。
斉昭公45歳、七郎麻呂様7歳を想定し、斉昭公が七郎麻呂様に世の正しい道を指し示し、七郎麻呂様がそれに応え、斉昭公を仰ぎ見るという、現代でも通じる親から子への愛情と厳しい指導を示す姿を表現しています。
近くにある「徳川光圀公像」は、日本の進むべき正しい道を見つめている姿であり、光圀公、斉昭公、そして慶喜公と先祖から代々引き継ぐ志の一貫性を表現するものであります。
今回の像の建立については、茨城県と共同で開催した大河ドラマ「徳川慶喜」展示館の収益を活用したものであり、この地を訪れる多くの方々が「徳川光圀公像」と共に水戸の三名君の像に接し、多くの感動、感激を得られますことを祈願するものであります。

平成11年11月1日
大河ドラマ「徳川慶喜」記念事業実行委員会
会長 水戸市長 岡田広
題字揮毫 茨城県知事 橋本昌
銅像製作 日展評議員 能島征ニ


徳川慶喜像 平成20年10月12日

茨城県水戸市南町3丁目・みずほ銀行近くでお会いしました。

徳川慶喜公像



徳川慶喜公像
(水戸市南町3−5−1・みずほ銀行水戸支店)





(平成20年10月12日)

碑文

徳川慶喜公は、水戸藩第9代藩主・斉昭公の7男として天保8年(1837)江戸小石川の水戸藩邸で生まれた。
幼名を七郎麻呂と称し幼少の頃に水戸に移され、弘道館で武芸や学問に励み厳しく養育された。
徳川第15代最後の将軍となったのは30歳の時である。
「封建」から「近代」へ変ぼうする混乱の時代の渦中に身を投じ、幾多の政治的困難を乗り越え、日本を内戦の危機から救うため大政奉還を成し遂げた。
余生は静岡や東京で過ごし、77歳で生涯を閉じた。

平成15年3月 水戸市
銅像制作 能島 征二


弘道館



徳川慶喜向学の地

(茨城県水戸市三の丸・弘道館)





(平成20年10月12日)

徳川慶喜向学の地

幕政を朝廷に奉還して明治維新の端を開いた最後の将軍徳川慶喜は、水戸藩第9代藩主斉昭の第7子として天保8年(1837)江戸の水戸藩邸で生まれた。
その翌年から一橋家を相続する11歳までは水戸に移され父の膝下で厳しい養育を受けた。
殊に5歳の時この弘道館が開かれると、尊王攘夷の精神で学問武藝に励み、その才知を磨いたのであった。

平成11年3月設置
水戸市教育委員会


一橋徳川家屋敷跡



一橋徳川家 屋敷跡
(東京都千代田区大手町1丁目ー3付近)




(平成16年1月27日)

一橋徳川家 屋敷跡

一橋徳川家ひとつばしとくがわけは、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗よしむねの第四子宗尹むねただ江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
一橋家・田安家・清水家は御三卿ごさんきょうと呼ばれ、御三卿は将軍家に世継がなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。
当家は、二世治済はるさだの長男家斉いえなりが十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜よしのぶであり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。


【慶喜の愚行が日本を救う】

実は慶喜ほど性格の悪い人もいない。
頭はものすごく良いが人徳というものがない。
後に幕府のために懸命に働いた会津藩を見放すのも人徳のなさが原因だが、頭が良くて人徳のない人の最大の欠点は、人を疑うということである。
なまじ頭が良いだけに、余分なことを「想定」してしまうのである。
頭は良いが人徳のない人間が、最初に考えることは「俺は絶対に騙されないぞ」である。
人を信じることよりも、騙されないということを優先する。
自分の頭の良さを誇りたいからだ。
そういう人間は他人を信頼できないから折角のチャンスを失う。

島津久光が音頭を取って参与制度を成立させたのは、幕府と朝廷との公武合体をサポートするためだった。
徳川将軍家のためだったと言ってもいい。
この時点で久光は、やはり幕府は存続させるべきだと考えていた孝明天皇の一番のお気に入りであり、その意思を実現するためにも参与制度を立ち上げたのである。
ところが慶喜は、この一連の久光の動きを、天皇の信頼を利用して徳川を押しのけ、自分が将軍になるための陰謀と考えた。
島津家は源頼朝の子孫で源氏だから、将軍になる資格はある。

そこで慶喜は二つの手を打った。
一つはこの参与制度をぶち壊すこと。
二つ目は久光と天皇の間の信頼関係を潰すことである。
慶喜はそのために酔ったふりをして会議に出て、久光をさんざん罵倒するという姑息な手段まで使った。
これは多くの人が知らないが、まったくの歴史的事実である。

