文久3年1月25日(1863年3月14日)〜昭和32年(1957年)11月2日
本名は猪一郎いいちろう。
父親の一敬かずたかは横井小楠の高弟。
徳富蘆花は弟。
熊本洋学校を経て同志社に学ぶ。
熊本で大江義塾を経営。
明治20年(1887年)民友社を創立して雑誌『国民之友』を、3年後には『国民新聞』を創刊し、平民主義を唱えて言論人としての地位を確立する。
日清戦争後は国家主義的論調の時局論を展開。
政治的には桂太郎と密接な関係を持った。
明治30年(1897年)内務省勅任参事官に就任する。
明治34年(1901年)、福沢諭吉が『痩せ我慢の説』を時事新報に掲載し、蘇峰と論争となる。
昭和4年(1929年)、国民新聞社を退社するが、言論活動は生涯継続した。
修史事業をライフワークとして『近世日本国民史』100巻を完成。
他に200冊近い著作がある。
第2次世界大戦中には大日本文学報国会・大日本言論報国会の会長に就任する。
戦後はA級戦犯容疑者となった。
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徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸 (大江義塾跡) (熊本市大江4−10−33) (平成23年2月9日) |
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徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸(大江義塾跡)
蘇峰、蘆花兄弟が父淇水の任官に伴い明治3年に水俣から移ってきて、19年、東京へ出るまでの間住んでいた。
蘇峰は、少年時代、島崎の兼坂塾や熊本洋学校に学び、5年間の東京・京都遊学の後、15年には19歳で、ここに大江義塾を開設した。
蘆花は明治の文豪として活躍したが、幼少の折ここから間近に見た明治9年の神風連の変を、後に出版した『青山青雲』の中の「恐ろしき一夜」と題する小品に書いている。
(説明標柱より)
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明治天皇行在所の一部 (平成23年2月9日) |
明治天皇行在所あんざいしょの一部
この部屋は明治5年に移築されたものです。
この年の6月、明治天皇が熊本に行幸になりました。
その時、新町の会輔堂(今の一新幼稚園)が行在所になり、そこに厠かわや(お手洗い)が新築されました。
その厠は御使用になりませんでしたので、御還幸の後、当時、県の七等出仕(上級役員)であった徳富一敬が払下げを受けてわが家につぎ足したものです。
(説明板より)
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大江義塾草創期の教室 (平成23年2月9日) |
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大江義塾草創期の教室
この棟は明治3年に徳富家が水俣から移ってきた以前からあった建物です。
旧藩士の家であったということですが、元田永孚(のち、明治天皇の侍講となる)の世話で手に入れたものです。
明治15年、蘇峰はここに大江義塾を開設しました。
開校当時はこの部屋が教室となりました。
(説明板より)
【蘇峰と大江義塾】
明治9年1月の末の花岡山での、キリスト教信仰の誓いに参加して、熊本を追われた蘇峰は、同志社に学び、明治13年暮れに帰ってきました。
時は自由民権運動が盛んで、彼もさっそくその運動にとびこみます。
そして民権私塾といわれる大江義塾を建てたのです。
この塾には、のちに孫文を授けて中国革命に尽した宮崎滔天とうてんもやってきたように、多くの明治の有能な青年たちが学びました。
蘇峰は上京しては、板垣退助と会ったり、田口卯吉、中江兆民、馬場辰猪らと話したり、塾生を連れて土佐の自由民権運動家たちに会いに行ったりしています。
この学校は、自由平等の思想が根本にありましたので、塾内で蘇峰は自分のことを「先生」と呼ばせないで、「猪一郎さん」でした。
アメリカの総合雑誌「ネーション」や「ライブラリー・マガジン」を購入し、塾生たちにも読ませました。
