徳川好敏像 平成20年2月21日

徳川好敏 とくがわ・よしとし

明治17年(1884年)7月24日〜昭和38年(1963年)4月17日

東京都渋谷区・代々木公園でお会いしました。


徳川好敏之像



日本航空の父
徳川好敏之像
(東京都渋谷区・代々木公園)




(平成20年2月21日)

碑文

誠実 謹厳 航空に生涯を捧げた この人が明治43年(1910年)12月19日 この地代々木の原でアンリ・ファルマン機を操縦し わが国の初飛行を行い
  飛行時間 4分
  飛行距離 3000米
  飛行高度 70米
の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった

昭和39年4月17日
赤城宗徳
像作者 鋳金家 市橋敏雄

日本初飛行離陸の地




日本初飛行離陸の地

(東京都渋谷区・代々木公園)




(平成20年2月21日)
日本航空發始之地




日本航空發始之地
(東京都渋谷区・代々木公園)




(平成20年2月21日)

碑文

紀元二千六百年ヲ記念シテ此處ニ此碑ヲ建ツ蓋シ代々木ノ地タル明治四十三年十二月我國最初ノ飛行機ガ國民歓呼ノ裡ニ歴史的搏翼ヲ試ミタル所ニシテ爾来大正ノ末年ニ至ルマテ内外ノ飛行機殆ト皆ココヲ離着陸場トセリ即チ朝日新聞社ノ東西郵便飛行モ關東大震災後一時此地ヲ發着場トシソノ第一回訪欧飛行モ亦此原頭ヨリ壮擧起セリ是レ此地ヲ航空發始ノ所トナス所以三十年進展ノ跡ヲ顧ミテ感慨盡クルナシ
今ヤ皇國多事ノ秋志ヲ航空ニ有スル士■来リテ此原頭ニ俯仰シ以テ益々報國ノ赤心ヲ鼓勵スルアラバ獨リ建立者ノ本懐ノミニアラサル也

昭和15年12月
朝日新聞社

日本初飛行の地

1910年(明治43年)12月19日、当時代々木練兵場であったこの地において、徳川好敏陸軍大尉はアンリ・フォルマン式複葉機を操縦して4分間、距離3,000m、高度70mの飛行に成功した。
次いで日野熊蔵陸軍大尉も、グラーデ式単翼機により1分間、距離1,000m、高度45mの飛行に成功した。
これが日本航空史上、最初の飛行である。

日本航空発始之地記念碑
建立 朝日新聞社
設計 今井兼次
彫刻 泉二勝麿

徳川好敏之像
建立 航空同人会
彫刻 市橋敏雄

日野熊蔵之像
建立 航空五〇会
彫刻 小金丸義久

東京都
昭和49年12月

(説明板より)

代々木練兵場跡



代々木練兵場跡
(東京都渋谷区・代々木公園)





(平成20年2月21日)

1910年(明治43年)4月、陸軍の日野熊蔵大尉(陸士第10期)と徳川好敏大尉(陸士第15期)、海軍から相原四郎大尉が、飛行機の購入とその操縦の習得のためにヨーロッパに派遣された。
海軍の相原大尉は不幸にもヨーロッパで事故死。
徳川大尉はフランスでアンリ・ファルマン複葉機とブレリオ単葉機を、日野大尉はドイツでグラーデ単葉機とライセンス生産のライト複葉機をそれぞれ購入して、その操縦技術を習得した。
2人の出張は最小限で、1910年10月下旬に帰国。
飛行場は所沢が完成していなかったので、代々木練兵場を整地して使うことになった。
1910年12月19日の朝、アンリ・フォルマン1910年型で、徳川大尉は代々木練兵場を一周飛行し、日本初の公式の飛行機による飛行を記録した。
ちなみに、この飛行機の単価は8363円である。(当時、少尉の月給は40円)

参考文献:伊澤保穂著『陸軍重爆隊』

(平成21年5月9日追記)


【代用滑走路は命がけ】

徳川好敏工兵大尉がフランスからファルマン飛行機を購入して日本に帰ってきた。
彼はパリで飛行術も修得したので、早速その日本における第1回の試験飛行が代々木練兵場で行われた。
当時のフランスは世界中でもっとも飛行機の進歩した国とされていたのであり、少なくとも日本より数十年進歩していたといわねばならぬ。
ファルマン機は発動機も相当しっかりしており、機体も木製であるが相当完備したものであった。
それに比べこの飛行場は何と拙いものであろう。
代々木練兵場内の参宮道路が代用滑走路というのだから、操縦なども命がけである。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)