とにかく慶喜は久光の苦心、久光の立場をぶち壊した。
さすが慶喜、政治の手腕は見事と言いたいところだが、客観的に見れば、これほどの大愚行はなかった。
久光は幕府存続論者だから、こののち、15代将軍となる慶喜にとって第一に味方にすべき人物だった。
その久光の面子メンツを潰し怒らせたことにより、薩摩藩は倒幕の方向に向かったのである。
もし慶喜と久光が固くタッグを組んでいたら、討幕はあり得なかったし、西郷隆盛の出番もなく、明治の近代化もなかったろう。
まさに慶喜の大失敗、大愚行が「日本を救った」のである。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月19日 追記)


【敵前逃亡した慶喜】

薩長連合軍の究極の秘密兵器は「話には聞いたことがあるが誰も見たことがないもの」だった。
「錦の御旗」といい、官軍(天皇軍)であることを示す軍旗で、略して「錦旗きんき」ともいう。
謀略の天才である公家の岩倉具視と長州の桂小五郎らが組んで、実際にその旗を作ってやろうと考えた。
職人を缶詰にして秘密裏にニ?りゅう(二本)の錦旗を作り、鳥羽伏見の戦いでこれを一?ずつ薩長軍の先頭に掲げたのである。
物見の知らせでその事実を知った将軍・徳川慶喜は腰を抜かした。
そして直ちに戦意を喪失した。

慶喜は水戸徳川家の生まれである。
水戸徳川家というのは水戸光圀(黄門)以来、勤王を第一義にした家であり、将軍家に対する忠誠よりも天皇家に対する忠誠を重んじた家柄であった。
しかも水戸徳川家の当主だった父・徳川斉昭の正室、つまり慶喜の実母は有栖川宮家の皇女であったので、慶喜には皇族の血が流れているのである。
そうした人間にとっての最大の悪事、天地がひっくり返っても絶対やってはいけないこと、それは天皇に刃向かうことであった。
部下たちはそこまで天皇に対して忠実ではないし、戦いに勝って薩長から天皇を取り返せばいいと思っていたから、戦意は旺盛だった。
しかし、慶喜だけは完全に戦う意思をなくしていた。
なんと慶喜は夜陰に紛れて大坂城を脱出し、大坂天保山沖に停泊していた幕府海軍の軍艦で江戸へ逃げ帰ってしまったのである。
総大将の敵前逃亡という、世界戦史上でも、極めてまれな、本来あり得ない事態が起こったのだ。

この後、江戸に逃げ帰った慶喜の命令を受けた勝海舟と、官軍総参謀となった西郷隆盛との交渉で、江戸城無血開城するが、実はそれ以前に大坂城も無血開城されているのだ。
慶喜は戦うことをやめ、大坂城、江戸城を無血開城に導いた。
大坂では、自分の代わりに総大将にまつりあげられる可能性のあった会津藩主・松平容保かたもりを、本人が嫌がるのも構わず江戸に連れて行き、江戸では断固戦うべしと主張した重臣・小栗上野介おぐりこうずけのすけを罷免している。
慶喜のこうした処置がなければ、大坂も江戸も無血開城など不可能だったろう。
武士の風上にも置けぬ腰抜け将軍?
その通りである。
しかし、その決断のおかげで大阪も江戸も火の海にならず、数十万の罪のない人々の生命と財産が守られた。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月19日 追記)


【「昔夢会」の筆記】

明治維新の一方の立役者である慶喜は、維新の真相にほとんど触れる事なく、大正2年(1913年)11月22日、77歳の生涯を閉じている。
亡くなる6年ほど前の明治40年(1907年)7月23日の第1回から何度かにわたって行われた慶喜に昔を聞く会「昔夢会」の筆記から、今、我々は、わずかに慶喜の肉声を感じるのみである。

慶応4年(1868年)正月3日には、鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の敗北が決している。
そして、6日夕方には、慶喜は大坂城内の大広間に将兵を集めて対策を練るが、将兵たちの慶喜出馬と更なる戦闘意欲に押され、「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」(『昔夢会筆記』第14)と命じている。
ところが、慶喜は、その夜、ひそかに大坂城の後門を脱出、開陽丸に乗って江戸にそそくさと帰ってしまった。
それも開陽丸の船将・榎本武揚を大坂に置き去りにするという慌てぶりなのである。
慶喜に同行したのは松平容保、桑名定敬、酒井忠惇、板倉勝静らわずかに4〜5人。
その時の模様を慶喜は、『昔夢会筆記』で「城門にては衛兵の咎むることもやといたく気遣いたれど、御小姓なりと詐いつわりたるに欺かれて、別に恠あやしみもせざりしは誠に僥倖ぎょうこうなりき」と述べている。
僥倖とは、つまり思いがけない幸せという意味だ。
慶喜のこの発言は、なかなか正直で、彼自身の性格を表わしている。
急遽、江戸に帰った時の心境は、「江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず」だったという。
しかし、慶喜のこの発言は、様々な憶測を呼んでいる。
それは江戸に帰ってからの行動が、必ずしも発言と一致しないからだ。