教育内容は主にイギリス19世紀の歴史、政治、経済を導き入れました。
「自由・道徳及儒教主義」(明17)という本も出しています。
やがて明治19年になり「将来之日本」という本が出きました。
東京で大変な評判になったので、意を決した蘇峰は大江義塾を閉ざし、一家をあげて上京することにしたのでした。
明治20年、東京に民友社を設立し、「国民之友」という雑誌を発行して、華々しく活躍することになるのですが、その蘇峰が、じっくりと勉強したのがこの大江の家であり、塾生と討議を重ねて思想を練ったのが大江義塾であったのです。
(リーフレット『徳富記念園』より)
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徳富記念館 (平成23年2月9日) |
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西暦 | 年号 | 年齢 | 経歴 |
1863 | 文久 3 | 0 | 1月25日(新暦3月15日)徳富家の長男として、母久子の郷里熊本県上益城郡津森村杉堂(現・益城町)に生まれ、3ヶ月後、水俣に帰る。 |
1870 | 明治 3 | 7 | 父・一敬(淇水)、熊本藩庁に招かれ、一家は熊本に移る。 |
1871 | 明治 4 | 8 | 元田東野塾、竹崎律次郎塾で学んだ後、兼坂止水塾(石神山中腹)に移り、頼山陽の『日本外史』、福沢諭吉の『世界国尽くにづくし』等を読む。 |
1873 | 明治 6 | 10 | 6月 熊本洋学校に入学するが、間もなく退学。 11月 父・一敬、藩庁役人を辞職。 |
1875 | 明治 8 | 12 | 9月 熊本洋学校に再入学。 |
1876 | 明治 9 | 13 | 1月30日の熊本バンド事件に参加して洋学校を退学。 8月 新聞記者を目指して上京。 叔父・江口家と繋がりの慶應義塾ではなく旧制第一高等学校の前身・東京英学校に入学したが2ヶ月ほどで退学。 10月20日 同志社英学校に移る。 |
1878 | 明治11 | 15 | 熊本に帰り、弟・健次郎を連れて上洛。 同志社英学校に入学させる。 |
1880 | 明治13 | 17 | 5月30日 同志社英学校を退学(6月30日に卒業予定) 11月 帰熊する。 |
1881 | 明治14 | 18 | 東肥新報の編集を助け、大江逸のペンネームで社説を書く。 |
1882 | 明治15 | 19 | 3月 熊本大江村に「大江義塾」を開く。 |
1883 | 明治16 | 20 | 1月 9代徳富家の戸主となる。 各種新聞雑誌に寄稿。 |
1884 | 明治17 | 21 | 9月、静子(津留子)婦人を迎える。 |
1885 | 明治18 | 22 | 大江義塾の名声天下に広がり、塾生100名となる。 『第19世紀日本の青年及其教育』を出版。 |
1886 | 明治19 | 23 | 『将来之日本』を自費出版。 一躍ベストセラーになる。 11月 大江塾を閉じ、12月3日 一家を挙げて東京に移る。 |
1887 | 明治20 | 24 | 民友社を創立し、2月に雑誌『国民之友』を発刊。 蘇峰と号す。 |
1890 | 明治23 | 27 | 2月 「国民新聞社」を創立し『国民新聞』を発刊。 社長兼主筆となる。 同志社大学設立に尽力する。 |
1892 | 明治25 | 29 | 伊藤博文内閣の藩閥政治を攻撃し、度々新聞の発行停止を受ける。 |
1893 | 明治26 | 30 | 赤坂区氷川町 勝海舟の借家に転居。 |
1896 | 明治29 | 33 | 欧米旅行に出て、10月 ロシアにトルストイを訪ねる。 |
1898 | 明治31 | 36 | 東京都赤坂区南青山に自宅「青山草堂」を購入する。 |
1904 | 明治37 | 41 | 日露戦争勃発。 桂太郎首相の委嘱を受け国論の統一に尽力する。 |
1905 | 明治38 | 42 | 9月5日 国民新聞は日露講和問題で暴徒の焼打ち(襲撃)に遭う。 |
1910 | 明治43 | 47 | 「京城日報」の監督となる。 大正7年まで東京→京城閣を往来。 |
1911 | 明治44 | 48 | 8月 貴族院議員に勅選される。 |
1913 | 大正 2 | 50 | 桂太郎内閣の擁護が世相の反発を強め、第2回の焼打ちに遭う。 |
