巴御前 ともえごぜん

生没年不詳


源義仲の従者・妾。
父親は中原兼遠。
「平家物語」諸伝本に容貌にすぐれた一騎当千の大将として描かれ、しだいに伝説化した。
義仲の挙兵に従い入洛。
元歴元年(1184)義仲の討ち死に直前まで防戦につとめ、故郷に戻ったという。


巴塚



巴塚(供養塚)
(滋賀県大津市・義仲寺)




(平成17年4月9日)

巴塚(供養塚)

木曽義仲の愛妻巴は義仲と共に討死の覚悟で此処粟津野に来たが義仲が強いての言葉に最後の戦を行い敵将恩田八郎を討ち取り、涙ながらに落ち延びた後、鎌倉幕府に捕らえられた和田義盛の妻となり義盛戦死のあとは尼僧となり各地を廻り当地に暫く止まり、亡き義仲の菩提を弔っていたという
それより何処ともなく立ち去り信州木曽で90歳の生涯を閉じたと云う

(説明板より)

義仲寺


義仲寺
(滋賀県大津市馬場1−5−12)





(平成17年4月9日)

義仲寺ぎちゅうじ

義仲寺は、大津市馬場1丁目にあり、旧東海道に沿っている。
このあたり、古くは粟津ヶ原あわづがはらといい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。
朝日将軍木曽義仲きそよしなか公の御墓所である。
治承じしょう4年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永じゅえい2年(1183)5月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、7月京都に入られた。
翌寿永3年正月20日(4月改元して元暦げんりゃく元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼のりより、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。
享年31歳。
その後、年あって、見目麗みめうるわしい尼僧にそうが、この公の御墓所のほとりに草庵そうあんを結び、日々の供養ねんごろであった。
里人さとびとがいぶかって問うと、「われは名も無き女性にょしょう」と答えるのみである。
この尼あまこそ、義仲公の側室そくしつ巴御前ともえごぜんの後身こうしんであった。
尼の没後、この庵は「無名庵むみょうあん」ととなえられ、あるいは巴ともえ寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安こうあんごろの文書に見られる。
時代は移り、戦国のころには、当寺も大いに荒廃した。
時に近江おうみ国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次とじ、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓ふんぼ荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。
そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺みいでらに属した。
貞享じょうきょう年間(1684〜8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。
元禄げんろく7年(1694)10月12日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸からは木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
明和めいわ6年(1769)に蝶夢ちょうむ法師の中興ちゅうこうがあり、その後も、安政3年(1856)の火災、明治29年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治45年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戦後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、潰滅に瀕ひんした。
ここにおいて、昭和40年(1965)、三井寺円満えんまん院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌しぐれきに昭和再建落慶らっけいの法要を行った。
この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志とくし家の寄進によったもので、子細しさいは境内けいだいの昭和再建碑に記されている。
昭和51年(1976)、無名庵、粟津文庫を拡張新造し、資料観、手洗所を新築し、防火用水の設備等をことごとく施工した。
古くから当寺内御鎮座の木曽八幡はちまん社の新造遷宮せんぐうは、落慶式前夜に厳修ごんしゅうした。
落慶の法要は昭和51年時雨忌であった。
これらの土木建築及び落慶の一切の費用は、京都に本社を置く一教育出版社の寄進によったのである。
また、山門の新築は昭和60年(1985)である。
本寺は、昭和42年11月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

(「義仲寺案内」チラシより)

案内

拝観料:大人200円
拝観時間:午前9時〜午後5時(ただし、11月〜2月は午後4時まで)
休日:毎週月曜日(月曜日が祝日、振替休日のときは開門)

(説明板より)


平家物語



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