(令和元年12月14日 追記)


【陸軍航空界の大御所】

昭和11年8月、初めて陸軍航空兵団司令部が設立された。
従来、飛行隊は軍政上、継っ子扱いされていたので、ボスを置く必要が生じたのだ。
初代の兵団長は徳川好敏中将で52歳。
彼は東京幼年学校、士官学校を卒業後、砲工学校で砲術を専攻した。
だが気球隊に入りフランスへ留学してファルマン機の操縦を学んで帰国した。
男爵を授けられた彼は、飛行第1連隊長(大佐)として空中戦を研究し、少将時代から所沢飛行学校の校長を務めた人物である。
予備役になったのち、彼は終戦時には再度、航空士官学校校長となる。
まさに陸軍航空界の大御所と言えよう。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


【徳川好敏】

徳川好敏は明治17年7月24日、将軍家御三卿のひとつ、清水家七代目の当主・徳川篤守あつもり伯爵の嫡男として東京高田馬場の屋敷で生まれた。
明治30年、13歳で東京陸軍地方幼年学校(市ヶ谷台)に第1期生として入校。
同期生は50名で、皇族、華族、名門士族の子弟が大半を占めていた。
好敏は小柄ながら強靭な体で運動能力に優れ、剣道は柳生新影流、水泳は向井流を修めていた。
3年間の寮生活のあとは中央幼年学校に進んだ。
理数系、技術系の学科が得意で、飛行機乗りとしての基盤はここで築かれた。

入学して間もなく、父・徳川篤守が爵位を返上するという事件が起こる。
父・篤守は徳川水戸家十代藩主・徳川慶篤よしあつの二男、「最後の将軍」の徳川慶喜の甥にあたる。
明治4年、政府派遣留学生となって渡米し、コロンビア大学に留学、鳩山和夫らと同級生である。
帰国後は外務省に籍を置き、自由民権思想に基づいた社会事業、殖産興業など多方面の活動をした。
ところが、“殿様”の人のよい性格を利用され、借金、裁判沙汰に巻き込まれて、家屋敷を処分せざるを得ない状況になってしまう。
米国で自由平等主義思想を身に着けてきた篤守は、あっさりと爵位を返上し、同家は華族としての礼遇が廃止されてしまった。
この爵位返上が徳川一門で大問題となり、篤守とその家族に非難が集中した。

好敏はこの屈辱と、いわれのない非難に耐えながら2年間の中央幼年学校の後、志望の工兵科に進む。
明治36年12月、陸軍士官学校に入学。
日露戦争が迫っているため、陸軍は士官学校を1年半に短縮し、好敏は工兵科をトップで卒業した。
その後、日露戦争に従軍。
情報将校として第1軍参謀部に派遣され、満洲の馬賊にスパイ教育をする諜報活動の責任者となった。

明治43年4月、臨時軍用気球研究会(会長:長岡外史中将)は、徳川好敏にフランス、日野熊蔵にドイツでの飛行術の習得と飛行機購入の任務を与えて出張を命じた。
好敏はパリの北方約50kmの小さな町・エタンブのファルマンの飛行学校に入学した。
学生は仏、英、伊、ポーランド、ロシアなどからの12人。
当時25歳の好敏は、早速、オートバイを買って、毎朝、オートバイを飛ばして学校に一番乗りし、真っ先に同乗飛行をして技術を覚えたという。
明治43年11月8日付けで飛行機操縦免許を取得し、その後、ファルマン式複葉機などを1万5000円で購入して帰国した。