1914 | 大正 3 | 51 | 5月26日 父・一敬逝去(92歳) |
1918 | 大正 7 | 55 | 『近世日本国民史』を7月1日より国民新聞に連載。 |
1919 | 大正 8 | 56 | 2月18日 母・久子逝去(91歳) |
1922 | 大正11 | 59 | 静子夫人を同伴し、九州旅行。 5月12日大江旧居を訪ね、18日阿蘇見物の折り「大観峰」を命名。 11月 神奈川県逗子「老竜庵」に移り住む。 |
1923 | 大正12 | 60 | 9月1日 関東大震災により国民新聞社・民友社共に全壊。 |
1924 | 大正13 | 61 | 晩春、東京大森に「山王草堂」落成し、一家はここに移る。 9月 次男万熊病没。 |
1926 | 大正15 | 63 | 4月 東京京橋加賀町に新築中の国民新聞社屋完成。 |
1927 | 昭和 2 | 64 | 9月18日 弟・健次郎(蘆花)逝去(59歳) |
1928 | 昭和 3 | 65 | 3月 国民新聞13,000号 5月 文章報国40周年祝賀会が盛大に開催される。 |
1929 | 昭和 4 | 66 | 1月5日 国民新聞社引退を表明。 3月 大阪毎日、東京日日の社賓となる。 |
1931 | 昭和 6 | 68 | 9月 長男・多太雄病没。 |
1932 | 昭和 7 | 69 | 双宜荘(別荘)を山中湖畔に建て、昭和20年まで夏場を過ごす。 後に同志社に寄贈。 |
1934 | 昭和 9 | 71 | 9月 帝国ホテルで『近世日本国民史50巻』刊行記念祝賀会。 |
1937 | 昭和12 | 74 | 6月 帝国芸術院会員。 |
1942 | 昭和17 | 79 | 大日本言論報国会会長 |
1943 | 昭和18 | 80 | 4月 文化勲章受賞。 熱海市伊豆山「晩晴草堂」に移り住む。 12月1日 女性秘書・八重樫祈美子(東香)、5女・盛子、同日に歿す(共に39歳) |
1945 | 昭和20 | 82 | 8月15日 終戦。 12月 A級戦犯容疑。 |
1946 | 昭和21 | 83 | 家督を孫・敬太郎に譲り、一切の公職栄誉を辞退する。 |
1947 | 昭和22 | 84 | 9月 戦犯容疑解除。 10月24日 4男・武雄歿(39歳) |
1948 | 昭和23 | 85 | 11月7日 静子夫人逝去(81歳) |
1952 | 昭和27 | 89 | 4月20日 『近世日本国民史』第百巻を完結。 |
1955 | 昭和30 | 92 | 熊本市名誉市民顕彰。 |
1957 | 昭和32 | 94 | 11月2日 午後9時35分 熱海の晩晴草堂において逝去(94歳) 墓は東京・多磨霊園。 |
(チラシより)
【蘇峰夫人・静子】
本名:津留つる
慶応3年11月10日生
昭和23年11月7日没 (82歳)
細川藩士・倉園又三郎の長女で幼少の折りから気だて優しく穏和な性格であった。
親が徳富家と懇意であり、明治17年8月、18歳で蘇峰の妻となる。
結婚後、舅・一敬の「女は貞淑平静がよい」ということから静子と改名した。
徳富家のために実によく働き、例えば、東京での生活が35年にもなろうとする青山草堂時代でさえ、上野や浅草など名所を殆ど知らなかった。
姑・久子は人を呼ぶのが好きで、来客が頻繁であったが、「てんやもの」を出すのを嫌う久子のため手作りの食事でもてなし続けたのも静子である。
そこで、やかましものの姑・久子からも我が娘のような待遇を受け、婦人矯風会にも第2回から同席した。
病床に伏した時、蘇峰は「大変苦労かけた、どんなに金をかけても、もう一度丈夫にしたい」と看護婦2人を雇って回復を願った。
良き嫁、善良な妻、良き母として感謝され恋しがられながら人生の幕を閉じたのである。
(リーフレット『蘇峰と蘆花をめぐる女性たち』より)
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徳富記念園(大江義塾跡・徳富旧邸) (熊本市大江4−10−33) (平成23年2月9日) |
徳富記念公園について
ここは、明治3年から徳富蘇峰・蘆花兄弟が幼少時代を過ごした徳富旧邸であり、明治15年から同19年まで蘇峰の設立した大江義塾の旧跡であります。