大坂城で将兵に向かって「やれ、やれ」とけしかけておいて、隙をついてさっと敵前逃亡するという行動は、考えようによっては、実に感情的に正直な人間だと言えるかもしれない。
しかし、今までの武士道のイメージからしたら、ちょっと信じられない考え方だ。
時の総大将が・・・である。

(参考:松本逸也 著 『幕末漂流』 1993年4月初版発行 (株)人間と歴史社)

(令和元年10月19日 追記)


終焉の地



徳川慶喜終焉の地
(東京都文京区春日2−8−7 財務省宿舎)





(平成18年3月11日)
終焉の地



徳川慶喜終焉の地
(東京都文京区春日2−8−7 財務省宿舎)

宿舎は廃屋のようになっていました。



(平成18年3月11日)

徳川慶喜終焉の地
(文京区春日2−8−7 大蔵省第六天町宿舎)

徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、1837年(天保8年)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
その後、御三卿の一家いっけである一橋家を相続した。
ついで幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した14代将軍家茂いえもちのあとを継ぎ、1866年(慶応2)15代将軍となった。
翌慶応3年、大政を奉還ほうかんし、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順きょうじゅんの意を表して水戸で謹慎、その後、駿府(静岡)に隠棲いんせいした。
1897年(明治30)東京の巣鴨に、明治34年、誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
現在も残るイチョウの大木の左手に、車寄せ玄関があった。
慶喜は、その後、公爵、勲一等旭日大授章を授けられた。
1913年(大正2)11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。
76歳、寛永寺墓地に葬られた。

文京区教育委員会
平成8年3月

(説明板より)

今井坂



今井坂(新坂)
(東京都文京区春日2−7と8の間)





(平成18年3月11日)

今井坂(新坂)
(文京区春日2丁目7番と8番の間)

『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺坂の西なり、案あんずるに此坂は新たに開けし坂なればとてかかる名あるならん、別に仔細しさいはあらじ、或はいふ正徳の頃(1711〜16)明けしと、」とある。
新坂の名のおこりである。
今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平かねひら桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。
ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。
慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。
慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。
現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫いちょう樹のみである。

この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈しゃく 迢空ちょうくう
(この町とは旧金富町をさす)

文京区教育委員会
平成13年3月

(説明板より)


徳川慶喜の墓



従一位勲一等徳川慶喜之墓
(東京都台東区・寛永寺墓地内)





(平成19年12月28日)

徳川慶喜公事蹟顕彰碑

従一位勲一等公爵徳川慶喜公ハ水戸藩主徳川斉昭卿ノ第7子トシテ天保八年九月二十九日生レ弘化四年一橋徳川家を相續シ慶應二年征夷大将軍ノ宣下を蒙ル
時恰モ幕末維新ノ動乱ニ會シ内ニハ尊王攘夷ノ論ノ大イニ沸騰スルアリ
外ニハ歐米列強ノ競ウテ隙ヲ窺フアリ
内憂外患天下騒然タルニ方リ公ハ世界ノ大勢ヲ洞察シ國情ノ趣クトコロヲ看破シ二百六十五年ノ幕府政権ヲ朝廷ニ奉還シテ天皇親政ノ大本ヲ復原シ以テ日本近代國家發展ノ端緒ヲ啓ク
コレ實ニ公ノ叡智英斷ノ致ストコロニシテソノ功績赫灼トシテ萬世ヲ照ラストイフベシ
維新ノ後公ハ野ニ下リテ閑雲野鶴ヲ楽シマレシガ天恩優渥篤ク勲功ヲ嘉賞アラセラレ特ニ一家ヲ創立シテ榮爵ヲ賜ハル
大正二年十一月二十二日薨去セラル
壽七十七
茲ニ明治百年祭ニアタリ公ノ偉徳ヲ追慕シ碑ヲ建テテ謹ミテ顕彰ノ誠意ヲ捧グ

昭和四十三年十一月
徳川慶喜公事蹟顕彰會

徳川慶喜墓所



徳川慶喜墓所
(東京都台東区・寛永寺墓地内)





(平成19年12月28日)

東京都指定史跡
徳川慶喜墓

所在地 台東区谷中7−2 寛永寺墓地内
指定   昭和44年3月27日

徳川慶喜(1837〜1913)は、水戸藩主徳川斉昭の第7子で、初め一橋徳川家を継ぎ、後見職として将軍家茂いえもちを補佐した。
慶応2年(1866)第15代将軍職を継いだが、翌年、大政を奉還、慶応4年(1868)正月に鳥羽伏見の戦を起こして敗れ、江戸城を明け渡した。
駿府に隠棲し、大正2年(1913)11月22日に没した。
5,600平方メートル余の墓域の中央からやや西南寄りに葺石円墳状の墳墓がある。

平成■年3月31日建設
東京都教育委員会

(説明板より)


 (関連商品のご紹介)

徳川慶喜



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