明治43年12月15日、臨時軍用気球研究会主催で、ヨーロッパから購入し操縦を取得してきたばかりの、徳川、日野の二人がテストフライトをすることとなった。
この歴史的瞬間を一目見ようと約10万人の大観衆が代々木練兵場(現・東京の代々木公園)に詰めかけた。
ところが、使用機の故障と破損、転覆事故と悪天候も重なりフライト予定日は4日間も延びてしまった。
しかし、この間にも10万人以上の熱狂的な人出は続いた。
12月19日の朝、前夜までの悪天候は収まり、日野大尉のグラーデ機が飛行準備態勢に入ったが、発動機が回転しない。
そのため徳川大尉のファルマン式複葉機に離陸許可が下りた。
じつは徳川機もトラブル続きで発電機が故障したので、応急的に硫酸式電池に切り替えて飛ぶことになっていたのである。
前では操縦舵を握り、後ろには硫酸の入った電池を背負っての操縦だったので、もし、ひっくり返りでもすれば硫酸を全身に浴びることになる。
命がけのフライトとなったが、無事に練兵場を一周したのち、みごと出発点に着陸した。
この日本最初の公式飛行記録は、わずか3分間、飛行距離3000m、滑走距離30m、高度70m、着陸距離20mだった。

徳川好敏大尉は、翌年、独学と職人芸で名機を作り、多くの飛行家を育てた伊藤音次郎に、この時の飛行の秘訣を「離陸滑走して地面から離れたら、いっぺんに高所に登ろうとせず、空気の中に階段があると思って、一段登ったら水平にして力を貯え、一段一段と登っていくことだ」と教えた。
初期のエンジンは弱く、どうしても一気に上昇できない。
「空気の階段を登るように登れ」という好敏のフライト名人技は、のちの日本パイロットの合言葉となった。

大正3年8月23日、第1次世界大戦に日本は連合国の一員としてドイツに宣戦布告した。
我が国で最初の飛行機からの攻撃となるドイツ青島要塞攻略の出動命令が気球隊に下った。
航空隊は飛行班と気球班からなり、モーリス・フールマン式飛行機など4機と気球1個が出動し、好敏は飛行班を指揮した。
空から青島ドイツ要塞を偵察し、詳細な要塞地図を軍司令部に報告したが参謀たちは、そんなに明瞭にわかるわけがないと信用しない。
参謀たちの航空への無知に呆れたが、好敏は、これ以来、空中写真の必要性を痛感し、その開発に情熱を燃やした。
11月7日、青島は陥落しドイツ軍が降伏。
空からの爆撃の成功で大正4年12月、飛行、気球中隊を合わせて航空大隊が結成された。
好敏は日本陸軍最初の航空部隊の初代飛行中隊長となる。
その後、所沢飛行機学校、陸軍航空学校教官、研究部長を歴任。
陸軍航空部隊の発展に尽くし、さらに民間航空の発展・育成にも取り組んだ。

昭和3年(1928)11月、好敏の長年にわたる日本航空界への功績に対し、異例の「男爵」が授与された。
これにより父の名誉を回復できたと好敏は大いに喜び谷中の徳川家墓地の父の霊前に報告した。
これ以来、我が国ではもちろん、世界からも「バロン徳川」「日本航空界の開祖」として一層の人気を集めた。

昭和5年8月、好敏は陸軍少将になる。
昭和11年8月、航空兵団司令部が東京に編成され、徳川好敏中将は航空兵団長となった。
この部隊は天皇に直隷していて内地の航空部隊を統一して指揮するため、文字通り“空軍”のトップに座ったことになる。

好敏は、その長い航空歴のなかでも死亡事故や大事故を起こさなかった名パイロットとしても名を残している。
これは彼が飛行技術とマシンへの知識に優れ、周到な準備と点検を怠らず、細心かつ大胆な性格であったことを示す証左でもある。
航空学校長時代、専用機を100時間ほど飛ばすと、必ず発動機を分解して材料廠にエンジンの消耗度を測定させて詳しく調査研究したというエピソードからもうかがえる。

昭和35年10月、かつて戦ったアメリカ空軍から「日米修好百年」「日本航空五十年」を記念しての招待状が届いた。
75歳の好敏は老体をおしてパン・アメリカン航空のボーイング707ジェット旅客機に乗って米国、ヨーロッパ、世界旅行に旅だった。
米国では、ライト兄弟から直接操縦を習った米国最年長のパイロット、ベンジャミン・フロア少将(81歳)が出迎え、終始付き添って米国内を案内した。

この3年後の昭和38年5月、好敏は78歳で亡くなった。

(参考:前坂俊之「殿様飛行士 徳川好敏」・『歴史読本・2012年8月号』所収)

(平成29年4月6日 追記)


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