徳富家は明治19年に一家をあげて上京しましたが、その旧邸は河田家によって保存され、昭和37年熊本市に寄贈されました。
熊本市では明治百年記念事業の一つとして旧邸の整備と記念館の建設を行ない、徳富兄弟ゆかりの遺品類を展示しています。
(説明板より)
【平民主義】
徳富蘇峰は「平民主義」を掲げた。
それは、一方では自由民権の平等主義に連なり、他方で、平民が国民性の実質を有するからには、国民主義にも通じるという類のものであった。
そして蘇峰は、日清戦争を経由するなかで、平民主義を帝国主義(国権主義)へと政治化していった。
しかしこれは蘇峰の転向などではない。
日本人の国民としての平民意識を政治の場において論じると、当時の状況を反映して、軍国の精神を、さらにいえば帝国の精神を持たねばならぬと考えるようになっただけのことである。
(参考: 西部邁 著 『国民の道徳』 扶桑社 平成12年11月 第2刷発行)
(令和2年9月1日 追記)
【諜報工作】
蘇峰といえば「平民主義」の旗手から「藩閥政治」擁護に豹変した明治の言論人として知られる。
蘇峰は日清戦争後に独仏露の三国干渉を見て、「涙さえ出ないほどの口惜しさ」をおぼえたという。
そして日露戦争の勃発。
とにかく変節で捉えられる蘇峰だが、拓殖大学の澤田次郎教授は「リアリストの見地」から国際情勢を見ていた点では不変であったことに注目する。
蘇峰はロシアの南下を抑えるために、英国と提携することを考えた。
海外に出向いて英国抱き込み工作に奔走し、他方でロシア情報を収集する。
ジャーナリストの顔をした諜報工作である。
ロシアが満州を侵食すれば、東アジアのパワー・バランスが崩れる。
蘇峰は海洋国家の日米英が組んで大陸国家のロシアを封じ込め、東アジアの勢力均衡を保つことを考えている。
蘇峰の動きもあって日英同盟が成立し、やがて日本は日露戦争に勝利する。
日露戦争の勝利は、欧米の植民地支配下にあった多くのアジア諸国の人々を勇気づけた。
その際、蘇峰は世界の海軍大国の英国と同盟を結ぶことで、国民に依頼心が生じる懸念を抱く。
「国民的依頼心は、実に賤し可きの極たり」
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
徳富蘇峰
海色かいしょく山光さんこう信まことに美びなるかな
更に懐おもう頼子らいしの出群しゅつぐんの才を
淋離りんりたる大筆だいひつ精忠せいちゅうの気き
維新の偉業を振起しんきして来たる
熊本の人、徳富蘆花の兄、上京して民友社をつくり国民新聞を創刊、その大著「近世日本国民史」は、頼山陽以後の在野の史家の第一人者といわれた。
(説明板より)
徳富蘇峰植樹の碑
徳富蘇峰(本名 猪一郎いいちろう、徳富蘆花とくとみろかの兄)は明治の言論人。
肥後の生まれで、熊本洋学校をへて、同志社に学ぶ。
政治的には桂太郎と密接な関係を持った。
明治41年自身の著述「吉田松陰」発刊にあたり植樹をおこない、碑を建立した。
(説明板より)
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松陰神社 (東京都世田谷区若林4−35−1) (平成20年7月4日) |
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松陰神社 (東京都世田谷区若林4−35−1) (平成20年7月4日) |
松陰神社
ご祭神 吉田寅次郎藤原矩方命よしだとらじろうふじわらののりかたのみこと(吉田松陰 先生)
松陰先生は、幕末の思想家、教育者で私塾松下村塾を主宰しゅさいし、明治維新を成し遂げた多くの若者を教育しました。
しかし、安政の大獄に連座し江戸の伝馬町の獄中にて30歳の若さで刑死されました。
その4年後の文久3年(1863)に、松陰先生の門下生であった高杉晋作、伊藤博文等によって、当時長州毛利藩藩主毛利大膳大夫もうりだいぜんだゆうの所領で大夫山だいぶやまと呼ばれていたこの地に改葬されました。
明治15年(1882)11月松陰先生門下の人々が相談し、墓畔ぼはんに社やしろを築いて先生の御霊みたまを祀り神社が創建されました。
(説明板より)
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